第18話


村長たちが帰ったあと、ユレンたちは夕食をとっていた。まるで何もなかったかのように、今日あったことや世間話をするユレンら。戦争についての話や先ほどの話は一度もでることはない。


「さぁナツ、もうおやすみの時間だよ」


食事が済み、眠そうに目を擦り始めたナツを寝かせようとするユーリ。眠たそうなナツは、なすがままに寝床へ連れられる。


「はぁい……。おやすみぃ、みんなぁ」


「おやすみ、ナツ」


ナツが寝床へ着くのを見送るユレン。いつもなら一緒に床に就くがユレンたちが寝床へ向かうことは無く、大きな机を挟み、向かい合うように座り続けた。


「はい、ユレン」


ユーリは小さなコップをユレンへ手渡す。中からは白い湯気が立ち昇り、ほんのり甘い香りを漂わせる。


「ありがとう、母さん。……うん、暖かいや」


この村で育てたヤギの乳を煮たホットミルクは、前世のと比べれると味は悪い。しかし、その暖かさと甘さはどこかホッとするような優しい味であった。


「ほら、あなたも飲んで?そんなに怖い顔をしたらユレンも辛いわ」


「すまない。……うまいな」


そう言って静かにはにかむレント。和らいだ様子に満足したのか、ユーリは笑顔を浮かべ自分の分のミルクを机に置いて、レントの隣に腰をかける。


三人はゆっくりとホットミルクを味わう。ナツが生まれてから久しく三人で話すことなど無かった。まるで懐かしい落ち着いた雰囲気を楽しむように、時間が流れる。しかし、そのために起きているのではないことは三人とも理解していた。


しばらく待っても何か話が始まる気配は無く、時間だけが過ぎていく。ユレンは次第に俯き、口を開くことができずにいた。


ユレンは何も言えない、言いたくない。こんなにも自分を大切にしてくれる両親に戦争に志願するだなんて。戦争で命を落とすのが怖い。離れるのが恐ろしい。もし死んでしまったら、家族に何かあったら。そう考えるだけでユレンの頭は不安で押し潰されそうになる。


何も失いたくない。


沈黙が続き既にコップの中身も空になった。そんな時、静かな笑い声が聞こえてくる。


「……こんなにも重い空気になったのは、ユレンお前が生まれた時以来だな」


そういってレントは、ユレンの出生の話をしだす。ユレン自身何度も両親から聞いた話だ。まるで奇跡に近い嘘のような現実。


「あの時の赤子が、今じゃ立派な少年か。何があるか分からない人生だ。何も持たない俺の子どもがこんなに立派に育つなんて、今でも夢かと思う時がある」


「そうね……あの時はほんとに怖かったわ。でも無事に生まれて、健康に、まっすぐ育ってくれて……ありがとう、ユレン」


「どうしたんだよ、急に。なんか、恥ずかしい」


笑顔で話かける両親に、そのむず痒さにユレンは顔が熱くなるのを覚える。褒められるのは何時になっても慣れない。特に肉親からの言葉は。


「はは、俺たちはユレンとナツのことが好き、いや心の底から愛しているってことだ!」


「そうね、もしかしたらあなたより愛してるかも」


「な!?……そ、それ冗談だよな?」


「ふふ、どうかしらね」


軽口を言い合う二人、そんな二人につられるようにユレンも笑い出す。本来、いつだって笑顔があったのだ。この家族には平穏な日常がたった一つの幸せだった。


「はは、父さん落ち込まないで。俺はどっちも好きだよ、もちろんナツもね」


「ナツもどんどん大きくなってきてる。今から将来が楽しみだ」


まるで、溶けるような甘く優しげな幸福。きっとそこには四人だけの、四人だけで完結するはずだった世界があったのだ。


「ふふ、ユレンもカッコよくなったわね、モテモテで羨ましいわ」


現実とは思えない夢のような世界。美酒に狂い酔ったような幸福感。脳を溶かして思考さえ捨ててしまえたら。


「あはは、父さんが昔はモテてたって、信じられない!」


そこに居る三人のみを世界は彩る。まるで世界がそこだけを綺麗に抜きとるように。誰もがその光景を見たら羨み、憧れるであろう眺め。こんな幸せをずっと、その場の誰もが願っていた。


