9.「えっ、じゃんけん知らないんですか。それでも人間ですか」


 紅白色が交差する鉄塔のてっぺん、夕焼けに焦がれる一人の少女の髪が白く眩く。


 無機質な骨の集合体と紺のスカートが接着しており、リンネは右膝の上に右腕のひじを乗せ、さらにその右腕の掌の上に顎を乗せ、前かがみの姿勢でぼうっとしていた。ガガガガッ、ガガガガッ、節操のない振動音が空間を支配する。彼女の目に映っているのは鉄を喰らう獣であり、自意識を失った巨大なぬりかべはわが身がこぼれおちていくのを享受するのみ。リンネは形容不能な心地を覚えていた。哀愁でもなく、安寧でもなく、寂寞でもなく。知覚できる一つの事実を、脳内に反芻させながら。


「キミの死に場所は、これにてなくなったな」


 フワリ。彼女のすぐ隣で阿呆面が空中を遊泳している。着流しを纏った天狗とセーラー服を纏ったリンネの視線の先、二台の巨大なショベルカーが四階建ての廃アパートを取り壊している。


 彼女は天狗に返事を返さなかった。必要性を感じなかったのと、声を出すのが億劫だったからだ。くしゅんっ。リンネがくしゃみをした。彼女は高所恐怖症ではないが、一切の遮蔽物を有さない天空において秋風は自由奔放であり、その場に身を置く者としてリンネはあまりにも薄着だった。「寒いのか、どれ、ラーメンでも食べに行くか」。天狗の声はあいかわらずひょうひょうと掴みどころのかけらもなく、「またですか」、リンネが辟易の混じったタメ息を吐く。「リンネさん、天狗さん」。幼声が彼らの間を抜けたかと思うと、亜麻色の巻き毛がたゆんで揺れる。時代遅れの藁ぼうきに腰をかけた一人の少女が夕空散歩に勤しんでおり、リンネの水晶体に映る死神が橙色と重なり合った。烏羽色のローブが白の光を反射させ、「アタシ、小籠包食べたいです。アツアツのやつ」、彼女がそんなコトを宣うものだから、リンネのお腹がぐうっと鳴って。



 リンネは高校を中退した。糸がたゆむような時間が緩やかに流れていった。冬が訪れ、師走の吉祥寺はそれなりに喧しく、駅前のイルミネーションはそれなりに気合が入っていた。ブルーハワイさながらの青、電工色の眩さは眼に入れるにはやや甘味が強く、白の集合体は視界の端から端まで、人間の眼球では一呼吸で覆うことができない。まぁでも、それなりに綺麗だな。リンネはポツリとそう思った。そういえば、街のイルミネーションをまじまじ鑑賞する経験なんて、齢十七年の歴史の中であっただろうか。そんなコトも脳裏によぎった。

 「人間っていうのは、毎年毎年、よく飽きたりもせず似たような茶番劇に身を費やすことができるものだな。不可解極まりない」。吉祥寺駅前の大通りには植え込みが所せましと乱立されており、一角の塀に腰を掛けるは例の奇天烈三人組であった。白い吐息と共にトーンの低い声をこぼした天狗に対して、返すリンネの言葉は淡々と抑揚のかけらもなく。「無理やり理由でも作らないと、騒ぐことすらできないんですよ。人間っていうのは」。早々に意識を切り替えたリンネはあむりとたい焼きを口の中に運び、彼女の隣、真っ赤なマフラーで口元を隠しているのは死神で、彼女は恍惚の表情で人差し指を水平に伸ばしはじめた。「リンネさん、天狗さん、アレ、あたし、アレ食べたいです」。彼女の示す方へとリンネが目を向けると、ガラス窓に囲われた鉄のケースの中、二本足の立派な七面鳥の丸焼きがどどんっ。脳内で肉汁の弾ける音が流れ、時空を超えた香ばしさが彼女らの鼻先を刺激する。「一羽千六百円だと。バカな、殺人的な価格だ。明日から文無し芳一になってしまうではないか」。天狗が大仰に立ち上がり、ダメだダメだと舞台役者の如く宣う。「えー、クリスマスなのに」。死神が露骨に口をとがらせ、頭の後ろで両掌を交錯させながら、しかしその口にはたい焼きの食べカスがつきまくっている。「えー、クリスマスなのに」。リンネが可愛げのない声をわざとらしく重ねる。少しだけ、愉しそうに口角を上げながら。八の字眉を作ってううむと唸ったのは言うまでもなく天狗で、数分後に彼が白旗を上げる事案もまた、綴るまでもなく。



