横薙ぎの強い風が背中を押してくる。打ち付ける雨粒はまだまだ勢いを増しており、もっと強くなりそうだ。

「全部知ったのなら、もう関わらない方がいいって分からない?」

 暴風の中で、彼女の声は普段よりも何故か透き通って聞こえてきた。

「全部知ったからこそ、僕は君に関わりたいんだ」

「やめてよ、気持ち悪い。同情なんてしてほしくないんだけど」

 微笑みを浮かべて音切は言葉を吐いた。薄くできた皴に沿って、雨が流れていく。行き交う車のライトの光でさえも、冷たくなった笑みを温めることはできない。

「同情なんかじゃない。これは僕のやりたいことだ」

「そう、じゃあずっと君の願いは叶わないね」

 視線が絡まり、僕たちの目は動かなくなる。僕たちの合間には雨だけがあった。傍から見れば、こんな悪天の中で喧嘩をする馬鹿な学生だと思われているのだろう。別にどう思われたって良かった。笑いたければ笑えばいい。指を指したければ指せばいい。今までと何ら変わりないのだから。僕も彼女も、そうして生きてきた。

「君の力になりたい。約束しただろう? 一緒に天国へ行こうって。だから僕は、僕は君の手をもう一度取りに来たんだ」

 そう言って、彼女の前へ手を差し出す。だけど、音切はその手を取らないまま、相変わらず黒く澱んだ目で見つめるだけだった。手の平は虚しさを覚えながらも、彼女の体温を求めている。もう何度も握ったその手を、何度も握れなかったその手を、今度は握ってもらいたかった。

「――だったら、君は」

 音切は自転車を支える手を離し、こちらへと近づきながら言った。雨水の溢れるアスファルトの上へと自転車は倒れ、衝撃で跳ねた飛沫が街の灯りを反射させ、きらきらと光る。鼓膜に突き刺さるような鉄の音へと意識が向いている間に、彼女は顔を僕の見元まで寄せていた。全てが一瞬のことで、僕だけが間抜けにスローモーションで動いていたみたいだ。僕たちの距離は息遣いが分かるほど近くなっていた。

「私のために、人を殺してくれる?」

 背中を悪寒が百足のように素早く這っていく。雨の匂いに混じる甘い香りが、鼻腔を擽った。耳たぶには生きている生温かい声の跡を消せず、残してしまう。それらが全て、恐怖という感情だと理解するまでに相当の時間がかかった。僕は差し出していた手を引っ込め一歩分、後ろへと距離を取る。脚の踏ん張りが効かず、油断すれば尻餅をついてしまいそうだった。問われたことに対して思考は止まって、回答できない。今僕は、彼女に殺されていたかもしれないと本気で思った。まるで真横をトラックが勢いよく通り過ぎた後のように、心臓は激しく高鳴っている。命を刈り取ろうとする意思が、彼女の暗い目の中にあった。

「君は私のために、私が憎んでいる人を殺してくれるの?」

 距離を取っても、彼女はわざと詰めてきて、近くで同じことを聞いてくる。沈黙が僕の答えだった。何を言おうとしても、何を言っても間違いになる気がしてしまう。音切は細い指で僕の胸倉を掴んできた。目と目がこれまでにないくらいの距離で合う。瞳の中には僕も、街も、空も映っておらず、代わりに、虫のような何かが蠢いていた。それはきっと彼女の魂の形なのだと思う。妖しく獲物を捕らえ、息の根を止める虫。僕はずっと虫の毒に蝕まれていたのだ。彼女の全てから漂う、狂ってしまう程の毒に。

