4.「かようにふしだらな行為は」


 吉祥寺の駅前をグンと伸びゆく無限の直路。靴屋、帽子屋、お菓子屋、薬屋、お茶屋、うなぎ屋、本屋――、人々の衣食住遊がズラリ立ち並ぶそのアーケード街は、俗にサンロードと称されている。休日ともなると、老若男女が有象無象ひしめくほどの賑わいを見せる商店街であったが、平日の夜は闊歩する人種も限られてくる。昼間の勤労から解放された所帯持ちの労働者やら、リア充色に煌めく私立大学生諸君やら、夢に向かってアコースティックギターを掻き鳴らすストリートミュージシャンやらやら。その様相は和洋折衷を節操なくぶちこんだ闇鍋さながらであり、例の奇天烈三人組も人込みに塗れながら混沌の味付けに一役を買っていた。身を縮こませながら歩みを進めていたリンネが、眼前にそびえる藍色の背中に向かって蚊の鳴くような小声を掛ける。


「あの、天狗さん。あなたが今どこに向かっているのか、今度は私をどこに連れて行こうとしているのか、私には知る由もないですが、できれば人通りの多い商店街を歩くのはやめていただけませんか。っていうか、帰してくれませんか」


 クルリ首だけを振り向かせた天狗が、しかしその歩みを止める素振りを見せない。


「うら若き花の女子高生が、夜の歓楽街を怖がってどうする。あまねく青春を得意気に振りまいていられるのも、今の内であるぞ」

「いや、言ってる意味わからないですし、だから、私は死ぬつもりですし」


 振り向きざまに言葉を斬り返したリンネではあったが、天狗の五体はこんにゃくで構成されていた。およそ斬り甲斐のない声で「ハハッ、コイツは一本取られたな」と笑う天狗に対して、一本も取ったつもりがない彼女はガクリ肩を落とすくらいしかやりようがない。


 駅方面に向かってアーケード街を直進していた彼らはだだっぴろいT字路に差し掛かり、天狗が九十度の方向転換を披露する。サンロードに対して垂直方向にのびるその路は吉祥寺元町通りという名を有しているらしいが、地元民とてあまり耳馴染みがないらしいので覚える必要はなさそうだ。新旧二棟の大型デパートが通りを挟んで相対しており、奇天烈な夜行に勤しむ三人組を無表情のまま見下ろす。ふいに、リンネの前を歩いていた天狗がピタリ足を止め、その隣を歩いていた死神もピタリ足を止め、彼らの後ろについていたリンネはあわや天狗の背中にぶつかりそうになった。歩みを止めた天狗が見上げているは、お世辞にも綺麗とは言えない老朽した商業ビルであり、何事かとリンネが彼の視線の先を追うと、やや古めのフォント体で彩られた電飾看板が彼女の水晶体にお目見えされる。「着いたぞ」、天狗がそう言い、マジかよ。リンネは心の中で四文字のテキストをこぼした。



 青白い光が空間を包みこみ、七色のポルカドットが無秩序な螺旋を描いている。あまりにも柔らかなソファ席が着座しているリンネの尻をずぶずぶと沈み込ませ、彼女の耳に流れるのは松任谷由美だった。


「ち~いさい~、ころ~は~、か~みさまがい~て~」


 漆黒のローブをまとった死神が、身体をくの字に曲げてマイクにかぶりついている。彼女はモニター画面のメロドラマ映像に目を向けることもなく、むしろ瞼を閉じて自分の世界に入り込んでいた。シャンシャンと不格好な鈴の音がリンネの両耳を節操なくなぞり、天狗が打ち鳴らすタンバリンの音はリズムという概念を一切有さない。一応補足すると、彼らがいるのはカラオケボックスのチェーン店だ。


 言葉通り、騙されたつもりになって天狗の後ろを再三ついていったリンネではあったが、今や心の底から「騙された」と辟易している。彼女の憂鬱をあざ笑うかのように、天狗のあげた声は死ねるほどにのん気だった。


「こやつの歌声は中々のものだな。死神にしておくのは勿体がない」

「たしかに死神さんはお上手だと思いますが、天狗さんは喋りながらタンバリンを鳴らすのを止めてください。っていうか、金輪際あらゆる打楽器に手を触れないでください」


 「コイツは一本とられたな」と天狗は愉快そうに笑っているが、一本も取った覚えがないリンネは片眉を吊り上げるくらいにしか反撃の術を持たない。彼女は天狗の阿呆ヅラを横目でチラリ捉えながら、頭上に浮かぶ巨大な疑問符と本気で対峙してみるコトにした。


