10.「キミにはもう、わかっているはずだ」


 天狗とリンネが出会ってから、二度目の秋がきた。吉祥寺の駅前からアーケード街を突き抜け、突き当りの大通りを左折してから徒歩五分ほど、彼らは武蔵野八幡宮と称される神社の境内にいた。石段に腰をかけ、腰二つ分ほど距離を離して、がらんとした石畳の地面を二人して眺めていた。夜虫の音がアトランダムに錯綜して、自動車が滑走する音が塀を挟んで流れ込む。死神の宣告を運命と定義づけるならば、明日は天狗の命日だった。


 しばらく、彼らはただそうしていた。お互いに口を開くコトをしなかった。彼らの視線が交錯するコトはなかった。やがてユラリ立ち上がったのは天狗。虚空に向かって放られた彼の言葉が、リンネの耳を撫でる。


「さて、僕はそろそろいくとしようか」


 音もなく石段を降り、音もなく境内の石畳を踏み歩く。藍色の着流しが黒のシルエットを為し、リンネの瞳に彼の背中がおぼろげに映る。一つ一つ足を運ぶたびに、彼の姿が幾ばくか小さくなっていく。


「待って、待ってください」


 リンネが声をあげると共に、彼女は足をもつれさせながら腰をあげた。すがるように、前かがみの姿勢で彼の背中を追った。革靴が甲高く衝突する音が響き、リンネはしなだれるように天狗の背中に顔をうずめた。


「私はこれから、どうすればいいんですか」


 彼女が口を開き、吐息が分厚い綿地を湿らせる。和服特有の埃っぽい匂いが彼女の鼻を刺激し、天狗はピタリ足を止めた。両袖に両腕を入れ込み、境内のど真ん中で凛と姿勢を正しながら、彼はそぞろ立った。


「天狗さん、こう言いましたよね。私が生きる意味は、天狗さんが私を愛する必要があるからだと、天狗さんが生きている間、私はただ、あなたの傍にいればいいのだと。では、あなたがいなくなってしまった後の私は、何を目的に生きればいいのですか」


 リンネの声は震えていた。天狗の背中を両掌でギュッと強く掴み、離す気配がなかった。彼女の視界は藍色に支配され、彼女の耳には静寂が鎮座している。さ中、音域が低空飛行で僅かに揺れるようなトーンの声が、湿った秋風に混ざった。


「キミにはもう、わかっているはずだ。例え今わからなかったとしても、いずれわかる」


 リンネはふいに、不可思議な心地に襲われた。現実世界がぐにゃりと歪み、一瞬だけ自意識と世界が繋がるような感覚。彼女は「えっ」と声を漏らして、天狗の背中を掴んでいた力を緩めた。自由の身となった天狗がくるり身体を半回転させ、瞳潤ませる黒髪おかっぱ少女を細い目つきで見下ろした。リンネも思わず顔を上げ、彼らの視線が久方ぶりに交錯する。


「僕の役目は終わった。僕はこの一年、僕なりのやり方で君を愛したつもりだ。かつてのキミが、僕にしてくれたように」


 リンネは、鼻先三十センチメートル先の天狗の顔を見つめていた。暗がりに塗れる彼の顔は、輪郭が薄ぼんやりとどこかはっきりしていない。思わずリンネは右手を伸ばし、彼女の指先が天狗の頬に触れる。確かな温もりが、彼の存在をリンネに知らせた。天狗は柔らかく笑いながら、彼もまた無骨な右掌で彼女の髪を撫でた。


「神妙な顔をするな。最近キミは、ようやく笑顔を見せるようになってきたというのに。そういえば、前世のキミもよく笑っていたな」


 頬に涙が伝った、一呼吸遅れて、リンネはその事実に気がつく。心の糸が解きほぐされて、感情が一挙にたゆんでいった。頭皮を伝う天狗の体温をただ優しく感じた。フタのない自我が溢れる。彼女の口から声が勝手にこぼれ落ちた。


