8.「キミの髪型」


 リンネの意識は聴覚に支配されていた。どういうコトなのだろう、天狗は何を言っているのだろう。相変わらず彼女は、怒涛に溢れる質問事項に優先順位を付けあぐねていた。付けあぐねているリンネの意識が、さらに彼方へと追いやられる。上流から押し寄せるテキストの濁流によって。


「今のキミが生まれる前に、僕は前世のキミと出会っていた。前世のキミもまた、名前をリンネといった。今のキミよりも少し歳が上だったが、顔も髪型も今のキミとそっくり、まるで生き写しだ。前世のリンネと僕はな、一年ほどの間、共に生活を過ごしていたコトがある。彼女は病で死んでしまったが、息絶える前に言ったんだ。生まれ変わった私とあなたは、必ず再び出会う。だからあなたは、来世の私を見つけて欲しい、と。僕は十年以上の間キミのことを探し続けた。そして半年前、ようやくキミを見つけたんだ」


 幾ばくかの静寂が流れた。静寂はすぐに打ち破られた。血の混じった金切り音が青い闇夜を突き抜け、リンネが天狗の身体を突き飛ばすように両掌で押しやる。全身のバランスを崩し、後ろに二、三歩よろけたのは天狗で、リンネは肩を強張らせながら叫び声をあげていた。彼女の顔面が、ひしゃげる。


「バカにしないで。そんな話、私が信じると思っているのですか。与太話も、大概にしてください」


 リンネは両肩を震わせていた。両目には涙が滲んでいた。我が子を守る野良猫のように、彼女は自身に近づく一切の干渉を拒んだ。リンネから少し離れた位置にユラリ佇むのは天狗で、彼は細い目つきで何かを逡巡するようなそぶりを見せる。彼女から視線を外し、すぐにまた戻す。


「キミの髪型」


 天狗は横目でリンネの全身をとらえていた。天狗の鼻頭にかかる丸縁メガネのレンズには、暗がりに塗れる女子高生のシルエットが浮かんでいる。天狗はやはり、丁寧に声を重ねていった。リンネの耳に、一つ一つの音が、糖度の高いミルクココアの如く注ぎ込まれる。彼女は、その音から逃れる選択肢を失っていた。


「時代錯誤のおかっぱ頭。好んでそうしているワケではないだろう。人よりも大きな耳がコンプレックスで、それを隠すためにしかたなくそうしていると、前世のキミから聞いた。このことは、誰にも話したコトがないと言っていた。キミも、同じ理由なのではないか?」


 リンネは返事を返さなかった。しかし、天狗はすでに返事を必要としていなかった。色を失った顔で、口を開け放ったままのリンネの表情を目視できたから。


 やがてリンネが大きな息を吐き出した。天狗から視線を逸らし、やりどころのないエネルギーを鬱憤晴らすようにと、乱暴に髪をかきむしる。再び天狗に目を向けた彼女は、温度の有さない瞳で彼のことをうすら眺める。


「では、百歩譲って、アナタが前世の私と出会っていたとしましょう。生まれ変わってまた再会しよう、そう約束していたとしましょう。それが、今の私が生きる理由と、どう繋がるのですか。今の私は今の私であり、前世の私は関係がありません。私が犯した罪は消えませんし、私が存在価値のない人間である事実は、変わりません」


 彼女の声は機械音声のように抑揚がなく、而して、声を返した天狗もまた淡々と。


「その考え方は、君の視点から見た世界での話だ」


 一瞬、逡巡したのはリンネで、彼女の瞳に体温が宿る。


「どういう、意味ですか」

「僕の視点から見る世界では、君の存在が必要なんだ。僕は、キミを愛する必要がある」

「はっ?」


 最大級で、最上級の、「はっ?」だった。リンネの口角が限界まで吊り上がったのは言うまでもなく。天狗がお構いなしに口弁を垂れ流している事案もまた、綴るまでもなく。


「いいか、前世のリンネは僕を救ってくれた。死の淵にそぞろ立っていた僕を、現世へと引っ張り込んだのだ。彼女は僕に愛を与えた。でも僕は、彼女に対して何も与えなかった。必要性を感じなかったから。それでも彼女は僕に愛を与え続けた。でも僕は、そのコトに気づきすらしなかった。彼女がこと切れたあと、僕はたぶん、寂しさを感じていた。だけど、その理由がわからなかった。僕は天狗だから、人間に情をほだす道理は一切有さない。だけどな、何か心に引っかかるような感覚があったんだ。彼女に対して、僕は何かをしてやるべきだったのだろうか。そんなコトばかり考え続けていた」


 天狗は大真面目な顔をしていた。幾分か、気持ちが高揚しているようにも見えた。リンネは彼の言葉の一つ一つを理解するコトはできたが、紡がれた物語として解釈するには少々荷が重すぎた。だが天狗は大真面目な顔をしている。その事実がリンネを葛藤させた。


「さきほど君の身体に触れた時、僕は全てを理解した。僕が生きている理由を、僕の人生の役目を、前世のキミが再三言っていた言葉の意味を、ようやく知るコトができた。前世のキミがしてくれたように、僕が生きることのできるあと一年の間、僕は全力でキミを愛する必要がある」


 戯言だ。世迷言だ。リンネの頭の中で肯定と否定のエネルギーがぶつかり合い、彼女は情報の脳内処理が追い付いていなかった。しかし一文、天狗が何気なく放ったその言葉が、リンネの耳の奥に引っかかる。彼女は、「最後、なんて?」、脊髄反射で声を返していた。天狗が無表情のまま笑い、流暢に声を紡ぐ。


「僕の寿命は来年の今日までらしい。死神にそう宣告された」


 灰色に広がるコンクリートの地面は表情を持たなかった。錆びた鉄柵は触れるとヒンヤリ冷たく、ザラザラの表面は触り心地が悪かった。月明かりは、彼らを照らすにはあまりにも心もとなく、役割を失った廃アパートに電気は通っていない。

 天狗が今ひとたび、懇願する。


「リンネ、キミは僕のことを愛さなくていい。だが、僕はキミのコトを愛する。キミは、僕のそばにいてくれれば、それだけでいい」


 彼らの視線は交錯したまま、天狗は静かに口を閉じた。

 やがて、リンネの全身が震えはじめる。鼻を啜る音が暗がりに響く。彼女の両目から大粒の涙がこぼれた。「意味、わからないです」。彼女が声を漏らす。「天狗さん、さっきから、何を、言っているのか」。彼女が言葉を漏らす。リンネの顔が赤子のようにふやけて、頬が赤くなる。彼女が有する一切の感情が、外の世界に出たがっているようだった。「でも、」。地面に落ちた幼い音が、雨粒のようにはじけて消えた。「本当に、」、リンネは一本の絹へすがるように、一つの質問を天狗に投げかけた。


「本当に、私は、生きていいんですか」


 天狗はすぐに返事をした。あまりにも拍子の抜けた、まるで世間話をするようなトーンの声で。


「生きていい、のではない。僕のために、生きる必要がある」


 リンネは両膝を地面に落として、両腕を地面に落として、灰色のコンクリートに顔を埋めた。大口を開けて、大きな声で、ワンワンと泣いていた。

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