 この人たちの目的は一体なんなのだろう。宗教の勧誘の類かと思えばそんな素振りは見せないし、うら若き女子高生を狙う暴漢魔にしては手口手順がトリッキーすぎる。もしかして、阿呆のフリをした極悪人かもしれないと、最初は幾らかの警戒心を兼ね備えていたリンネではあったが、カラオケ屋の受付にて「フリータイムで二時間」と天狗が宣ったその瞬間から、コイツは正真正銘の阿呆なのだと決めつけるコトにした。では正真正銘の阿呆が思いつく悪だくみとは一体いかなるものなのだろうか。その問いに答えられるのは、西から昇った太陽を東へ沈めるほどの強者くらいであろう。およそ一般的常識の範囲内でしか想像力が働かない自分にとって、この設問は難題が過ぎると早々に判断したリンネは、巨大な疑問符に対してクルリ背を向けた。


 いつのまにやら歌い終わっていた死神が、満足気な表情を浮かべながらソファ席の上にボフリ腰を落とす。背の低いテーブル上に置かれたプラスチックのカップに向かってリンネが徐に手を伸ばし、薄茶色の淡い液体を少しだけ口に含んだところで、彼女は天狗に声を掛けられた。その台詞に、リンネはアイスレモンティーを思わず吹き出しそうになる。


「では次は君の番だぞ、リンネ」

「えっ、私も歌うんですか」


 ギョッと目を丸くしたのはリンネで、キョトンと目を点にしたのは天狗で。


「当たり前だ。カラオケ屋で歌を歌う以外にやることがあるのか。歌わざるもの働くべからずと言うだろう」


 天狗の披露した自前の慣用句はやはり意味不明で、もはや彼がわざと間違えているのかもわからない。リンネがポカンと口を半開きにしている間に事は展開しており、天狗がたどたどしい手つきでデジタル歌本のタッチパネル画面を操作し始める。「よっ」と短い発声と共に彼がモニター画面に目を向けたので、リンネも釣られるように天狗の視線の先を追った。若手アーティストによるインタビュー映像が強制終了され、画面に映し出された歌手名と曲名を目撃したリンネは口を半開きにしたまま「えっ」と短い声を漏らした。キャラメルが弾けるようにファンシーなメロディが空間を包み込み、モニター画面上には無機質な英文字のテキストが淡々と流れて、主旋律を失ったBGMが狭い一室にもの寂しく響く。リンネの隣、「どうした、歌わないのか」と天狗は彼女にハンドマイクを差し出しており、年代物のロボットのように首をゆっくりと動かした彼女の瞳には、天狗の阿呆面がおぼろげに映っている。


「どうして、私がシンディローパーを好きだって、知っているのですか」


 リンネは歌が好きだった。自身が歌うコトも好きだったし、歌を聴くのも好きだった。彼女は年代の古い洋楽を好んでおり、シンディローパーは特にお気に入りだ。好きになった理由もきっかけも覚えていないが、自身の年齢を鑑みるとおよそ若者らしからぬ嗜好である事実はリンネ自身も重々承知していた。だからこそ、彼女は驚愕したのだ。


 ラーメンが好きな女子高生はこの世に吐いて捨てるほどいるだろう。あてずっぽうで好みを言い当てたとて、偶然と片付けてもまぁ差し支えはない。しかし、シンディローパーとなると話は別だ。うら若き女子高生に歌わせる歌謡として、その選曲はあまりにも局所的だった。確固たる裏付けでもなければ、フツウは選ばない。


 相変わらず、滑稽で童話的な旋律が空間を彩っている。糸がほつれるように短く息を漏らした天狗が、リンネの両手にハンドマイクを無理やり握らせる。そのままリンネの両目をジッと見つめながら、低くしゃがれた声をこぼした。


「知っているから知っている。それ以上でも以下でもない。僕は、キミに歌って欲しいだけなんだ」


 天狗は相変わらず要領の得ないコトを言う。だがその目は優しかった。少なくとも、悪意を以て人を陥れようと画策する者の顔ではないだろうと、リンネはそう感じた。彼女の疑念は結局宙に浮いたままだ。しかしリンネの胸中に恐怖はなかった。「キミに歌って欲しいだけなんだ」。天狗のその言葉が、まごうことない彼の本音であろうと直感していたから。その瞬間、リンネの五体から遠く離れた場所に彼女の意志は存在していた。天啓を司った巫女の如く彼女は立ち上がり、ハァッと小さなタメ息を漏らす。


「少し、だけなら」


 リンネは目を閉じた。遠慮がちに口を開いて、お腹にグッと力を込める。等間隔で無機質なスネアドラムのビートの上に、彼女は声を重ね始めた。それまでボソボソと、およそ現代っ子猛々しく覇気のない声で喋っていたリンネだったが、うってかわったように甲高い音を響かせていた。力強い発声が伸びやかに孤を描き、喉の振動が狭い室内を震わせる。リンネは没頭した。一切と合切を頭の中から追い出し、一センチメートルの音の機微に集中した。久しぶりに歌ったものだから、自分が思い描くイメージ通りに声を届かせることができないのが歯がゆかった。歯がゆく感じながら、しかしリンネは喰らいつくように大口を開ける。高くそびえ立つ塀の上に向かって、必死に手を伸ばす。等間隔で無機質なスネアドラムのビートが次第にフェードアウトしていき、最後まで空間に残ったのは彼女の声だった。