 今年の春は桜が散るのが早いな。リンネはポツリとそんな感想を胸中にこぼした。ヒラリヒラリ、暗がりに塗れる花びらの群はどこか神秘的で、やけにくっきりとした輪郭で深淵を舞っていた。


 井の頭恩賜公園、東京都内に居を為す者ならば名前くらいは聞いたコトがあるだろう。駅前の商店街同様、行楽シーズンになると巣に水を流し込まれた蟻の群れさながらの賑わいを見せるその場所だったが、今時分はド深夜である。街灯が照らすのは例の奇天烈三人組と、一晩の逢瀬を堪能するアベックと、謎のモチベーションで深夜ジョギングに勤しむハゲたオッサンくらいなもので、ありていうに言うと園内は静かだった。木造のベンチを我が物顔で寝そべっている死神がグーグーと寝息を立てている。「綺麗だな」。リンネの隣、両腕を両袖に入れ込みながら、花びらのシャワーを全身から被っている天狗の顔はいつになく澄ましていた。「ええ、まぁ、それなりに」、返答を窮したリンネは適度に適当な返事を返し、間を埋めるようにとそのまま質問を重ねた。「天狗さん、桜を見たいって、なんで、昼じゃなくて夜だったんですか」。天狗はすぐに返事をしなかった。訝し気に思ったリンネは彼の顔を窺い見て、幾ばくか遅れて彼の視線も移ろう。リンネを細い目つきで見下ろしている天狗が、「そうだな、明るい桜は、もう見たことがあるから」、微妙に納得感の薄い解答だった。リンネは少しだけ眉を吊り上げながら、ただ、さして興味のある質問でもなかったので、「ああ、そうなんですか」。相変わらず覇気のない彼女の声で、彼らの会話は幕を閉じる。

 園内に響くは、ハゲたオッサンの息遣いと足音、あとは節操のない死神のいびき声であり、いつのまにやら一組のアベックは姿を消していた。



 リンネと天狗は同じ時を過ごしていた。天狗は、天狗のくせに賃貸の木造アパートを棲み処としていた。天狗が身分証明書を所持しているワケもなく、数年前に出会ったモノ好きなオーナーに、口契約で飼われる身分であった。ちなみに天狗は、オーナーの知人が営んでいる古本屋でたまに店番をして駄賃をもらっている。雀の涙を寄せ集めたような金銭は、大概死神とリンネの胃袋の中に消えるのが通例だった。


 「今日はどこも行かないんですか」。六畳一間の和室、遮蔽の術を持たないガラス窓からは全速力の日差しが屋内になだれ込んでおり、のべりと横たわっている一人の少女の全身をジリジリ照らしている。扇風機の風を独り占めしているリンネは無地のシャツとベージュの短パンという、およそ小学生児童のような恰好を享受しており、彼女がうら若き花の乙女である自覚を持ち合わせていないのは誰の目からみても瞭然だ。同室に存在していた天狗はというと、あぐらをかきながら壁に背を預け、ピンと姿勢を伸ばし、薄茶色に変色した文庫本に目を落としている。「金がないし、暑いからな」。彼は彼女の目を見ぬまま、口だけを動かす。「お金がないのはいつものことですし、暑いのも毎日そうじゃないですか。あー、私、そーめん食べたいです」。彼女もまた、天井に向かって声を投げる。「今、切らしているな。昨日は僕が買い出しに出かけたのだから、今日は君が猛暑地獄へ招待されるべきだ」。天狗の発言は珍しく道理に適っており、しかしリンネの五体を動かすのにはいかなるロジックも通用しなかった。うぞうぞと首だけを動かしたリンネが天狗の顔を見上げ、左頬を床に接着させながらにへら笑う。「じゃんけんしましょう。負けた方が、スーパーにそーめんを買いに行く」。彼女が右腕をだるそうに振り上げたところで、天狗は首を斜め四十五度に傾けた。「なんだ、その、じゃんけんっていうのは」。「えっ、じゃんけん知らないんですか。それでも人間ですか」。「たわけ、僕は天狗だ」。乾いた声が湿った室内に錯綜し、リンネが、「とりあえず、掌を握りこんで前につきだしてください」と天狗に指令を出す。首を斜め四十五度に傾けたままの天狗は、言われるがままにコトを為し、無骨な掌が握られる様を視認したリンネが再び自身の右腕を上下運動させた。「じゃーんけーん、ぱー。はい、私の勝ちー」、天狗が露骨な八の字眉を披露し、床に寝そべったままのリンネはというと、ケラケラ無邪気に笑っていたりする。

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