3.「そんな人生、クソでも喰らっていた方がマシだ」


 リンネは借りてきた猫のように、借りぐらしの鼠のように縮こまっていた。背もたれのない丸椅子にちょこんと腰を掛け、閉じた両膝の上に両掌を重ね、まじまじと一点を見つめていた。溶岩のようにドロドロと、重力さえも感じさせる油の池に佇むは、藍色の光沢を放つ一枚の海苔と、仙人の髭が如く無造作にたゆたうもやしと、覇王のようにドシリ構える一枚のチャーシューと――、彼女の目の前に君臨するは、まごうことなく背油豚骨醤油ラーメンだ。


 言葉通り、リンネが騙されたつもりになって天狗の後ろについていくと、彼がくぐったのは煌々と輝く黄色い暖簾だった。吉祥寺駅前のアーケード街を少し歩いた先、並走する大通りを繋ぐ小路に構える老舗ラーメン屋だった。およそ不釣り合いな舞台に登場した奇天烈三人組に対して、カウンター席にズラリ並んだサラリーマン連中がギョッと好奇の目を向ける。天狗は勝手知ったる口ぶりで、「大将、いつもの三つ」など宣っていたのだが、厨房でぬりかべのようにそびえ立つ強面坊主の店主らしき男は、愛想の一つも見せずに無言で頷くばかり。彼らが顔なじみなのか何なのかは、リンネにはおよそ判断がつかない。


 カウンター席に座らされているリンネが左隣に視線を動かすと、破竹の勢いでちぢれ麺を平らげるは亜麻色の髪の死神。ワンパク小学生さながらに大口を開けやっている彼女は、最新掃除機もお手上げの吸引力で炭水化物を胃袋に流し込んでいた。そのさらに隣、凛と姿勢を伸ばし、きざったらしく割りばしを口で割り、天狗はまるで高級蕎麦でもいただくようにちゅるちゅると、やはりちぢれ麺をすすっている。


 油の混ざった真っ白い蒸気がリンネの眼前でゆらゆらと揺れて、彼女は重い口をいよいよ開く決意をした。


「あの、どういうコトですか」


 彼女の問いはありとあらゆる意味をはらんでいた。5W1Hを端的に表した言葉だった。しかし問われた天狗はというと不可思議そうに首を斜めに傾けており、食欲に支配された死神にいたってはリンネの声が届いてすらいない。


「どういう意味だ。ラーメン屋でラーメンを喰らう以外に、やるコトがあるのか」

「いえ、では質問を変えましょう。何故私をラーメン屋に連れてきたのですか」


 天狗との会話がおよそ弾丸をかすめ合うようなやり合いにしかならないことは、半刻前の銃撃戦でリンネは学習済だった。慎重に言葉を選んだつもりの彼女ではあったが、しかしその画策も徒労に終わる。


「おや、君はラーメンが好きではなかったか。体重を気にするお年頃なのか?」


 箸でつまんだチャーシューを天狗がまるごとガブリ噛みつく。もしゃもしゃと熟成肉をそしゃくする満足気なその表情が、リンネの目には希代の阿呆にしか映らない。


「ラーメンは好きですけど、今はあまり食欲がありません」

「成長半ばの若人が何を宣うか。今食わなくて、いつ食うというのだ」

「いえ、成長もクソも、私はもうすぐ死ぬつもりなので」


 リンネの放ったその言葉に、彼女の右隣に座る中年サラリーマン一号の箸の手がピタリ止まるが、しかし当の天狗は怯む余地を見せない。


「天国だろうが地獄だろうが、あの世にラーメン屋があるとは限らんだろう。死んでしまっては全ては遅いのだ。ラーメンを喰おうと思っても喰らえんのだ。どれ、一本でいいから口に運んでみるがよい」


 天狗の理屈は浮世からかけ離れていた。釧路と沖縄くらいの距離があった。はぁっと露骨なタメ息をかましたリンネだったが、しかし天狗の発言に今更引っかかる。確かに彼女はラーメンが好物だったが、天狗がそのことを知っているような口ぶりだったのは何故なのだろうか。彼は天狗の皮を被ったストーカーの類なのだろうか。疑念を覚えたリンネの思考を遮ったのは、鼻前でフワリ漂う濃厚で芳醇な香りであり、眼前の馳走に対して幾ばくかの興味が沸き上がった事実を、彼女は否定しきれなかった。


 いよいよ観念したリンネは使い捨ての木箸をパチンと縦に割った。野暮ったい前髪を左手でかきわけ、恐る恐る箸先をスープの海に沈める。そのまま少量のもやしと絡みつくような麺の束をすくい上げ、鳩のような所作で器に顔を近づけた。


 あむり。


 遠慮がちに開かれた小さな口に、ちぢれ麺の束が運び込まれる。リンネの全神経がその舌先を集中砲火し、ほどよい刺激のしょっぱ味に脳細胞が歓喜の声をあげた。そのまま彼女は本能の赴くまま、ずぞぞずぞぞと麺を啜る。啜るたびに首を前のめりに動かし、ほぼ咀嚼すらすることなく喉奥へ流し込んでいった。


 ゴクンと、およそマンガ的に喉を鳴らした彼女が、大仰に息を吐き出し、一言。


「おいしい」


 四文字のテキストが、リンネの口から勝手にこぼれ落ちていた。彼女の姿を細い目で眺めていた天狗が満足げに口角を吊り上げたのはおろか、厨房で湯切りに勢を出していた強面坊主の店主はニマリ口元を綻ばせており、リンネの右隣りに座るサラリーマン一号ですらホロリ涙をちょちょ切らせていたというのだから、傍から見た場はありていに言うとカオスだ。


「ホレ見たことか。虎穴に入らずんば虎子を得ず。体重を気にしていてはラーメンの一杯も食えやしない。そんな人生、クソでも喰らっていた方がマシだ」


 高らかに笑う天狗の発言はおよそ意味不明だった。ラーメンは確かにうまいが、リンネには天狗の意図が今一つ、いや今百つ見えない。いつのまにやら眼前の一杯を平らげていた天狗がしーしーとようじを歯隙間にあてがっており、彼女が首を斜め四十五度に傾けながらその様子を眺めていると、彼女のブレザーをちょいちょいと引っ張る存在に気づく。何事かとリンネが目を向けると、亜麻色の巻き毛がたゆんで揺れて、恍惚の表情を浮かべる死神が口からよだれを垂らし散らかしている。


「リンネさん、リンネさん。残り、食べないなら、アタシが頂いてもいいですか」


 へへっとだらしなく笑うは死神で、ひくひく顔を引きつらせているのはリンネで。


「いえ、残りもきちんといただきますので」


 死神のソレが伝染するように、気づけばリンネの口からも一筋のよだれが垂れていた。

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