「私が今まで、どんな気持ちで生きてきたか知ってる?」

 顔の表情や語気も変わっていないが、目尻は焼けたように赤く腫れていた。シャツを掴む手は感情の昂りをハッキリと示している。

「両親が死んでから、親戚からは陰口を叩かれて、中学では腫れ物扱いで誰も話しかけてくれない。高校へ進学したら変わるかもって思ったけど、何も変わらなかった。一緒に進学した同級生が全部言いふらして、同じことの繰り返し。兄さんを助けたかったのに、それを理解してもらえなくて、その寂しさをお金に変えたらこの始末。自分が悪いことなんて百も承知よ。でもね、誰も私を助けてくれようとしなかった。お金をくれた男子たちだって、ただ性欲を満たしたかっただけだったの。精々おまけでくれるのは同情だけ。辛かったね、って抱きながら耳元で囁くだけで、札を差し出し受け取ればそこでおしまい。暗くて、悍しいくらい最低な気持ちをずっと抱えてきた。私は人以下なんだって。人の形をした何かなんだって。そう考えていたの。でもね、子どもができた時、やっと人として自分を認められた。誰との子かも分からなくても、命を宿せる身体で、命のある人間なんだってようやく認められたのに。それなのに……兄さんはその気持ちさえ踏み躙った。人並み以下でも、人らしく生きれると信じた気持ちを、ないものにした。私はこれまでの私以上に、兄さんのことを許せない。憎いの。全部を奪って無駄にした兄さんが憎い。その恨みが、君には分かるのなら、兄さんを殺してみせてよ。私と一緒に、あの人の命を奪ってみせてよ」

 布の破けるような音がするくらい引っ張られ、鼻先同士がぶつかりそうになった。吐息が頬にかかり、全身が総毛立つ。鼓膜を揺らした一言一句に込められた呪詛は、直ぐに身体の隅々を回った。眩暈によって視界が点滅して、灰色と紫に溺れていく。

「きっと兄さんはまた私の前に現れるって分かっていたの。だからその時は、その命で私の子を返してもらおうと思って。私の成し遂げなきゃいけないことはね、兄さんを殺すこと。そして、天国のあの子に、君を殺した悪魔は地獄へ帰してきたよ、って報告をしに行くの。それでも君も一緒に来る?」

 音切の癒えることのない苦しみの告白を聞いて、僕は打ちひしがれた。僕は無力だ。彼女を助けたいと偉ぶったことを掲げておきながら、彼女の絶望を背負いきれるだけの度量はないと、思い知らされた。気持ちに心が追い付いていないのだ。口では何とでも言えるけれど、覚悟とそれに伴う行動は必ずしも一致しない。そのことを、僕はこれまで、嫌というほど理解してきた。なのに、また同じことの繰り返しだ。このまま彼女と一緒に歩いて行ったとしても、いつかは僕の心が耐え切れず、拉げてしまうだろう。その時、音切はまた悲しみを一つ背負うことになってしまう。

「やっぱり無理だよね」

 掴んでいた胸倉から手を離し、彼女は覚束ない足取りで後ろへと引いていく。僕は何も言い返せなかった。殺してやるとも、殺すなとも答えられない。どこまでも自分の身と心を守ることだけを、情けなく考えていた。

「もう話すことは話したから。これ以上関わらないで」

「……一緒に行こうって言ってくれたのは君からなのに、今更関わるな、なんて狡いじゃないか」

 僕はようやく声を出すことができた。その声はいつもの彼女よりもか細くて、弱々しいものだった。

「どうしてあの時、僕に手を伸ばしてくれたのさ」

「理由を答えたら、私の前からいなくなってくれる?」

 せっかく開けた口を、僕はまた噤んでしまった。

「まあいいや。早く消えてほしいから教えてあげる。君を初めて見た時ね、正直、私と似たような境遇の人間じゃないかな、って思ったの。誰かに絶望して、自分を嫌って、そのくせ復讐みたいな気持ちを持ってるんじゃないかな、って。でも、君も私の周りにいた人たちと同じように私を見ていたんだね」

 そう言って、音切は笑った。踏み外したのではなく、最初から踏み外すようにできた悪意だらけの運命と、彼女の本心を見ない不愉快な周囲の人間たち。何よりも、そんな人生を歩ませる原因の一端を担っている彼女の兄。全てが音切を作り出す結果となってしまったものだ。僕も、その中の一人として存在しているのだろう。考えただけで自分に嫌気が差す。僕はずっと隣にいて、特別だと思い込んでいただけに過ぎない。蓮さんから話を聞いた時も正直なところ、彼女を抱いた男たちや、周囲の人間のように、同情をしていたのだとこの期に及んでやっと理解した。心のどこかでは彼女のことを可哀想だと思っていたのだ。同情なんかじゃないと、言い聞かせていただけにすぎない。同情は、人間の持つ感情の中で最も穢れている。自分よりも下の水準を生きる人に対してしか起こらない、哀れみの気持ちだ。僕はそんな目で彼女のことを見ていないと、信じたかっただけなのだろう。

