「華乃と俺の両親は俺が高校一年の時、華乃が中学二年の時に事故で亡くなったんだ」

 喫茶店の中は空調が点いていても、どこか蒸し暑かった。夕方の時間帯で、雨ということも相俟って、客席はかなり埋まっている。僕たちはちょうど空いた入り口の席へと通されていた。雨の中でびしょ濡れになっていたのは僕たちくらいだ。注文を取りに来た店員も、相手をしたくないという表情を隠しきれていなかった。

 音切の兄、蓮さんはおしぼりで手を拭きながらフランクに語り始めた。

「母も父も親戚一同から嫌われててね。父はよく、法事とかの集まりでトラブルを起こすし、母もそれを止めないでビクビクしているだけだったんだ。横のつながりがけっこう強い一族で、輪を乱す両親とその家族は嫌われて当然、みたいな風潮があってね」

 笑いながら話す蓮さんの面影に、僕は彼女を重ねてしまう。やっぱり、血の繋がった兄妹なのだな、と内心で思った。

「両親が亡くなった後、残された俺たちの面倒の押し付け合いがあったんだ。当然だけど、嫌いな人間の腹から産まれてきた子どもの世話なんて、面倒に決まってる、って考えるだろう? しかも、自分たちの暮らしもあるのに、子どもを二人も生かすだけの金を捻出するなんて、無理難題に近いことだし。それで一悶着あってから最終的には、仕方なく伯父さんがお金を毎月、入れてくれることになったんだ。ありがたかったことに変わりはないけど、切り詰めて、切り詰めて、ようやっとぎりぎり生きていけるくらいのお金しか入れてくれなかったよ。両親が亡くなった後の保険金は、華乃が高校へ進学するように取っておこうって決めていて、使えなかったからね。伯父さんにはお前は卒業したら働いて、金を返せとも言われたよ」

 僕たちの前にアイスコーヒーを持ってきたウェイトレスは、伝票を置いて逃げるように厨房へと戻っていく。彼は気にすることもなく、ミルクとシロップを入れて、ストローで茶褐色から黄土色へと変わっていく液体をかき混ぜた。僕は飲んでいいよ、と勧められたが、手を付ける気になれず、ただ視線をグラスの中へと落とした。

「それでまあ、俺は高校を卒業して就職をしたんだ。その頃になると、親戚一同から音沙汰が一切なくなったんだ。金を返せって何度も言ってきた伯父さんも、俺の給与明細を見せたら向こうから連絡を断ち切ってきたよ。三年間の辛抱か、いつ野垂死にするか、どっちかだと思っていたんだろうね。とにかく、俺はそれから華乃と二人で生活できるお金を稼ぐだけのために働いてたんだ」

 薄っすらと笑っていた彼の表情は、そこまで話すと不意に消えた。いや、完全に消えたわけではない。翳りが差したとでも言うべきだろうか。店内の照明が勝手に暗くなったような錯覚。僕はその微妙な変化を見逃さなかったし、見逃せなかった。

「でも、やっぱり俺もあの子も分かっていたんだと思う。俺もやっぱり疲れてたんだよ。華乃はあんなんだけど、本当は優しい子だからさ。高校へ上がったら自分もバイトするってずっと言ってたんだ。でも、俺はそれを無理に止めた。門限とか、ルールとか、そういうのを取り決めてね。破ったら口酸っぱく怒りましたし、窮屈だったとも思う。でも、あの子には俺と同じように、バイトばかりの生活で苦労をしてほしくなかったんだ。学校へ行って、楽しく暮らしてほしかった。心の底からそう思っていたいた。そんなある日のこと。華乃がやけに遅く帰ってきて、俺はリビングで待ってたんだけど、説教をする前にあの子がお札を机の上に置いたんだ。ビックリしたよ。正確には覚えてないけど、三十万くらいあったと思う。俺の初任給なんかより、普通に多い額がいきなり目の前に置かれて、唖然とするしかなかったよ。高校生が持っていていい金額じゃないし、すぐに俺は聞いたんだ。この金はどうしたんだってね」

