第4章 鮮夜

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 絶望とは一体、何なのだろう。全身を締め付けるような残酷すぎる現実のことだろうか。不透明な最悪を孕んだ未来のことだろうか。それとも、牙をむき出しにしながら忍び寄ってくる過去のことだろうか。多分、どれも正解に違いない。絶望は大きな蛇のような存在なのだと思う。気付いた時には胃の中に落とされていて、溶かされ、死を待つしかなくなってしまう。

 今まさに、そいつが僕の全身に巻き付いて、頭から飲み込もうとしている。思考は曖昧で、何を考えても泡のようにすぐ消えていく。全部が全部、どう転んでもいいと思ってしまう。薄暗い病院の廊下で、降り続ける雨の様子を静かに見つめる。湿気た空気と病院特有の薬のにおいが纏わりついてきても、不快とさえ感じなかった。

 音切は昨日、僕たちを探していた彼女の兄に見つかって、すぐに病院へと運ばれた。僕はそのまま蓮さんと共に病院へと行き、倒れた原因を聞いた。どうやら、食生活の乱れによる栄養失調と、雨に長時間打たれたことによる体力の低下が、運悪く重なったかららしい。コンクリートに打ち付けて怪我をした頭は、そこまで酷くならなかったのは不幸中の幸いだ。念のため、明日まで入院するということで話は落ち着いていた。

 事情を聞きたいと彼女の兄から言われた僕は今日、彼女の病室の前で待ち惚けている。部屋で待つことはできなかった。顔を見たところで、昨日のように話せる自信なんてないからだ。僕は彼女が生き長らえたと聞いて、内心ほっとしてしまっている。殺してやると言った相手に、どんな顔をして会えばいいのだろう。倒れた時、ちゃんと首を絞めていれば良かったのだろう。だけど、僕にはできなかった。死者を彷彿させる青白い肌と、流れていく血液を見て、僕は怖気づいてしまったのだ。もしも僕が彼女の首を本当に絞めていたら、そうして息絶えていたのかもしれない。覚悟なんてものは簡単に打ち砕かれてしまい、雨曝しになりながら茫然と、横たわる姿を見ていることしかできなかった。

 脳裏に浮かんできた昨日の光景を思い出し、自分の手を見遣る。まだ冷たさがそこには残っていた。それが彼女から感じ取ったものなのか、僕自身のものなのかは判然としない。唯一つ言えるのは、身体が生きていても、心は死んでいるということだ。彼女を救える手段を失ってしまった。この先、僕はどうすればいいのだろう。やっぱり、答えてくれる自分は、どこにもいない。

「平井君、待たせたね」

 声のした方へと顔を向けると、紙袋を持った蓮さんがいた。黒いTシャツにジーパンで、昨日とは違ってラフな格好をしている。

「お仕事、今日は休みなんですか?」

「無理言って休ませてもらったよ。そういう君こそ、学校はいいのかい?」

 彼の質問には答えず、僕は黙った。まあいいや、と心なしか呆れたように笑って、蓮さんは隣に腰を下ろした。古いベンチソファが人ひとり分沈む感覚が伝わってくる。そして、紙袋の中から取り出したコーヒー缶を一本、僕へと渡してくれた。夏場にしては珍しく、温かいものだった。指の節々に温度が染みてくる。

「屋内って冷房ガンガンで冷えるだろう? 冷たい方が良かったら買ってくるけど」

「いえ、お構いなく」

 そう、と呟き蓮さんは自分の缶コーヒーのプルタブを押した。彼の飲んでいるものも、温かい方なのだろうか。

「それで、昨日のことを聞かせてほしいんだけど」

 一息つくと早速、話を振られた。蓮さんはこちらを見てくるけれど、僕はじっと、貰ったコーヒーの飲み口へと視線を落とすことしかできない。全体的に丸っこい形をしているせいか、笑われていてるかのように見えた。

「昨日、言った通りです。見つけて連れて帰ろうとした時、急に音切は倒れたんです」

 同じ説明をもう一度繰り返す。だけど、どうしてもそれでは納得できないらしく、蓮さんは何か隠しているだろう、と問い詰めてきた。僕は返事をできず、黙って目を伏せたまま、少しでも彼が視界に入らないよう、前かがみになる。

「沈黙は肯定と捉えていいんだね」

「好きにしてください。僕は話すことを話しましたから」

 できるだけ平静を装いたかったけれど、語気はどことなく強くなり、つっけんどんに返してしまう。仕方ないだろう。隣に座っているのは、音切の仇とも言える存在なのだから。そんな人間へ、事情を知ってしまった僕の口から、彼女の本心を話すことなんて到底できるはずもない。妙に喉が渇いてしまい、僕は頂いたコーヒーを開けて口へ流した。豆の良い香りが鼻の奥で広がり、柔和な苦味が食道から胃の底へと落ちていく。上を向いた時、視界の隅に映った彼は、こちらをジッと見つめていた。

