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 もしもどこかに神様がいて、人間を一人ずつこねくり回して作っているとするのなら、どうして音切の運命を最初から壊した状態でこの世に送り出したのだろうか。どんな心境で、そして、どんな意味を込めて彼女を作ったのかが僕には理解できない。たしかに、七十億もの人が地球にいるのだから、気紛れの一つでもあるのだろうけれど、それがどうして音切だったのだろう。どうして彼女でなければならなかったのか。出会えることがあるのなら、答えを問い詰めてみたい。

 嘘くさいくらいの現実が、僕たちの関係の上に横たわった。

 あの身体は、大きなものを抱えるにしては、華奢で脆弱な造りをしている。だからこそ、夢も、希望も、少し先の明日も、彼方の未来も、求めようとする幸福も、誰かと過ごす日々も、彼女が望むことは許されない。それらが人並みの生活であるとするのなら、この世で生を授かった時点で彼女は人以下だったということだ。世界は自分の容姿や人生においての不平等や薄幸を嘆く人間で溢れているけど、音切に比べればそんなものは瑣末なことにすぎないし、寧ろ、比較することさえ烏滸がましいとさえ思えてしまう。

 濡れた景色のどこかに音切がいる気がする。背の低いビルのネオンに、車がカーブを曲がる時の擦過音に、通り過ぎた人の背中に。彼女の細い骨格や目の色、か細い声があるように思えてしまう。だけど、全て音切とは異なるものだ。どれも違って、誰も違って、もどかしくなる。彼女が残した跡はないし、見つけられない。

 僕は君が望んでいようがいまいが、音切華乃という不幸が花咲いたことを、今をのうのうと生きている人間に晒したい。晒して、少しでも冷めた目で、飾りのような耳で、よく肥えた舌で、薄汚い肌で、彼女の名を少しでも再生させることができたのなら、満足だ。

 熱く煮えたぎるエゴを、降り頻る雨は冷まそうとする。彼女の兄から真実を聞かされた後、僕は自分が情けなくなった。僕の不幸なんてものは、のうのうと生きている人間となんら変わりない。一緒に行くと約束した手を取ろうとしなかった。もっと早くに知れていれば。そんな後悔ばかりが頭の中で円を描く。僕は押しつぶされると思い、いても立ってもいられず、蓮さんの静止の声も無視して、この大雨の中へと飛び出してきた。徒労に終わっても構わない。僕を止めようとするものの全ては、ただの言い訳と同じだ。身体を突き動かしているのは、単純などうでもいいの連続だった。

 腕時計の盤面を覆う厚いガラスは雨に濡れていて、中にある針はすでに十九時半を指していた。喫茶店を出てからどのくらい時間が経ったのか分からないほど、町中を駆けている。雨に濡れて張り付いたシャツは、いつもよりも不快だった。

 帰り道から数本離れたところにある国道では、水飛沫をあげながら多くの車が殺人的な速度で行き来していた。通っていく車のタイヤは羽が生えているみたいで、勢いさえ死ななければそのまま空まで飛んでいけそうだ。

 音切は、もうここにいないのかもしれない。どこか遠く、知らない場所まで行ったのかもしれない。否定したかったけど、可能性としては十分に在り得た。もう探しても無駄に終わるだけだ。そんな言葉が、身体中から聞こえてきた。

 だって、彼女は死にたがっていたから。

 だって、彼女は死にたがる理由があるから。

 誰も反対してくれる人間なんていなかった。こんな無益なことに反応を示してくれる人なんて一人もいないだろう。そもそも、生きることに意味はあるのだろうか。誰でも一度は考えたことのあるような、在り来たりなことを今になって考えてみる。壊したり壊れたり、笑ったり泣いたり、夢を見たり貶したり、そんなことをしているだけの僕たちが生きている意味は、なんなのだろう。いつかは遅かれ早かれ死ぬのだ。そして、死んだ人間の名前は後世へと語り継がれることなんてほとんどない。それでも、生きる理由は何なのだろう。僕は納得のいく答えを出せない。

 立ち止まり瞼を閉じて、考えてみる。浮かんでくるものは記憶されている音切のことばかりだった。僕が彼女を求めるのはきっと、幸せだからだと思う。一緒にいることが幸せなのだ。色んな時間を二人で共有することの幸福を、守りたい。それが生きる理由では駄目だろうか。死ぬまでの理由に置き換えてはいけないのだろうか。

