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 病院を出てからしばらくすると雨は止んで、街は久々に静けさを取り戻していた。それでも、道行く大人たちは憂鬱な表情を浮かべたままだ。空には灰色の空が重く腰かけている。もうひと雨くらい、降ってもおかしくないだろう。

 雨粒を受けて濡れた傘を畳み、あてもなく街を彷徨う。普段なら早く家へ帰りたいとばかり考えてしまうが、どうも気乗りしない。知っている人とは話をしたくない気分だった。誰かに会ってしまうと、行き場の無い感情をぶつけてしまいそうだから。

 仕方なく、自販機で百円の安いブラックのコーヒーを買った。街中の自販機にはもちろんのことながら、温かい商品など置いていない。冷たいコーヒーは、持っているだけでも蒸し暑い気温にちょうど良かった。そのまま、近くにあった公園の屋根付きのベンチに腰を掛けた。木製のベンチは湿気を吸い込んでいるせいで、ひんやりとしている。

 プルタブを引いて、飲み口へと口を付ける。苦いコーヒーの味が口の中に広がっていった。いつも買うものと違うせいか、舌の上で嫌に残る。今の心の中身を吐き出してしまうと、こんな味をしているのかもしれないな、なんて思った。

 僕は一体、音切になんて言葉をかければ良かったのだろう。精一杯生きろ、だろうか。もう一度やり直せばいい、だろうか。それとも、僕が救ってやる、だろうか。どれも無理なことだと証明されたのも同然なのに、彼女へと言うべきだったのだろうか。そんな幻を今更になって見せたところで救われるわけがない。もうとっくに、僕は音切の外側に差している影であり、終わりを迎える少女の世界を作っているものは、自分自身しかないのだ。

 コーヒーは手に持っているとすぐに温くなってしまった。せっかく程良く冷えた手も、すぐに温かさを取り戻してくる。

 きっと、僕たちは生きにくい世の中で、お互いに温め合える存在を見つけた。なのに、結局はその冷たさに勝てなかったのだ。いや、そう思いこみたい僕の答えなのかもしれない。僕を最終的に繋ぎ止め、彼女を否定させるに至ったものは、普通だったのだと思う。人を殺してはいけませんとか、復讐はいけませんとか、学校で習うような普通。理性だと信じていたものは臆病で、それを捨ててまで音切を助けられるだけの覚悟が、本当はなかった。

 上を仰ぎ、残り少ないコーヒーを流し込んだ。屋根の裏にはどうやって書いたのか、仕様もない落書きがいくつも書かれていた。常温で冷たさを失った液体の渋い苦さが身体の中心を通っていく。ここまで苦いブラックを飲んだのは初めてかもしれない。

 そのまま、しばらく分厚い灰色の天蓋を見つめていた。向こう側に隠れている太陽は今、どのあたりにいるのだろう。想像してみたけれど、さっぱり分からなかった。

 もう帰ろう。昨日から色々なことがあったせいか、気付けば肩も腰も凝りが酷く、早く休ませろと訴えてきていた。

 立ち上がり音切がいつもやっているみたいに全身を伸ばすと、タイミングを見計らったかのようにポケットのスマホが震えだした。

 取り出した画面にはさっき登録した蓮さんの名前が表示されていた。どうやら何回かかけてきていたらしく、不在着信の通知が表示されている。

 何か急用でも思い出したのかと思い、慌てて通話ボタンを押す。

「もしもし、平井です」

『平井君? 繋がって良かった。今どこにいる?』

 どこと聞かれても公園に居ますなんて言えず、病院から帰っているところです、と適当に誤魔化した。

『そうか……』

 スピーカーからは聞こえてくる蓮さんの声に、嫌な予感を感じた。もしかして、音切の身に何かあったのだろうか。公園を横切るサラリーマンや小学生が、ちらちらと僕の方へと視線を送ってくるけれど、そんなことを気にすることができるくらいの余裕なんてなかった。

「どうかしたんですか?」

 半ば不安を感じながらも、電話越しの彼に聞いてみる。生唾を飲み込む感覚が、全身に響く。本当は何も聞きたくなんてない。これ以上、嫌なことを耳にするのはもううんざりなのだ。だけど、その反面、聞かなくてはならないという義務感めいたものもあった。

『華乃が病院から抜け出した』

 その一言で、僕の視界は暗転した。

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