第3章 記録

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 太陽に照り晒された街の上で、陽炎が楽しげに躍っている。朧気な空気を通して見る街は、今の僕と同じようにだらりと溶けていた。今日は間違いなく猛暑だ。境界がどこに在るのか分からないくらい青い空が、分かりきった季節を知らせている。夏がきた。湿気と、重苦しい日々からやっとの思いで解放されたというのに、今度は水分がなければ干乾びそうな毎日が続く。喜んでいるのは夏休みを目前にした小学生か何年もかけて成虫へとなった蝉くらいしかいないだろう。

 いつもとは違って、階段の陰になっている部分に僕たちは避難していた。遮るものがあるだけ多少はマシだが、それでも暑いことに何ら変わりない。脳が溶けて沸騰しそうだ。下の段にいる音切は髪を結っており、纏められた髪は時々吹く生温い風に揺れた。彼女の白い項が、薄暗い階段の陰に浮かんでいる。喋る気力なんてお互い持ち合わせているはずもなく、朝からただただ無為な時間を過ごしていた。

 ここへ来る前、一階の外にある自販機で買ってきた水の中身は、もう空っぽだ。さかさまにして振っても、ほんの一滴さえ出てきやしない。だというのに、身体は水分を欲している。ペットボトルの形を捉えただけで、水を寄越せとせがむように喉が萎んでいく。溜息を吐くことすら億劫だ。

 鞄の中から財布を取り出し、僕は立ち上がった。脱水気味なせいか眩暈がする。

「音切、飲み物を買ってくるけど、欲しいものはある?」

 口を開くのも煩わしくて仕方ないけど、下の段にいる彼女に聞いた。こんなところで倒れられたら、色々と面倒だ。登校はしても教室に顔を出さない分際で、保健室を利用できるほど、僕の肝は据わっていない。音切はジュースの入ったペットボトルを掲げて、要らないという意思を見せた。僕は何も答えずに彼女の横を通り過ぎ、下の自販機へと向かう。その時に、顔は見なかった。


 外階段を出てすぐにある自動販売機の商品は、不幸にもほとんど売り切れていた。辛うじて売れ残っているのも、甘ったるそうなミルクセーキと、誰が飲むのか分からない黒酢だけだ。どちらもさっぱり爽快、という印象はない。僕は仕方なく、日差しの照り付ける中、校舎の自販機をいくつか回ることにした。

 砂漠で遭難した旅人の気持ちが、今なら心から理解できる。喉は水を飲ませろと訴えるばかりで、何もしてくれない。渇きは増していくだけで、汗は止めどなく溢れ出てくる。目鼻の先にあるはずの自販機が、かなり遠くにあるように思えた。地面に照り返す光が、距離感を狂わせている。まるで、ベルトコンベアの上を歩かされているかのようだ。

 東校舎と西校舎を繋ぐ渡り廊下に設置された自動販売機だけが、頼みの綱だった。屋根があるため、流石に階段よりかは涼しかったが、それでも暑いことには変わりない。運よくまだ飲み物が残っていた。ただ、二台並んだ自動販売機の片側は、他所と同じくほぼ売り切れの表示を出している。ここまで来て多少悩みながらも、手に取られなかったのであろう、聞いたことのないメーカーのスポーツドリンクを購入する。お金を入れてボタンを押してから、商品が出てくるまで、かなり焦らされている気がした。商品が落ちてくると、僕の身体は餌を目の前にした犬のように取り出し、その場で開栓して仰いだ。煩い蝉の鳴き声が心なしか小さくなった。頬の内側、舌の上、歯の隙間、食道の隅々から胃の底まで、グレープフルーツに似た味の液体が染み込んでいくのが分かる。自分がようやく脱水症状気味ではなく、明確にそれを起こしていたのだと、気付いてしまう。本当にあと少し遅かったら倒れていたかもしれない。飲み口から口を離し、中身を確認すると、もう半分もなくなっていた。お蔭で、さっきまで朦朧としていた視界も意識もマシになった。