 蓮さんはコーヒーに口を付けると、少し黙った。そこから先を言うべきかどうか、迷っているように窺えた。だから僕も、追求することなく沈黙を続ける。店の喧騒が耳の奥にへばり付く。濡れた身体はすっかり冷えていて、冷房を切ってほしいくらいだった。隣の席に座るカップルの、来週の予定を決める幸せそうな会話が聞こえてきて、この席だけが、世の中から切り離された世界のように思えてしまった。

 グラスの中で溶けた氷が、からんという音を立てる。暗い液体に再び目を落とすと、そこには僕の顔が小さく映っていた。迷っているのは、蓮さんではなく僕だ。彼はその先の話に足踏みをしているわけではなく、僕の覚悟を今一度、確認している。これから話そうとしている内容が、目を背けたくなるくらい酷いことなんて、簡単に予想できた。僕だってそこまで馬鹿じゃない。だからこそ、迷いが生まれているのだろう。

「聞かせてください、続きを」

 正直、そう言うだけでも胸が引き裂かれそうだった。自ら苦しみに手を伸ばすなんて、愚かしいことだ。だけど、知りたいと思う気持ちが勝っていた。純粋な興味などではない。彼女を知らなければ、音切華乃を知らなければ、きっと僕は後悔する。同情や救いの手を差し伸べるなんて、大層なことではない。ただ知らぬまま彼女との日々をなかったことには、したくないだけだ。

「分かったよ」

 もう半分もなくなっていたコーヒーを飲んでから、蓮さんはまた話しだす。

「大体の予想はつくと思うけど、華乃は自分の身体を売ってたんだ。それも高校の中でね。後から知ったけど、校内ではけっこうな噂になってたみたい。問い質したら、一回でいくら貰ってたとまでは言わなかったけど、自分から言ってくれたよ。俺はなんだか、虚しさとか怒りとかで狂うこともできなかった。ただただ力が抜けたよ。俺の妹が、高校で売春。それよりも、自分が汗水垂らして、地面に頭擦りつけながら稼いだ額を、簡単に稼いできたんだ。おかしいと思うだろうけど、そっちの悔しさの方が強かった。俺自身も不思議だった。なんでそんな簡単に稼いで来れるんだ、今までの努力は何だったんだって。できる限り不自由をさせないよう頑張ってきたことの全てを否定された気さえした。ただただ涙が出たよ。あの子は泣く俺を見て、もうしないから、って約束してくれた。本当に以降、していたのかしていなかったのかは正直、分からない。俺は今まで以上に必死に働いたよ。とにかく働いた。死んでもいいとさえ思ったくらいにはね」

「それで、どうして彼女と今みたいに仲が悪くなったのですか? 仮に、そのことが原因の一端を担っているとしても、直接的というわけではないでしょう」

 何か口を挟まなければ、ぐちゃぐちゃに潰されてしまいそうだった。夢の中の話だと言われた方が、質の悪い冗談だと笑い飛ばせる。自分の身に起きたことでも何でもないのに、憎しみが僕の心の中で渦巻いていた。でも、それが何に対しての憎しみなのかは分からない。蓮さんが彼女に寄せた感情に対してだろうか。兄妹をどん底へ突き落してから消えた両親と、親族たちからの仕打ちに対してだろうか。それとも、自らを売ってまでお金を作ろうとした彼女と、金を払って行為に臨んだ男たちに対してだろうか。どれも正解であり、不正解でもある気がする。ただ、ここまでの話を聞いて、僕はどれほど自分が恵まれているのかを実感した。裏切りも孤独も、運悪く泥を踏んで汚れた程度の不幸でしかない。僕はそんなことで死のうとしてしまうくらい、弱い人間なのだと、自分の内側にあるものが訴えかけてくる。

「君の言う通りだよ。俺も過ぎたことだから、って割り切っていたさ。でも……」

 今度はハッキリと、蓮さんの方に躊躇する様子が窺えた。語気は萎み、目を伏せている。『でも』の後を僕は黙って待った。言葉を詰まらせながらも、彼は唸っている。その姿は、ある種の免罪符となる言葉を探しているようにも見えた。口を付けていないコーヒーのグラスの表面を滑る水滴が、コースターを濡らしているのに対して、雨で湿っていた髪と服は、空調の風も相俟ってほぼほぼ乾いていた。

「言えないことなら、無理には聞きません」

 敢えて急かすような言い方で、僕は責めてみた。深い彫りの顔に、より影が差した。何となくだが、分かっている。不仲になった原因に、人格を疑わざるを得ないような、酷いものがあるのだと。寧ろ、ここまで含みを持たせておきながら、そうではない方がおかしい。

