5.「私じゃない、私のせいじゃない」


 お世辞にも綺麗とは言えない老朽した商業ビル。その全ての階のテナントが例のカラオケチェーン店で埋まっている。ゴウンゴウンと不安定な音を唸らせるエレベーター内は極狭で、多勢を運ぶためにあつらえられた設備とは到底思えない。搭乗しているリンネは、コレ、途中で落ちたりしないよな、と一抹の不安を胸に抱えていたものの、ガコンと仰々しい開閉音が彼女の耳にねじ込まれた事案から、無事に地上までたどり着いた事実を知って一人安堵していた。


 リンネが外の世界に歩を進めると、吉祥寺の街が再び彼女を出迎える。土日祝日の殺人的な込み具合より幾分かマシとはいえ、およそ人種のるつぼと化している夜の歓楽街は血気盛んであり、喧騒の渦は鳴りを潜める気配を見せない。リンネは一刻も早くこの場を離れたかった。閑静な住宅街に佇む廃アパートの屋上で、一人夜風にあたっていたかった。しかし彼女の儚い想いも虚しく、すぐ隣にヌラリ現れたのは藍色の着流しを滑稽に着飾る一人の阿呆である。


「リンネよ、キミのせいで追い出されてしまったではないか。あと一時間以上残っていたというのに、勿体ないコトこの上ない」

「私のせい、みたいに言っておりますけど、九・一の割合で天狗さんが悪いんだと思いますよ。胸を張ってそう宣言できますよ」

「若いうちから、人に責任を押し付けるコトを覚えてはいかんぞ。いやはや、久方振りの歌唱でいささか腹が減ってきたな。どれ、ハモニカ横丁にでも繰り出そうか」

「天狗さんはタンバリン叩いていただけで歌っていないですし、さっきラーメン食べたばっかりですし、私未成年だからお酒呑めないですし、一度の発言で三度もツッコませないでください」


 流暢に紡いだ言葉で、天狗の発言を針のむしろに突き落としたリンネだったが、とある事実に一人気づき、彼女の意識がはた喧しい夜空に舞う。


 自分は何故律儀にも、天狗を自称する怪しさ極まりない阿呆者の余興に付き合っているのだろう。少しの間、時間を自分に預けよと天狗は確かに宣ったが、自分は同意を表明していない。口約束すら成立していない契約を勝手に反故したところで、彼女に文句を付ける検事はどこにも存在しない。論理的に考えれば、彼女が天狗に従う道理はどこにもなかった。それを理解した上でなお、リンネは天狗の前から立ち去ろうとはしなかった。


 僕は、キミの命を救いたいんだ。

 記憶の音、夕暮れに溶け込む天狗の言葉がリンネの脳内に反芻し、彼女はぎゅっと下唇を噛む。



「リンネ?」


 ふいに、名前を呼ばれて。

 天狗でもなく、死神でもなく、無論カラオケ屋の店員でもなく、ふと耳に流れたその声に、リンネは聞き覚えがあった。彼女の眼前に立ちはだかったのは四人の女子高生、彼女達は紺のブレザーに青のリボンを身に着け、リンネのソレと同じ制服を纏っていた。皆一様にスカートの丈が短く、ベージュのセーターを腰に巻いていたり、鮮色の長髪をうねらせていたり、イマドキの女子高生と評しても異論はないであろう着飾りをめかしていた。


「リンネ、アンタ、学校には来ないクセに、こんなトコで何してんのよ」


 四人組の一人がづかづかとリンネの前に歩み出る。両腕を組んだ姿勢で、斜め下からリンネの顔を睨み上げる。彼女の声には一切の遠慮がなかった、思慮や敬愛を排除させたような、殺伐としたトーンだった。声をかけられたリンネはというと、心を持たないアンドロイドのような能面を晒し、全身が強張っているのかピクリとも動かない。


 やや高めの位置で結われたポニーテールを揺らしながら、リンネに詰め寄る少女が早口で言葉を連ねる。リンネからの返事など、まるで最初から期待していないように。


「私、知ってるんだからね。アンタがサチに対してやったコト、全部」


 リンネの持つ瞳からは一切の輝きが失われていた。マネキン人形のソレのように色味がなかった。生きているかもわからない様相の彼女ではあったが、スカートの脇にやっていた両掌をギュッと握りこんでいたのを、隣で佇む天狗がチラリ黙視する。


 リンネの眼前、ポニーテールの彼女がさらに声を重ねて。


「例の写真、学校中にバラまいたのも、根も葉もない噂をネットに書き込んだのも、サチの机をボロボロにしたのも、全部、アンタが犯人。私には、そうとしか考えられない」


 徐に、リンネの身体がワナワナと震えはじめた。蚊のなくような声で、「違う、違う」とブツブツ呟き始めた。しかしポニーテールの彼女が追随の手を緩めることはない。彼女は崖の上から人を突き落とすかのように、淡々と声を放った。


「サチが自殺したのは、アンタのせいよ」


 違う、違う、違う違うと。

 私じゃない、私のせいじゃないと。

 呪いのようにリンネがつぶやき、瞳孔がキョロキョロと定まらない。もはや彼女の水晶体は一切を捉えていなかった。視覚情報が脳に届いていなかった。リンネはゆるゆる後ずさりを始めた。フルフルと首を左右に振り始めた。


「サチはね、アンタに殺されたのも同然なの」


 ポニーテールの彼女が放った一言を覆い隠すように、リンネが「違う!」と大声をあげる。喧騒渦巻く夜の歓楽街、周囲の人々が何事かと彼女らをとりまくようにピタリ足を止めはじめる。リンネは、数多の視線を全身で感じていた。ポニーテールの彼女、その後ろで同じようにリンネを眺めている三人の女子高生、皆一様に、蔑んだような目つきでリンネを睨んでいる。眼の奥の神経を無理やり引っ張られたような感覚が彼女を襲う。真っ白なペンキがバケツからこぼれ落ちて、頭の中を埋め尽くしている気がした。


 思考が、ひどく遅れてやってくる。目の前の景色を、うまく認識できない。

 リンネは、その場にいるのが限界だった。この世界から逃げてしまおう。ギリギリの自意識が、彼女にそう囁いた。


 リンネが脱兎の如く駆け始める。ポニーテールの彼女が「おい!」と大声で彼女を捉えようとしたが、リンネは耳に流れる一切合切の音を無視した。何を考えるコトもなく、ひたすらに走る。はた喧しい歓楽街を抜けて、静寂に包まれる彼女だけの世界に向かって。


 リンネが纏う紺のスカートが揺れる。右ポケットから一枚の白い封筒がこぼれ落ちた。

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