 雨はもう冷たくはなかった。脚も足も、腕も手も、すっかり感覚は鈍くなっていて、動かす度に軋んだ音が聞こえてきそうだ。その代わりに、聴覚は鋭くなっていて、ちょっとした音でさえも敏感に拾ってしまう。そういえば、死ぬときに最後まで機能しているのは聴覚らしい。ゆっくりと死神の鎌が忍び寄ってきているのだろうか。もう諦めるしかない。今更、それらしい答えをいくつも並べたところで、どうしようもないのだ。

 すっかり弱気に考えて帰ろうとした時、暖かな色の街灯の並ぶカーブの向こう側に、傘も差さずに自転車を押している人影が映った。遠目に見ても分かるくらい覚束ない足取りをしていて、横風が少しでも吹いたら倒れそうだ。

 目を凝らしてその人を見ると、音切だとわかった。僕は普通なら走れるだけの体力も残っているはずないのに、知らずのうちに走り出していた。水溜りを踏むことも、ズボンの裾が濡れることも気にしないまま、ただ一心に。

「音切!」

 彼女の名前を叫ぶと、一度だけ肩が跳ねてから僕の方へと向いた。やっぱり音切だった。

 濡れたブラウスはピッタリと張り付いて、下に見える肌と下着の色を薄く透かしていた。黒い髪も十二分に雨を吸っていて、プラスチックのような艶やかさがある。肌はただでさえ白いというのに、その深みは増していて人間らしさがない。目の中は虚ろで、どんよりとした靄がかかっており、クレヨンで塗りつぶしたみたいに真っ暗だ。唇に関しては水彩絵の具の黒以外の全色を混ぜたような、言い難い色になっている。

 僕は彼女の前に立っても、何も言えなかった。寧ろ、全てを知ってしまった僕は、何を言えばいいのだろう。喉を伝って出てきた言葉のひとつひとつが、無駄なものに思えてしまう。

「……何。あの人に言われて探しにきたの?」

 彼女の声は、すぐそこの車道を走る車の走行音と雨の音に掻き消されそうな細さで、より注意していないと聞き漏らしてしまいそうで気が張る。

「そんなことない。僕は僕の意思で探しに来たんだ」

「だったら無駄足踏んだね」

 そう言い捨てて、彼女は自転車の向いている方向へと向き直り歩き出す。いつもの甲高い音が、雨の中で鳴った。

「待ってよ」

 彼女の肩に手を置きながら呼び止める。身体は冷えきっていて、全く体温が感じられなかった。死んでいる。頭の中で誰かがそう囁いた。これはもう動かなくなった、肉屋や魚屋に陳列されているモノと同じだと。だけど、頭を振ってそんな言葉を否定する。ここにいる少女は紛れもなく生きている。どれだけ触れたものが死を示していたとしても、立っている姿を視覚が捉えて、微かに残った息遣いも聴覚が拾っているのだ。

 風によって雨が弾丸のように身体に当たってくる。天候は悪くなる一方で、時折、空が眩しく光っては大きな音が響いた。

「……放してくれない?」

 絞り出したような声に、気力はこもっていなかった。弱々しく、本当に放せばバランスを崩して倒れてしまいそうだ。

「帰ろう、音切」

 説得をしようとしたが、痺れを切らしたのか、音切は僕の手を肩から跳ね除けた。後ろへとよろけた先に運悪く水溜りがあり、思いっきり踏んでしまう。飛沫が上がり、僕と彼女の脚へと飛散った。

「私にはもう、帰るところなんてないから」

 そう言って僕の方へと振り返った彼女の頬には、目元から流れる水滴があった。泣いているのか、降り頻る雨が見せているものなのかは判然としない。ただ、はっきりと魂だけはあった。雨曝しで、今にも消えてしまいそうな、なくなってしまいそうなほど、小さく燃える魂だけは。

「……全部、お兄さんから聞いたよ」

 遠くで雷が光る。落ちてくるかもしれないなんて不安はなかった。それどころか、落ちてきてしまえばいいとさえ思っていた。このまま何も語らないまま死んでしまえばいい。あの時、雷が落ちてきたから死んだ、仕方なかったなんて言い訳もできる。

 彼女は無言だった。だから、僕も次の言葉を待つようにして沈黙を続けた。ヘッドライトの交差する道で動くことはできずに、二人して佇んでいる。目に見えるものに色は差していくけれど、彼女だけを上手く避けている。真っ暗に溶けていき、瞼を閉じて開くまでの刹那の間に姿が網膜から消えそうで、瞬きを許さなかった。時間は雨に漱がれて、排水溝へと流れていく。

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