 リンネはハッとなった。自意識が現実世界に還ってきたのだと理解し、歌うのをはたと止めた。慌てて彼女が視線を泳がせると、死神が「お見事、座布団一枚、いや百枚」とケラケラ笑っており、天狗は相変わらず細い目つきでこちらを眺めやっている。まるで娘を愛でる父親のような顔つきをしていた。何かをごまかすように前髪をてぐしで整え始めたリンネは破竹の勢いでボフンとソファ席に着座し、爆弾でも放り出すようにハンドマイクをテーブルの上に置いた。


「やはり、歌が好きなのだな、キミは」


 天狗の声は、音域が低空飛行で僅かに揺れるようなトーンだった。心臓を刷毛でそっと撫でやられたようなむずがゆさを覚え、リンネは天狗の顔を見ることができなかった。「まぁ、人並みには」と、負け惜しむように小さくごちる。モニター画面が切り替わり、ビジュアル系バンドのインタビュー動画が流れた。インタビュアーらしき若い女性タレントの突飛な質問に対して、赤長髪の青年が前かがみの姿勢で、身振り手振りを交えて冗談を返す。幾千色のドットで構築された二次元の彼、彼女らが口角を吊り上げながら、白い歯を剥き出しにしながら、顔の下半分だけで笑っている。暗がりの部屋で、チカチカと眩く白い光を放っているその映像をぼうっと眺めているリンネは、無色透明の顔を晒していた。何か考えこんでいるようにも、何も考えていないようにも、そもそも魂の入った人間なのかも、よくわからない様相だった。そんなリンネが色を取り戻し、訝し気な目つきを強要される運びとなった要因は、例によって天狗が宣う次の発言である。


「さて、次は何を歌ってもらおうかな」


 リンネは「えっ」と小さく洩らし、そのまま、覇気のない声を連ねて。


「いや、まだ歌わせるのですか、もう勘弁してください」

「よいではないか。キミは、先ほど背油豚骨醤油ラーメンをたらふく平らげた身なのだぞ。少しはカロリーを消費する努力をしないと、うら若き乙女の体裁を保てまい」

「アンタ、さっきは体重を気にしていては人生がどうだとか、偉そうなコト言っていたじゃないですか。ものの一時間で人生観を矛盾させるのはどうかと思いますよ」


 リンネの意志は彼女の五体にまごうことなく宿っており、明確な拒否反応を示す彼女に対して天狗は一切ひるむ様子を見せない。押してや引いての平行線。天狗がテーブルの上に置いてあったハンドマイクを掴みとり、「よいではないか」とリンネに迫れば、顔をひきつらせた彼女は自身のスクールバッグを振り回して必死の応戦を試みる。いよいよ体勢を崩したリンネはソファ席に寝転がる恰好となり、暴れる彼女の足先がアイスレモンティーの入ったカップに触れ、カランとこぼれ落ちた。攻め手を緩めない天狗はほとんど彼女に馬乗りになっており、死神はというと、リンネと天狗の茶番を丸ごと無視して二巡目の松任谷由実を流し始めているものだから、傍から見た場はありていうに言うとカオスだ。


 果たして、第三者の介入が泥仕合に終止符を打つ。重厚な防音扉がガチャリ開け放たれり、リンネは自分たちの部屋に誰かがやってきたのだと理解した。仰向けの体勢でゴロリ寝転がりながら、切り揃えられた黒髪おかっぱをダラリ垂れ流し、ソファ椅子の端っこにピトリ首根を接着させている彼女の視界にサカサマの景色が広がる。来訪したサカサマ人間は小奇麗なスラックスで下半身を纏っており、灰色のベストを見事に着こなした爽やかな青年であり、片手に持った盆には幾多の空コップがジェンガの如く積み重なっている。第三者はカラオケ屋の店員だった。彼は優雅な所作で首を横に少しだけ傾けるや否や、申し訳なさそうに眉を八の字に曲げた。


「お客様、大変申し訳ありませんが、当店はカラオケ屋であり、人が歌を歌うための施設であり、お客様の様相はドアの窓からおよそ丸見えになってしまっており、かようにふしだらな行為は禁止させていただいております」


 一時停止したビデオ映像のように、リンネと天狗がピタリ動きを止める。


「ち~いさい~、ころ~は~、か~みさまがい~て~」


 死神の幼声が、節操のない深夜ラジオのごとく暗がりに響いて。

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