レントは大きく口をあけ笑うユレンを優しく見つめると、隣にいるユーリの手をそっととる。ユーリはレントの顔を見つめ静かに微笑むと、その手を優しく握り返す。


「はは……なぁ、ユレン?」


「なに?父さん」


幸せそうなユレン、そんな息子の顔を見るだけで今にもレントは泣き出しそうになる。弱い自分を隠すようにレントは笑みを浮かべ、静かに呟く。


「志願なんかしなくていい、一緒にいよう」


笑っていたはずのユレンはその表情を固め、ゆっくりと顔を伏せていく。


「お前には無理を強いらせた。苦労もたくさんかけた。だが、行ってほしくない、離れたくないんだ。戦争に行くのはすごいことだ、尊敬もする。でもな、ユレンが行くのは違う。……どんなに苦しくたって、貧しくたっていい、お前がいてくれさえすれば、四人みんなでいれれば、いいんだ」


頼み込むように、懇願するように、必死にユレンを見つめるレント。離したくない、離れたくない、どんな苦痛でも耐えられる。家族がいるなら。そう、レントは心から思っていた。それはユーリも、きっとナツでさえ同じだと。


「まだ成人もしてないあなたが行く必要なんかないの。まだ私たちは、あなたと別れる覚悟なんかできてなんかないの。成人してからでもいいじゃない。そしたら貴方の人生なの、あと数年、数年だけじゃないのっ……」


涙をこらえるようにユーリは声を震わせながら、無理やり笑顔を作り微笑む。彼らは自分たちの弱さを知っている。なんの権力も力も持たない非力な農民。けれど、彼らも人間なのだ。夢を見て何が悪い、望んで何が悪い。


「なぁユレン……」


「ユレン、お願い……」


懇願する二人、両親の愛情が包み込むように、もしくは鎖で繋ぐようにユレンを留めようとする。なんて優しく美しい情景なのだろう。儚く脆い砂糖菓子のような家族がそこには確かにあったのだ。


ユレンは静かに笑みを浮かべる。嬉しい言葉だ、誰もがそう思う。喜んだって誰も何も言うまい。彼らは自分の両親なのだ。そう、自分が幸せにすべき大切な両親。


ユレンの笑みを見てほっと安堵する二人。自分たちの子が離れることは無い。そんな喜びに自然と涙が浮かぶ。


「ユレン……」


しかしその笑みは、二人が望んだ笑みではなかった。


「ごめん……。俺は、志願するよ」


ユレンの言葉はその場を凍らせ、温度を奪った。きっとこの場でユレンのみが世界を、現実を見ていた。


「な、そんなっ……ど、どうしてだ、どうしてだユレン!」


驚きのあまりその場から立ち上がるレント、みるみる目に涙を浮かべ泣き出してしまうユーリ。そんな二人を気まずそうに見つめ、ユレンは力なく笑い話し始める。


「きっとこの世界は、そんな甘く作られてないから」


夢を見ていた。幸せな世界だという幼稚な夢。世界は残酷で醜悪で人は目を逸らしながら生きている。でもそれはただの現実逃避であって本当の幸せには一生かかってもたどり着かない逃げ。


なら自分はどうするのか。力のない少年が何かを為すには何がいるのか。それは、この世界が教えてくれた。ユレンは拳を握り、何かを決意したように話しだす。


「だからさ、俺は作るよ。自分だけの力で自分だけの場所を、世界を」


ユレンは望む。何者にも邪魔されることがない世界、何者にも淘汰されることのない世界、かけがえのない家族の幸せを守るための世界を。


この世界は甘くない、なら自分で作るしかないのだ。大切な物をしまうための綺麗なものだけを詰め込んだ世界を。


「俺は行くよ。そして……必ず戻ってくる。絶対にみんなを迎えに帰ってくるよ」


満面の笑みを浮かべるユレン。愚かな少年だと誰もが思うだろう。一人の人間が世界を作るだという幻想を抱え、そんなくだらない夢のために今ある幸せを捨てる。誰も彼を理解できない。


「ユレンっ!お願い……いかないで、そばにいてよ」


縋り付くようにユレンへ項垂れるユーリ。涙は頬を伝い、その大きな目から零れる。幸せだった時間は終わり、辛く醜い現実がそこにはあった。


「ごめん、母さん」


悲しさは涙となり、悲痛な叫びとなった。残酷なこの世界は涙を流し叫ぼうが、何も変わらない。変えるには力がいるのだ


「いや、いやよ…、いやなの私の、子どもなの」


ユーリはユレンの声も聞こえないのか聞きたくないのか、ただただ嗚咽し涙を流した。


母の変わりようにユレンは心を痛めるが、その覚悟を変えることは決してなかった。



——————————



ユーリが泣き止むことは無く、その様子から今日はもう寝ようと言う話になり三人は寝床へついた。


ユーリは涙を流しながら目を瞑る。レントもユレンの覚悟を聞いたこと、そしてユーリの変わりように驚いた疲れもあったため、眠ることができないと思っていたが、すぐに意識が落ちていった。