 さっきまでよりも一層強くなった雨脚のせいで視界に白い靄がかかる。諦めが僕をその場にとどめていた。もう終わってしまうのだろう。彼女と歩んできた道は、ここで途絶えてしまうのだ。音切は倒れた自転車を拾い上げてから、もう一度だけ僕の方を向いた。

 ふと、脳裏に出会った日の景色が浮かんだ。退廃的な灰色と群青の織り成す海と、ゴミだらけの砂浜、そして僕を誘った言葉。海岸に立つ音切の姿が、雨に濡れる彼女と重なる。僕はあの日、一つの過ちを犯そうとしていた。自らの未来に絶望して、死のうとしていたのだ。どんな形であれ、止めてくれたのは彼女だった。あの出会いから、曲がりなりにも幸せな生活を送らせてくれた。語り合い、外へ出かけて、笑っていられる日々が確かな形で記憶の中にある。幸福を感じることだけが人として成り立つための理由ではないと思う。だけど、あのまま本当に飛び降りてしまっていたら、僕は人間として終われなかったはずだ。それこそ、心の壊れた人の形をした何かのまま、終わってしまっていたに違いない。音切は僕にとっての月なのだ。暗い夜空に光を灯す、大きな月。その月が今は雲の向こうへと消えようとしている。ならば、彼女の過ちを言われた通り見過ごすなんて、間違いではないのだろうか。

 同情だと罵られても構わない。偽善だと否定されても構わない。方法が正しくなくてもいい。僕は僕のエゴのまま、彼女を止めたい。

「やっぱり、僕は君を止めることにするよ」

「そう、どうやって止めるつもりなの?」

 雨のカーテンを通り抜けながら、音切へと近づく。止む気配のなかった雨音が、少し小さくなる。正面に立って、僕たちはまた見つめ合う。真っ直ぐと、今度は瞳から目を逸らさなかった。時間にして数秒ほど経った後、僕は彼女の首に手をかけた。手の平の上に細い輪郭と、柔らかな感触が広がる。夢で触れた時と、全く同じ感覚だった。

「君が過ちを犯す前に僕が終わらせる」

「できるの?」

「できるよ」

 言ったものの、手には力が入らず、震えているだけだった。指の先から感覚がなくなっていき、見ないようにしていた恐怖心が、胸の内側を蝕んでくる。

「君は僕の過ちを止めてくれたんだ。だったら、僕も君を止めなきゃならない」

 あの時、あの階段で飛び降りようとしていた僕を、音切は止めてくれた。偶然、通りかかっただけだったのかもしれない。僕を海へと誘ったのも、気紛れだったのかもしれない。それでも、僕へと手を差し伸べてくれた彼女に、僕はちゃんと人の心を見出している。それを穢すものが彼女自身ならば、人として綺麗なまま終わらせることが、僕から返せる唯一の救いだ。

「君の意志は、僕が継ぐ。だから、もう君はここで終わってほしい」

 気付くと、僕は静かに笑っていた。彼女もそれに応えるよう、微笑んでいる。街の光が僕たちを照らしていた。

「やっと君らしい顔になったね」

 音切はそう言ってから、僕の手首を掴んだ。自転車の倒れる音が再び響く。それが合図だと分かった。相変わらず、彼女の指は木の枝のように細い。だけど、確かにその手には体温がある。冷え切っていても、彼女の身体も、魂も生きている。そして、僕はその命を奪う。息を飲んで、冷たい指先へ意識を向ける。さようなら。彼女へと届かないくらい声で、自分を奮い立たせるために呟いた。

 喉元へ当てられた親指に力を入れようとした時、彼女の手が不意に離れる。だけど、身を任せたというのとはまた違っていた。両手から感覚がするりと抜け、あっという間に目の前からいなくなり、遅れて足元から鈍い音が耳へと届く。

「音切……?」

 何が起こったのか分からないまま、下へと目を遣る。そこには音切が倒れていて、打ちどころが悪かったのか、頭から血を流していた。僕は跪き、名前を呼びながら彼女の身体を揺さぶる。手先が冷えていたとは言え、まだ力を入れていなかったことは確かだ。どうして倒れたのか理解が追い付いてこない。紅い体液が墨汁のように水に溶けて、側溝へと流れていく。辺りには僕以外の人間は見当たらない。ヘッドライトが僕たちを照らしては無関心に通り過ぎて行った。僕たちは雨に隠されてしまった。

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