 いらないとは言われたが、僕は音切の分も飲み物を買って戻ることにした。

 両手にペットボトルを持ちながら、彼女の待つ外階段へと向かう。授業中のはずなのに、蝉の声以外は何も聞こえてこない。今日はとても静かな日だ。そういえば教室へ顔を出さなくなって、二ヶ月ほど経った。家族からは何も言われないし、クラスの誰からも連絡は来ていない。まるで、もうみんな僕の存在を忘れてしまったかのような日々が、生活になりつつある。戻ろうと思えば戻れるはずなのに、僕はまだ次の一歩を踏み出せない。甘え、なのだろう。きっと、音切といることに、安心感を覚えてしまっているから。彼女といると、僕は自らと向き合わなくてもいい。それが本当は楽じゃないことくらい分かっているのに。苦しみを小さく刻んで、何日もかけて飲み込もうとしているだけだ。理解していても、一思いに僕は自身の過去を背負いきれない。苦しみが消えてしまったら、音切とはもう会えなくなってしまう。僕にはそんな予感からくる怖さが、僕をあの場所に引き留めていた。

 だけど、いつか僕たちにも別れは訪れる。その時に僕は、すんなりと受け止めることができるのだろうか。言い表しようのない不安を覚えながらも、階段の下まで戻ってきた。見上げた階段の先にある空は蒼く、相変わらず雲一つない。陽が沈むまで、まだまだ時間はあるけれど、早く夜が来てほしかった。遠くの濃紺へ、この不安を押し付けてしまいたい。そんなつまらないことを考えながら、僕は少しの間、ヴェールのない空を仰いだ。


 外の階段を昇っていき、音切の待っている階を目指す。段を踏みしめる毎に身体は疲れを募らせていく。ようやく昇り終えた先で、音切は位置も変わらずに待っていた。どこかつまらなさそうな顔をして、僕の背後の街を眺めている。手にしたペットボトルを差し出すと、彼女はありがとう、と小さな声で言ってから受け取り、自分の傍らへと置いた。

 荷物を踏まないように注意しながら彼女の横を通り、さっきまでいた位置へと僕も腰かける。温くなっていたコンクリートは、冷たさを取り戻していた。僕の体温が上がっただけなのかどうかは判然としないけれど。それでも、やっぱり日陰になっているここは、涼しくて気持ちいい。

「遅かったね」

 こちらを向かないまま、彼女は唐突に言った。あまり言葉を交わしていなかったからか、会話をしたのは久々な気がする。少し息を潜めていた蝉たちが、思い出しかのようにまた大きく鳴き出す。

「下の自販機、飲めそうなものは全部売り切れだったんだ。ミルクセーキくらいしか売ってなかったけど、そんなのこの暑い中では飲めないだろう?」

 珍しく涼しい風が吹き抜けていく。僕は機を逃すまいと、襟元をばたつかせて、シャツの中へと空気を取り込んだ。汗で湿ったのお蔭でより涼しく感じた。

「暑いな」

 彼女からの返事は何もなかった。せっかくいつもみたく話せると思ったのに、さっきの一言で力尽きてしまったのだろうか。

「どうだっていいじゃない、そんなの。明日もどうせ暑いんだろうし」

 少し間が空いてから、音切はそう言った。数段の距離がとても遠くに思えてくる。まるで、一段毎に見えない壁でも立てられているかのようだ。

 何か、違和感がある。いつもならもっと会話が続くはずなのに。暑さで機嫌が悪くなっているだけなのだろうか。それとも、僕が彼女の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。考えてみたけれど、僕に思い当たる節はない。僕はどうしたものかと思案しつつも、簡単に触ろうとして噛みつかれたら嫌だな、と会話を躊躇ったまま、白い熱によって消えてしまいそうな街を、ぼんやりと眺める。目を焼きそうなくらい煌めくビルの窓ガラス、魚の骨みたいな屋上のアンテナ、家の屋根たち。どれも境目がなくなって一つに融け合い、一枚の現代アートのようになっていた。

 本当に僕たちの中でも格段と静かな一日だ。どうにも胸がざわついて落ち着かない。何度も考えを反復させていくうちに、やっぱり何か原因があるのかを聞いて、それが僕なら謝ろう、という結論へと至った。