 どんな答えが返ってきたとしても、僕はきっと、彼のことを軽蔑するのだろう。免罪符なんて突き出されたところで、同情するわけがない。この人は悪人だ。直感がそう告げていた。

「いや、大丈夫。全部話すよ。話さなきゃならないから」

 そう言って、彼は息を深く吸い込んだ。

「結論から言えば、俺が華乃を殺しかけたんだ」

 一瞬遅れて、眩暈がした。プロボクサーに鳩尾を殴られたら、恐らくこんな感じなのだろう。吐き気を催して、唇が痺れ、自分の輪郭が徐々に薄れていく。僕は蓮さんの表情を捉えられなくなった。笑っているのか、泣いているのかさえ、判別できない。だけど、それはまだ結論だけだ。どうしてそんな過程へと至ったのかをまだ聞いていない。

 僕の顔色が悪くなったのを察したのか、蓮さんは口を閉じている。震える声で、僕は続けてください、と言った。

「……いいんだね。じゃあ、話させてもらうよ」

 自分のしたことを告白したことで吹っ切れたのか、彼は語り出そうとする。僕たちの会話の内容が耳に届いたせいか、楽しそうに話していた隣のカップルまで重苦しい沈黙の底へと落ちていた。

「華乃が売春を止めてから、俺たちの生活は元通りになりつつあったんだ。俺が稼いで、あの子はただ学校へと行く。それだけの日々に。いや、なりつつあったと信じたかったんだろうな。俺たちは普通とはちょっと違う不幸の星の元に生まれただけで、生きてはいけるんだと。だから、俺はあの子の変化に気付けなかった。あったことを過去のものとして流そうとした。それが間違いだったんだ。

 あいつは確かに身体を売るのはやめた。それは疑いようもなく事実だ。ちゃんと信じている。だけど、俺があんなに悲しそうな顔をしたからだろうな、自分の身体の変化を、華乃は俺に言わなかったんだ。そういう行為をしたのなら、起こってもおかしくないことだったのにな。簡単に言えば、妊娠してたんだよ。生理がこないって急に言い出したんだ。それも、遅れてるとかそういう話じゃない。売春をやめるように言ってから、何カ月か経っていた頃だから、流石によく聞く生理不順なんかで片づけられなかったよ。行為の時にちゃんとゴムを付けてたのか、なかったのかまでは分からない。そもそも、そんなこと妹の口から聞きたくないだろ? でも、あれだけの額を稼いでたんなら、後者だろうな。とりあえず、妊娠検査薬で調べてみな、って言ったよ。何かの間違いであってくれってずっと考えてた。でも、間違いなんかじゃなかった。結果は陽性だとさ。俺はもう訳が分からなかったよ。絶望なんて言葉で片づけられたらどれだけ良かっただろうな。両親が亡くなって、親戚からも見捨てられて、頑張ってたった一人の家族を守ろうとしたのに、行きついた先がこれなんだから。父親が分かっているのならまだマシだったかもしれない、って今でも考えることがあるよ。そいつを殴って、お前が責任を取れって怒鳴れば怒りを発散できるんだからな。でも、どこのどいつかも分からない華乃を孕ませた人間を、どうやって俺は殴ればいいんだ。家族のためと、間違えた危ない方法で金を稼いだ華乃の気持ちを、そいつは踏み躙ったやつへの怒りを、一体どこへぶつければ良いのか、分からなくなっていた」