「天狗さん、私はあなたを、失いたくありません」


 リンネは相変わらず泣き顔だった。彼女の顔が赤子のようにひしゃげ、天狗が今ひとたびやわらかく笑った。彼は袖から一枚のヤツデの葉を取り出し、ソレをつまんだ右腕を高らかに掲げた。「なあに」、ひょうひょうと、つかみどころのない天狗の声が、夜空舞う。


「寂しさを感じる必要はない。僕たちはどうせ、また出会う、その時は」


 突如、がらんどうの境内に突風が巻き起こる。

 リンネは思わず目を閉じた。かばうように右腕で顔を覆い尽くし、左腕を自身の腰に絡ませた。紺のスカートがあばれるようになびいて、一瞬という時が彼女から奪われる。


 次に彼女が目を開いた時には、がらんどうの境内には灰色の石畳がただ広がっていた。夜虫の音がアトランダムに錯綜して、自動車が滑走する音が塀を挟んで流れ、リンネはペタンと地面に腰を落とす。その時は、何なんですか。最後の最後で、よく聞こえませんでしたよ。彼女は地面をジッと見据えて、無色透明の顔つきで徐に右腕をあげた。自身の頭にそっと手を置き、優しくなでてみる。そのまま髪の束をギュッと掴み、パッと離す。幾千の糸が無造作にうねりを上げた、自然法則にしたがうまま、不格好な形状を維持したまま。



 リンネはまんじりともせず夜を明かした。布団の中で目を瞑って、身じろぎせずにじっとしていた。やがてカーテンの脇から太陽の光が漏れ込み、彼女はムクリ起き上がる。上半身に溜まった血液がドロドロとゆったりと、全身を流れ落ちる感覚が妙に気持ち悪く、彼女はしばらくそのままの体勢でいた。やがてふぅっ、と大きく息を吐き、布団から這い出た彼女は洗面所に向かい、顔を洗い、朝の雑事を済ませ、寝間着を乱暴にはぎとると洗濯機の槽へと投げ入れた。自室に戻り、床に放ってあったジーンズに足を通し、クローゼットの中から適当に掴んだシャツに袖を通す。家を出ると、曇り空が彼女を出迎えた。秋の朝はやけに肌寒かった。


 彼女は天狗の棲み処に足を運んだ。当たり前のように、昨日までそうしていたように、彼の家を訪れた。天狗は不用心なことに、施錠という文化を持ち合わせていなかった。天狗は大概、壁を背にしながら文庫本に目を通しており、リンネがガチャリとドアを開けると、「おはよう、今朝は冷えるな」、などと杓子定規な挨拶を幕開するのが通例だった。そのまま彼の部屋で一日を過ごすこともあれば、ふいに「どれ、今日は井之頭公園にて散歩でも興じるか」と天狗が外出を提案することもあった。今日に限ってはそのどちらでもない。リンネがガチャリとドアを開けると、その部屋には誰もいなかった。


 リンネはその場で直立したまま、誰もいない部屋をぼうっと眺めた。しばらくして部屋の中央にちょこんと腰を掛けて、背の低いちゃぶ台に肘をついて、手の甲に頬を寄せて、今度は窓の外をぼうっと眺めた。天狗の棲み処は二階であり、景観は良くなかった。すぐ隣の家屋の白い壁が見えるだけだ。


 お腹がすいてきたな。リンネがそう感じ、部屋の掛け時計に目をやるとすでに正午を回っていた。彼女はのそり立ち上がり、ガチャリ部屋のドアを開けやり、最寄りのコンビニを訪れる。あまり悩むコトもせずに鮭弁当を手に取ると、レジに持って行って「温めてください」と言う。天狗の家に電子レンジがない事実を彼女は知っていた。ビニール袋をひっさげ、彼女は木造アパート二階の部屋へ再来する。錆びた鉄の階段は一段がやけに高く、ガンガンと大仰な足音が響いた。小さなちゃぶたいの上に先ほど購入したコンビニ弁当を広げた彼女は、もしゃもしゃと鮭の切り身を咀嚼した。それ以外の音は何もなかった。