「なあ、音切――」

「どうして君は、私と一緒に生きているの?」

 理由を訊こうとした時、食い気味に音切はそんなことを言ってきた。面食らってしまい、頭の中で言おうとしていた言葉が崩れてしまう。あまりにも唐突で、どうしてそんなことを聞いてきたのか理解が追い付かない。

 二人を覆う影が大きくなった気がした。さっきまでの暑さも、涼しかった風も、全てが温く濁っていく。どうして一緒に生きているのか。彼女の言った意味を、何度も胸中で反芻させたけれど、答えは出ない。僕はどうして音切と生きているのだろう。

「ただの『甘え』だよね」

 しばらくの沈黙の後、音切は背を向けたまま言った。遠くに感じていた声が、今では耳元で囁かれているかのように近くで聞こえる。

「君は狡いよ。私は知っているから。君の苦しみは、もうすっかりただの過去になっていることを。なのに私といるなんて、やっぱり甘えだよ」

 正鵠を射た答えが、彼女の口から告げられる。今まで感じたことのないほどの眩暈と吐き気が込み上げてきた。心臓は早鐘を打ち、嫌な汗が鼓動に合わせて滲む。開いた口も塞げずに、僕は彼女の続きを待つ。

「しかも、君は答えを二つも持っているのに、どちらを選ぶことはしないんだね。分かっていないとでも思った? 本当に、本当に――狡いよ」

 耳が痛いという慣用句があるけれど、まさしくその通りだった。鼓膜が彼女の声を、息遣いを、気配を捉えるだけで、針に突き刺されているかのような痛みが襲ってくる。耳を塞いでしまいたいくらいだ。だけど、僕は唐突な音切の言葉に耳を傾ける他ない。聞き漏らさないよう、一言一句間違えないよう。

「ねえ、ここで選んでよ。じゃないと私が報われないから」

 選択なんてできるはずなかった。僕たちになんか興味のないはずの蝉の鳴き声が、また一段と大きくなる。もう終わってほしい。どうして彼女が僕を責めるのか分からない。長い沈黙は時間の進みを遅くしていた。

「もういいや」

 急に、彼女はそう言って立ち上がった。どこへ行くの。押し黙っていた僕は、彼女を引き留めるためようとするが、喉の渇きのせいで上手く声が出せない。咳払いをしても言葉は掠れていて、彼女まで届くはずもなかった。

「もう私は、君のことを――」

 生温かい微風は途絶えることなく吹いていた。焼けるくらいの熱ではなく、不快にさせるだけの熱を孕んだ温度の風。予感だと思う。廃墟に奔る罅のような、いつ崩れても納得してしまう予感。暗い日陰の中で、僕のそれは不意に形を成した。そうだ。僕は彼女がこの後、何を言おうとしているのか分かっている。君だけには口に出してほしくない言葉が、その後に続くことを知っている。だけどもう遅い。答えを選ばなかった結末を、ただ見ていることしかできない。

 僕は彼女が話していたことを思い出した。人間の理性というものでさえ本能かもしれないということ。そして、その理性というものに拘束されていて、罪という幻想を抱いていることを。僕はようやく、真に意味を理解できた。理性とは鎖だった。心だけではなく、身体の至るところまで縛りあげる鎖だ。だけど、やっぱり彼女の言った通り、自身を目の前にある幻から守るための、本能と同じだと思う。そして、幻と分かってしまったのなら、恐れる必要なんて何もない。つまりは、束縛する必要なんて何もないのだ。一つ一つ、音を立てながら。僕は彼女に対して、本能を剥き出しにしているのだと、身をもって体感する。僕はその感情を知っていた。裏切りという名の、関係を切り刻まれたと思い込む自己中心的な感情だ。醜いと分かっているのに、僕はずっと引きずったままでいる。醜いと分かっているから、僕は排除しようとしている。

「分かったから!」

 僕は叫んで立ち上がった。頭の血管がはち切れそうになるくらい、膨れ上がる。胸の内側から溢れ出る彼女へ向けた意識を止めるものは何もない。激情というものは、本当にヘドロみたく汚らしいものだ。僕の叫びで、音切はまた口を噤んだ。耳鳴りが周囲の音に重なった。僕の影が足下に忍び寄ってくる。いつか踏みつけた僕の影に、今度は僕が踏まれそうだ。上手く纏まらない思考の中で、自分のしてしまったことを悔やみ、目を伏せた。脳裏では思い出したくもない忌まわしい記憶が、容赦なくのたうち回っている。