 蓮さんは目元を手で覆ってから、髪を掻き上げた。額には脂汗が浮いていて、緊張が見て取れる。

「俺はお腹の子は降ろせって言ったよ。二人でも家計は火の車なのに、赤ん坊なんてどうやって養うんだって。でも華乃は産みたいって言うんだ。自分の身体に宿った命だから、捨てることなく産みたい、お金ならちゃんとしたバイトをして稼ぐって。その一言で、俺は兄である自覚が、いや、もっと根本的な、人として持っておかなくちゃならないものまで全部、粉々に吹き飛んだよ。気付いた時にはあの子の腹を蹴ってた。何発も蹴ってた。蹴るだけじゃなくて、殴りもした。まだこの手足が、あの子の身体へと食い込んでいく感触が、ずっと残ってるんだ。不思議なことに、その時の俺は、どうして妹に手を上げてるんだって冷静に考えていたよ。暴力を振るいながら、俺はこんなことを分析できるんだ、って思ってた。どっちが想像で、どっちが現実なのかも分からなかった。華乃がフローリングの上で、下半身から血を流してぐったりしてる姿を見て、ようやっと自分のしたことの酷さに気付いたんだ。俺は実の妹に手をかけておきながら怖くなってさ。すぐに警察に電話したよ。情けないことに、適当な嘘をでっち上げてね。俺がしたなんて口が裂けても言える器量はなかったんだ。

 それから、病院へ運ばれた華乃は意識不明の重体だった。馬鹿みたいだけど、生きててくれって必死に願ってたよ。幸いにもあの子は生きてた。目が覚めて俺は安堵したよ。心の底から良かったって思った。仕事でクビになってもおかしくないくらいのミスをした時よりも、安心したんだ」

 そこまで語ってから、自分の手を見つめる彼の指先は、小刻みに震えていた。僕はその一点にずっと集中していた。目を見ては駄目だと思ったから。蓮さんの目を覗けば、僕が映っている気がした。それも、あの夢で華乃を縊る僕の姿が。そんな予感があった。

「でも、お腹の子はもちろん駄目だった。死んでた。そのことを言っても、華乃は泣かなかった。怒りもしなかった。売春を告白した時の俺と同じような感情だったんだと思う。俺ともう会わない、一人で暮らすって言ったんだ。説得する気なんて起きなかったよ。当然だろうと思って、こつこつ貯めてた金を全部、華乃へ渡して、俺は家を出て行った。せめてもの罪滅ぼしだって言い聞かせて。そんなことで許されるはずなんかないって分かってるよ。命の重さを金に換算できるほど世の中は都合よくできていないんだから」

 これが俺たちの全てだよ。そう言って、グラスに入ったコーヒーの最後の一口を飲み切った。氷も溶けきっていて、後には何も残っていない。

「じゃあ、どうして音切の前へもう一度来たんですか?」

「兄妹だから、じゃないかな。妹のことが心配になって、居ても立っても居られなくなったんだ」

 蓮さんは口角を上げながら言った。目は笑っていないところを見て、彼女と本当に血の繋がった関係なのだな、と場にそぐわないことを思ってしまう。二人は誰かを憎み、憎まれて生きてきたのだ。母胎で血肉を分け合った彼女らは、深い絶望をも共有してしまっている。神様や運命なんて信じていないけれど、ここまで数奇な人生を送った音切たちのことは、そんな言葉を使わなければ説明できない。

 ならば、その絶望に対して一体、僕は何ができるのだろう。五月に出会い、今まで一緒にいた彼女に、何ができるのか。考えたところで、できそうなことなど浮かんでこない。寧ろ、そう考えている時点で、僕にできることなんて何もないのだ。彼女の落ちた絶望の穴を、覗いているだけに過ぎない。同じ場所へと飛び込む覚悟を、決め切れていないのだから。

 だけど、僕は立ち上がっていた。隣で沈んでいたカップルたちが僕を見遣る。

「どこへ行くつもり?」

「彼女を探してきます」

「やめておきなよ。雨、凄いことになってるよ」

 たしかに、外の雨は入店した時よりも酷くなっていた。ざわつく店内にいても微かながら、風と雨音は聞こえてくるし、空は光って稲妻が奔っている。傘も持っていない僕が、雨の中音切を説得して連れて帰るなんてできないだろう。根本的に、今どこにいるかも分からない彼女を考えもなく手当たり次第に探そうとすること自体、馬鹿げた行為だ。

「それがどうしたんですか」

 言い放ってから、喫茶店を勢いよく出た。後ろから呼び止める声や、他の客や店員の視線が突き刺さってくるのを肌で感じた。だけど、外へ出れば、すぐに雨が全てを濯いでくれた。そうだ。愚かなことだと重々、理解している。でも、彼女のことを想えば問題にすらならない。音切を真に理解できなくても、探し出すことが困難でも、僕は彼女の細い手を握りたい。そして、言えなかった言葉をちゃんと伝えよう。

 一緒に行こうと――

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