 電気をつけていなかったので、日が沈むにつれて天狗の部屋は暗闇に包まれていった。リンネの姿もまた、深淵に包まれる。ちゃぶ台の上にのべっと身体をつっぷしていた彼女はハッとなり、知らぬ間に寝入ってしまった事案に気づいた。真っ暗の部屋の中で掛け時計を視認することはできず、スマートフォンに目を落とすと時刻は夜の十時を回っていた。空になったコンビニ弁当を包んだビニール袋が床に転がっており、彼女はソレを手に取ると、暗がりの中よろよろの足取りで這うように玄関ドアを目指した。まさぐるように手を動かし、四つん這いの体勢でスニーカーを手に取り、しゃがみこんで両足に装着する。ガチャリ、鉄製の扉を開け放った彼女は、天狗の棲み処を後にして自分の家へ帰った。リンネが同じような生活を一週間ほど続けていたところで、イレギュラーが発生する。第三者が天狗の家に来訪した。


「あれ、リンネちゃん。天狗はいないの?」


 日曜の昼間だった。彼女はいつものようにコンビニで弁当を調達しており、卵焼きを箸でつまんでいたところだった。ガチャリ、鉄製の扉が開け放たれ、彼女の鼓動が大きく高鳴る。彼女の水晶体がとある人物を捉え、彼女の心臓がしゅんとしぼんだ。秋だと言うのにアロハシャツを身に纏い、色黒の肌に金髪の短髪、およそ歳相応とは思えない風貌の彼に、リンネは見覚えがあった。このアパートのオーナーだ。


「天狗さんなら、いなくなってしまいました。ここにはもう戻ってこないと思います」


 リンネはそう言いながら、ズシンと心臓に重い石がのしかかるような感覚を覚えた。急に食欲を失い、割りばしを弁当箱の上に静かに置いた。彼女はうつむきがちに目を伏せっており、しかしアロハシャツのオーナーは、「ふーん、そっか」とのん気な声をあげている。一呼吸の沈黙を挟んで、再び彼が口を開く。


「リンネちゃん。悪いけどさ、天狗が本当に戻ってこないのなら、この部屋の荷物、整理しておいてくれない? 欲しいものあったら、持っていってもいいからさ」


 リンネは色黒の肌に刻み込まれた頬の皺をジッと見つめ、やがてコクンと力なく頷いた。「じゃあ、よろしく」。快活な発声の上に、錆びた鉄のきしむ音が重なる。リンネは半分ほど残したコンビニ弁当の上、プラスチックの蓋を被せ、そのままビニール袋につっこみ紐を縛った。しばらく彼女は、昨日やおとといと同じように、ちゃぶ台にひじをつき、ぼうっと外の景色を眺めていたが、やがて気だるそうに立ち上がりぐっと伸びをした。


 天狗の部屋はほとんどモノがなかった。押し入れにしまわれた布団類と、食事の時に使っていたちゃぶ台と、人の腰丈ほどの高さしか有さない本棚と、埃のたまった書斎机と。とりあえず、一か所にまとめておけばいいのかな。リンネは本日二度目のコンビニに出向き、ビニール紐を購入した。天狗の部屋に戻り、本棚から文庫本をとりだして、ひとまとめに縛っていく。それらを部屋の四隅にまとめたところで一息吐き、今度は書斎机へと目を向けた。机上には筆ペンが一つ転がっているだけだ。彼女は机に近づき、何の気なしに引き出しの窪みに手をかける。そのまま引っ張ると、カラカラと重力のない音が響いて、中には一枚の白い封筒が入っていた。中央に、天狗の遺書と綴られている。

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