「まあ、なんでもいいよ。君と華乃との秘密だって言うのなら構わない」

 納得したようなこと言ってから立ち上がり、彼は少し伸びをした。座った視点から見ると、身長の高さをより一層、実感する。

「これ、君から華乃に渡しておいてよ。着替えとか色々入ってるからさ」

 廊下の床に置かれたままの紙袋を指さして、蓮さんはじゃあ、と手を振って去ろうとする。僕はその呆気なさに意表を突かれて腰を上げて、もう帰るんですか、と彼を引き留めてしまった。

「意地悪なこと言うね。俺と会った時の華乃、見たでしょ? あんな風になるんだから、会えるわけないじゃないか」

「それは……そうですけど……」

 口にしておいて、失言だったと後悔する。彼は気にしていない素振りだが、頭には血が上っているのだろう。僕を映す瞳は真っ暗で、やはりそこには何かが蠢いているように思えた。

「そうだ、忘れてた。俺は華乃の家で留守番しておくことにするから何かあった時のために電話番号、交換しておいてもいいかな」

 僕は了承して、電話番号を伝えた。すぐにワン切りされて、着信履歴に残った番号を、電話帳へと登録する。

「もし繋がらなかったら、この住所のところに直接来てくれていいからね」

 よろしく頼むよ、と言い、住所と簡単な地図の書かれたメモを渡してくる。そして、そのまま廊下の先へと進み、一度も振り返ることなく角を曲がってしまった。僕は別れの挨拶すら声に出せないまま、茫然と佇んでいるだけだった。後に残っているのは、木枯らしの後の道のように取っ散らかった気分だけだ。やっぱり、蓮さんに真実を語るべきだったのだろうか。あなたの妹はあなたを憎み、心の底から殺意を持っていると告げれば、あの人は自分の罪の重さで押し潰されてくれたかもしれない。酷いことだと分かっていながらも、彼には自らの手で自分の命を捨ててほしい。音切が手を汚すことなく、僕が罪を背負うこともなく、生きることの罪に気付いて、妹を殴ったその拳で魂を叩き潰してくれることこそ、誰しもにとっても最適な救いなのだと思う。その反面、僕の頭の片隅には、否定する存在もいた。音切が実の兄に手をかけることも、僕がその意志を継いで彼を殺そうとすることも、蓮さんが自害することも、全て間違いであると。それこそ、いつか彼女と話していた理性による拒絶なのだろう。僕はどうすればいいのか分からず、立ち止まったままだ。だけど、終わりのない物語なんてないように、いつかは結末が必ず訪れてしまう。きっと、選択を渋ったままその時を迎えてしまえばまた、馬鹿みたいに後悔をするのだろう。ならばいっそ、誰かに決めてもらえるのなら、何も考えず喜んで従うのに。

 廊下を通り過ぎていく看護師に一瞥されて、しばらくぼうっと突っ立っていたことに気付いた。紙袋を手に取り、病室のドアの前に立つ。蓮さんは会えるわけないと言っていたけれど、僕だって彼女には合わせる顔がないのだ。だけど、彼よりかはマシな方だろう、と無理矢理に楽観的な思考へとシフトさせ、ノックをしてから部屋のドアを引いた。

 病室は外よりも涼しく、心地いい。音切の入院している部屋は個室で、細く短い通路の奥に部屋が広がっている。照明は点けられておらず、外から差す鈍い灰色の光だけが、光源となっていた。彼女が寝ているのか、起きているのかは分からないが、部屋には小さく『メヌエット』が流れている。

 僕は火に吸い寄せられる虫のように、奥へと進んでいく。手に提げる紙袋の持ち手は、緊張から噴き出す汗のせいで、しっとりと湿っていた。

 ベッドの上で彼女は窓の方を向いており、顔は見えず、起きているのか寝ているのか分からない。腕には点滴液の入った容器から伸びたチューブが刺さっていて、一定の間隔で液体が落ちていた。

「音切、起きてる?」

 声をかけると、ゆっくりとこちらへと顔を向けてきた。仄暗い影のかかった顔に表情はなく、ぼうっとした眼差しで僕を見つめてくる。肌の色は昨日よりか良くなってはいるみたいだけど、頭に包帯が巻かれており、綺麗だった髪は艶を失い荒れていた。僕は許可を取ることもなく、ベッドの傍らに置かれた丸椅子へと腰かける。その様子に、彼女は無言で視線を送り続けていた。