「……信頼、してたんだけどね」

 その言葉は、まさしく絶望だった。下の階の音切のポニーテールが風に揺れる。垣間見えた血の気のない真っ白の項を、静かに睨んだ。目は熱く、体温とはまた違った温度を孕んでいた。『あの人』と同じ言葉。意識に刷り込まれていた絶望が頭の中で反射する。それは黒く鋭い光だった。信頼を失った僕は、一体どこへ行き、何をすればいいのだろう。一段ずつ、ゆっくりと階段を降りながら考える。

 支配に対する恐怖から逃げて、自由を求めた後には孤独な世界が待っていた。僕の信じていた人々でさえ、僕を追放した。結局、音切でさえもあちら側の人間だったのだ。

 後ろから、そっと彼女の首を握る。滑らかで柔らかい肌と、両手でも少し余るくらい細い首の感触が、手の平に伝わってきた。蝉が笑っている。日陰の中から僕の影も笑っている。それがお前の正体だと。理性を失くした、生まれたままの、生きようとする意思の現れだと、真実を突き付けてくる。たしかに滑稽だ。悪人と何ら変わりない。だけど、本能に抗えるほど僕の意思は強くなかった。力を籠めると、指が食い込んでいき、硬い骨の形を捉える。音切は苦しむ様子も、藻掻く様子も見せない。ただ憎しみを一心に受けるだけで、その態度でさえ僕を否定しているように思えてしまう。でも、これが僕の選択なのだ。一方的に涌き上がる怒りの裏側に、虚しさがちらつく。声すら漏らさない彼女とは違い、僕は涙を垂れ流し、喘ぎを押し殺せない。

「醜いね」

 唐突に、彼女の身体から力の抜けていくのがわかった。コキン、という骨の音が、異様なくらい耳の中まで響く。指は握りしめていたままの形をしていて、血肉の塊の重さが、節々に圧し掛かってきて痛い。するりと抜けて、音切は踊場の壁へと凭れかかるように倒れた。ごつんという頭のぶつかる音がする。息が荒くなり、上手く酸素が回らない。眩暈と吐き気で苦しい。耳の奥で彼女の言い残した言葉が、勝手に何度も再生されていた。醜い。そんなこと、分かっている。気に食わなければ、殺してでも否定する人間性が、理性の裏側にはあっただけだ。

 眩暈と吐き気は激しさを増していく。誰かが僕を呼ぶ声がした。もう誰もいないのに。真の孤独を目の前にして、気でも狂ってしまったのだろうか。僕は変わったのだ。理性すら止めることのできない、動物へと成り下がった。変わらないのは、世界の蒼と喧騒だけだった。これから先にあるものは、地獄だ。真実も現実も、もう見たくない。だから僕は、最悪の気分に合わせるよう、静かに目を閉じた。




 目を覚まして最初に飛び込んできたのは、電気の通っていない蛍光灯と無機質な天井だった。周囲を区切るカーテンが、空調に揺れている。空気は涼しくて気持ちいい。次第に、自分がベッドの上で横になっているのだと気付いた。マットレスと服は、汗をたっぷりと吸い込んで重く湿っている。寝起きでぼうっとしていた頭も、次第に霧が晴れていき、首だけを動かして周りを見てみた。右手側の窓の、雑に貼られた目隠しシートの隙間からは、オレンジ色の光が差し込んでいる。夕方なのか、朝なのか、時間感覚が狂っているせいで頭の中は混乱してしまう。身体の所々が殴られた後みたいに熱を持っていて、耳の奥や頭も痛かった。自分が今、どうしてここに寝かされているのか分からない。

「起きたの?」

 ベッドの中でもぞもぞとしていると、反対側から音切の声が聞こえてきた。咄嗟に彼女の方へと顔を向けると、おはよう、といつも通りの顔で挨拶をしてくる。音切はベッドの真横の椅子に腰かけながら、パックのジュースを啜っているところだった。

