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 お昼を少し過ぎた頃、僕たちは公園を後にして、また散歩へと戻った。東西に真っ直ぐ伸びる国道に沿って、目的もなく歩いていた。時折立ち止まったり、走ったりしながら。普段だったら、学校にいるはずの時間だと思うと、高揚にも似た背徳感でいっぱいになり、もしも補導されたりしたら一体、どうなってしまうのだろうなんて想像をしたりした。だけど、結局は杞憂で終わり、三駅分ほど徒歩で進んだ。南へ下ると海水浴場があったので、僕たちはそこへ寄った。地元の海とは比べ物にならないほど整備されていて、波の満ち引きの音と、浜辺で遊ぶ大学生くらいの人たちの声だけが、どことなく遠くの方から聞こえてくるくらい静かだった。暑くはなったけれど、海水浴にはまだ早い季節だからだろう。僕たちは自販機で買った飲み物をベンチに腰掛けて飲みながら、ぼうっと日が暮れていく様子を眺めていた。それはまるで、世界の終わりを傍観しているような時間だった。ゆっくりと沈んでいく太陽が、鳥も、人も、海も、全てを飲み込んでしまいそうなオレンジを放っていた。

 きっと、音切にはもっと違う夕景が映っていたのだろう。

 帰宅ラッシュと重なった車内で、大量の人に揉まれながら地元へと帰っている最中、さっきの夕陽を脳裏に浮かべながら、そんなことを思う。同じ場所の記憶を共有していても、感情まで合わせられないのは少し寂しい。電車の中では誰ひとりとして喋っていない。これから牢屋に入れられる人々が運ばれているみたいな、殺伐とした空気で満ちている。車掌のアナウンスでさえ、ある種の絶望に聞こえた。

 電車が駅に着くと、後ろからくる人の波によって、ホームへと押し出される。身体の細い彼女は圧し潰されやしないかと、少し心配になった。一瞬だけ離れ離れになってしまったけど、無事にまた落ち合えたので、そのまま改札口まで人混みに乗って抜けていく。疲れた身体に、大勢の人の気配は堪えた。だけど、辺りにいる人はみんな疲れ切った顔をしていて、お互いの疲労を擦り付け合っているせいで、無駄に疲れを感じているのかもしれない。

 駅前の駐輪場に止めてある音切の自転車を回収して、帰路へと着く。空を仰げば、すっかり夜は始まっていた。白く光る街灯には虫が群がっていて、下ではスーツを着た社会人や学生たちが気の抜けた姿で歩いて行く。車道ではそんな光景を冷たく笑いながら車が過ぎ去っていった。夜空の暗さは、彼らの苦しみのようだ。僕にはこの道を歩く人々の人生が、どうなっているのかは分からない。だけど、ここにいる人々の顔が少なからず、明日なんて考えていない風に見えてしまうのはきっと、夜空が今日の苦痛を吸い込んでいるからだろう。

 同じような日が、これから続くかもしれないのに。横切っていく車たちに似た、冷たい気持ちが僕の中には芽生えている。溺れている最中に、たまたま息継ぎができたかのような束の間の希望に、意味はあるのだろうか。ただただ疑問だった。いや、これは僕が上手くできなかったことへの醜い嫉妬だ。夜の空に、絶望を昇華させられなかった人間の醜い嫉妬。まだ割り切れていないところが、僕にはあるのだろう。あの日々のこと、誰にも話せない感情、暗いところから見つめる影。僕はまだ、夜を受け入れきれていない。音切と出会ったというのに、未だ。

 違う。

 音切と出会ったからこそ、僕は自分の過去と向き合うことがいっそう怖くなった。目を背けてはならないと思っているだけで、断片さえ見れていないのだ。

 無言で考えに更けていると、ふと隣から空っぽの音が響いた。街灯に照らされた音切の押す自転車のカゴの中には、ペットボトルが捨てられている。中身がないせいか、タイヤから伝わる振動で、カラカラという間抜けな響きを奏でていた。近くにはゴミ箱がなさそうなので捨てられなかったのだろう。僕はその様を見て、階段に落ちている硝子の破片のことを思い出した。意味を失った硝子片たち。彼らは本当に、自分自身の存在だけを訴えかけていたのだろうか。

 無意味な思考を振り払おうと、空を見上げる。日中はなかった雲がちらほらと浮かんでおり、それを寄せ付けないほど強く輝く月が出ていた。今夜は満月らしい。

「月が出ているね」

 僕が首を擡げていることに気付いた音切も、同じ姿勢を取りながら言った。僕たちは夜空の大きな光を仰ぎながら、自然と歩みを止める。視界の隅には、彼女の黒い長髪が、柳の葉のように垂れていた。

「大きな穴みたい」

 か細い声で彼女が呟いたのを、僕は聞き洩らさなかった。風が吹いていれば、辺りがもう少しうるさければ、聞こえなかったかもしれない囁きを。不意に、昔どこかで耳にした話が、頭の中を過った。

『夜になると人々は盲目になってしまう。だから、神様は空に穴を開けて光を灯し、その穴を人々は月と呼んだんだ』

 いつ、誰に聞いたのかも思い出せない話だけど、内容だけは記憶の端っこで転がっていた。黒い背景によく映える大きな穴。もしもあの穴をくぐれたのなら、先に何があるのだろうか。あそこから漏れている光と同様の明るさに満ちた世界が、広がっているのだろうか。分かっているのなら、今すぐにでも飛び込んでみせるのに。

「綺麗だね」

「そう?」

「音切はそう思わないの?」

「私はお月様よりも星の方が好きなの」

 そう言われて僕は月から目を離して、星を探してみる。でも、一つも見つからなかった。音切には見えているのだろうか。ずっと眩しい月を眺めていたせいか、網膜にはまん丸の残像が張り付いていているせいかもしれない。

「ねえ、もしかして今なら死んでもいいとか思ってるでしょ」

 上を向いたままの音切が、唐突に聞いてくる。彼女の瞳に、まだ星は映っているのだろうか。

「そうかもしれないね」

 わざとはぐらかすような返事をしたけれど、音切はそれ以上何も返してこなかった。きっと、質問に特別な意味はなかったのだろう。ただ聞いてみただけで、微塵も興味なんてないに違いない。温い風がどこかの家の夕食の香りを運んでくる。空腹が早く帰れと訴えかけてきたので、僕はまた歩き出した。

 僕にとっての月は君なんだ。そんな台詞を直接、彼女には伝えられなかった。昔の人々が暗い夜を照らした穴の向こう側に希望を抱いたように、君がいなければ僕は盲目となってしまう。手探りで何もわからない闇の中を永遠に彷徨うことになる。

 君がいてくれるからこそ、僕は夜を進める。

 ずっと隣にいてほしい。

 その望みが、理性に背く罪であったとしても。

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