 ベッド周りは簡素なので、花もなければ、誰かからのお見舞い品もない。着替えやらタオルやらの必要なものと、備え付けのテレビなどに加えて、申し訳程度に音楽を垂れ流すラジカセが置かれているだけだ。サイドチェストに音切の兄から預かった紙袋を置いて、お兄さんから、と伝えた。でも、彼女は反応を見せずに、じっと僕の顔へ目を遣ったままでいる。

 その後も、調子はどう、とかよく寝れた、とか話題を振ってみたけれど、ずっと虚ろな目で僕を見ているだけで、答えてくれる様子はなかった。きっと、昨日のことを触れないようにしている態度が、わざとらしく見えてしまうからだろう。なんだか、彼女に睨まれているような気さえしてきた。僕は、心の中まで見透かされまいと、必死に笑顔を作って話し続ける。まるで自分が道化師にでもなったようだった。

 結局、話せることもなくなってしまい、二人の沈黙の合間にはラジカセから聞こえてくる音楽が横たわる。曲は相変わらずメヌエットのままだ。どうやらそれしか入っていないらしく、春の陽気の中で楽しそうに踊るようなピアノの音色が、気を狂わせそうなほど正確なリズムでリピートされていた。

 音切は核心に触れない僕から視線を剥がし、再び窓へと顔を背けてしまう。外の雨はまだまだ勢いの衰えることを知らない。エアコンは点いていて、快適な室温のはずなのに、湿っぽい空気が病室には澱んでいる。もしも今、彼女が死んでしまっても、僕は驚かないだろう。なるようになったのだな、と納得して死を受けれてしまうと思う。そのくらい、彼女の姿は網膜に弱々しく映っていた。

「そろそろ帰るよ。色々とあったけど、ゆっくり寝て回復してほしい」

 椅子から立ち上がり、僕は彼女を見下ろす。正直、言い表し難い罪悪感に苛まれていたたたまれない。ずっといるだけで、発狂してしまいそうだった。

「ねえ」

 帰ろうと出口へ歩き出した時、不意に音切が声をかけてきた。声音はくぐもっていて、上手く話せないのか、何度か咳払いをした。後ろへと向き直るが、彼女はさっきと変わらず窓を眺めたままだ。

「どうしたの?」

 ベッドの傍らまで戻り、聞いてみる。彼女の顔の向いている窓側へと立つ勇気はなかった。

「……私を殺してくれるんじゃなかったの?」

 内臓を掴まれたら、きっとこんな感じなのだろうと思った。鳩尾の辺りが苦しく、凄まじい吐き気が込み上げてくる。立っているだけで精一杯で、気分が悪い。さっきまでは普通に喋れていたのに、物が詰まったかのように喉から声は出ない。

「どうして私は生きているのかな。あのまま死なせてくれれば良かったのに」

「ごめん」

 僕はやっと、謝罪の言葉を声に出すことができた。

「謝るくらいだったら、約束通り殺してくれない?」

 また、彼女の話し声に耳を傾けることしかできなくなった。その場に佇み、逃げ出すことも、彼女へと近づくこともできない。再び無言になると、彼女は小さくため息を吐いた。

「私はね、正直な話、もう死ねるんだって期待してたんだ。何も恨まず、何も考えず、やっと天国へ行けるって。向こうで待ってる私の子どもと、どんな話をしよう、って考えてたくらいにね。実はね、また行ってたんだよ。向こう側に。やっと死ねたとも思ってた。でもさ、私はこっちに引き戻されたんだ。死んでなかったなんて、酷いと思わない? 私は死ねなかったんだよ。天国へ行けなかった。みんな私から希望を奪っていくんだね。兄さんも、君も」

 ぶつぶつと、気だるげに語る彼女の声を聞いても、僕は何も言えない。膝から崩れ落ちそうな気分だ。いつかの言葉が、形を変えて僕の心を抉ってくる。忘れていた五月の結末の焼き回しを、僕は見せられているなんて信じたくない。

 音切は出て行けとも、消えろとも言わず、静かに窓の方を向いたままだった。声がしなくなった代わりに、空調やラジカセ、外の雨の音が一層、大きく聞こえてくる。全てが殺すか消えるかの選択を迫っていた。忍び寄ってくる影が身体を撫で回す。

「僕は……」

 言い訳をするように口を開いたけれど、続きはやっぱり思い浮かばなかった。沈んでいく雰囲気の中、彼女は徐々にこちらへと顔を向けてくる。布団の擦れる音が、不思議と耳にへばりつく。音切の瞳は、僕の方向へと向けられているだけで、僕を見ているような気がしない。もっと背後の、まさに今、身体に纏わりつく影を見られているかのような、奇妙な体感だった。結局、僕は彼女と向き合う選択を捨てて、何も言えないまま病室の出口へと足を向ける。

 ドアの閉まるその直後まで、メヌエットは聞こえていた。

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