「僕は……」

 上体を起こし、彼女と顔を合わせる。不意にさっきまでの光景を――自分のしてしまったことを思い出して吐きそうになり、反射的に口元を手で覆ってしまう。

「大丈夫?」

 そう言って、音切が背中を摩ってくる。心配されるなんて初めてのことだ。硬い手の平の感触が骨を伝ってきた。全身が粟立ち、すぐにでも彼女の手を払い除けたくなったが、それよりもまず、状況を理解できていなかった。僕はこの手で音切の首を絞めたはずだ。指の関節にも痛みは残っているし、食い込んでいくあの感覚もまだある。だけど、音切はちゃんと生きている。あれは、夢だったのだろうか。いや、それともこちらが夢なのだろうか。どちらとも判然としない。

「君、飲み物を買いに行くって言って立ったら、階段から落ちてきたんだよ」

 ゆっくりと動く彼女の手によって、段々と自分の身に起こったことを思い出し始める。たしかにあの時、僕は立ち眩みを覚えた。だけどその跡は普通に自販機へ行って、飲み物を買ったはずだ。

「びっくりしちゃった。保健室連れてきてから今まで寝てたんだよ。着替えさせるのも大変だったんだから」

 そう言われて、僕はようやく自分が制服ではなく、体操着を着ていることに気付いた。

「音切が運んでくれたの?」

 徐々に冷静さを取り戻し、吐き気もマシになったので、やっと音切へとことのあらましを聞いた。

「そう。まあ倒れたって言っても、朦朧としている感じだったの。肩を貸してあげたら歩けてたよ」

 どうやら僕は本当に倒れてしまったらしい。ハッキリとした記憶はないけれど、彼女の言い方は噓に聞こえない。どちらにしても、嫌な気分だ。あんな夢を見た後で、簡単に話せるはずもなく、僕は下を向いた。薄暗い部屋に自分の手の平は、ぼんやり浮かんでいる。夢の中であったとしても、僕は彼女を殺そうとした。しかもこの手で。現実との区別がつかないほど、強い意志を持って。ただの夢だと簡単には割り切れない。まるで、僕の奥底に眠る正体を突き付けられたかのようだ。殺そうと思えば、隣にいる人でさえ殺せてしまう人間。これが僕の怒りであり、本能なのだと、恐ろしくなるほど理解している反面、横たわるそんな事実を受け入れられるわけがなかった。

 これから先、もしも現実であの夢のようなことがあったら僕は一体、どうするのだろう。音切が、全く同じ台詞を吐いて、僕を貶そうとした時、僕はまた、彼女の首に手をかけるのだろうか。程良く効いていた空調に、段々と寒さを覚えはじめた。

「大丈夫そうなら着替えて。もうすぐ完全下校時間だから」

 俯いたまま考えていると、彼女はそう言い残してカーテンの向こうへと出て行った。僕もベッドから出て、汗まみれの体操着を脱ぎ捨てる。肩は倒れた時に打ったせいか、青あざができていた。恐らく、熱中症で倒れたのだろうけれど、彼女が助けてくれなかったら、僕は死んでいたのだろうか。制服はサイドチェストの上に置かれた制服を手に取り、そそくさと着替えながら、そんなことを考える。僕は夢の中で殺して、彼女は現実で僕を助けた。音切に夢のことは話していないし、話せるはずなんてないけれど、なんだか皮肉めいたものに思えてしまう。

 窓の隙間から漏れる光が、僕の胸元を照らす。昼間の暑さとは違い、暖かい熱を感じた。

「ねえ、まだ?」

 カーテンの向こうで音切が急かしてくる。止まっていたシャツのボタンをかける手を、僕は慌てて動かした。

「ごめんごめん、お待たせ」

 着替え終わってカーテンを開くと、ちょうど完全下校を告げる校内放送が流れ出した。外では部活の終わった生徒たちの楽しそうな声が聞こえてくる。

「じゃあ、行こ」

「部屋、このままでいいの?」

「先生は用事があるから、このままでいいんだって」

 そう言って先を歩き出した彼女の後姿へ、僕もついていく。保健室には、冷たい空気を吐き続けるエアコンの音だけが響いていた。

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