隣で眠る両親を横目で見るユレン。もうここで眠ることはないと考えると素直に目を瞑ることが出来ずにいた。



―――――――――――



人々が寝静まり沈黙が世界を支配している中、月明かりだけの暗闇に人影が映る。


それはユレンであった。寝巻姿の簡素な服のまま、灯火トーチを点けることもせず、ユレンは家を出て外を歩く。


十月の夜を恐ろしいほどの赤い月が、静かに地面を照らす。魔の季節とも呼ばれる赤い夜は肌寒く、人の気配もないためかどこか恐ろしい。おぼつかない足取りで夜道を歩くユレン。今後のこと、家族のことを考えずにはいられない。


どこを目指すわけでもなく、ぶらぶらと重い足を引きずるようにユレンは歩いた。いつも通る道、村の広場、みんなと働いている畑。どれだけ足を進めようと、ユレンの思考の波は荒れたまま、鎮まることはなく、どこからか溢れ出す不安が、焦慮がユレンを飲み込もうとする。


ふと顔を上げるといつの間にか、村周辺にある森の入り口近くまで足を運んでしまっていた。後ろを振り返るが、村の入り口からだいぶ離れてしまっていた。


ユレンは足の向きを変え、引き返そうとする。しかし、何を思ったのか数歩歩いて留まると、体を反転させ、森の中へ消えていった。


肌寒い風が吹き、夜に冷たさを与える。先ほどまで存在していた人影は森へ消え、夜の静寂だけがその場に取り残された。



——————————



「はぁ……はぁ……!」


暗く、月の光で赤に染まった森のなかをユレンは走る、がむしゃらに。


走る、走る、走る。


まるで何かに怯え、逃げるかのように、ユレンは走った。景色を、思考を、現実、世界すらも置いていくように。


「ああああああああああっ、がああああああああああっ!」


突然、静寂を切り裂くようなユレンの叫び声が、森に響く。ユレンの体、心に抑えこんでいた何かが溢れ、漏れ出すかのように、叫びは止まらない。


「くそぉ!くそぉ!くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


母を泣かせた自分への怒りが、自分の無力さへの恨みが、声となって現れる。それで何かが解決するわけではない。しかし、ユレンは、叫ばずにはいられなかったのだ。


「はぁ、はぁ、くそ……、どこだ、ここ……」


長い時間叫び走り続けたユレンは、膝に手を置き息を整えながら辺りを見渡す。見たことのない風景、ユレンは森の奥深くまで来てしまったことに気が付いた。


「早く、戻らないと……母さんを泣かせたのにまた心配までかける」


ユレンが落ち着くと同時に恐怖はやってきた。夜の森は魔獣、野獣のテリトリー。昼に溢れる和やかさは一切なく、殺伐とした空気が辺りを覆っている。少しずつ冷静さを取り戻したユレンの頭は、思考をクリアにしていく。


しかしそれは、些か遅かった。何かが草むらをかき分け、こちらに向かってくるのをユレンは聞き取った。


顔を焦燥に歪ませ、先ほどまでの自分の行動を叱咤し悔いた。しかし、近づいてくる音は強くなるばかりで一向に離れる気配はない。


ユレンは無手で構えると、静かに腰を落とし攻撃に身構えた。


周りをガサガサと動く何か、それも複数。


(三……いや、四はいるな)


自分の倍以上もいる相手を想像し、じんわりと汗をかく。そして、逃げることを諦めたように笑うと魔力を体に集中させた。


既に周りを囲まれてしまったため、注意を向けるユレン。気持ちを落ち着かせるようと、静かに息を吐く。


その瞬間、それぞれ別々の方向から影が飛び出し、ユレンに襲いかかった。


「グルルルルッ!」「グワアアンッ!」


閃光フラッシュ!」


似た経験を経たからか、咄嗟にユレンは灯火トーチよりも遥かに眩しく光る閃光フラッシュの魔法を発動し、その視界を奪った。


「グガアアッ!グワアアンッ!」


光に映し出されたのは、四匹の狼であった。ユレンは正面に倒れた狼に肉薄し、その首元めがけ蹴りを放つ。


「グワアアッ!」


身体強化にものを言わせた蹴りは狼の体を大きく吹き飛ばし、その勢いのまま木の幹へぶつかる。ユレンは蹴りを放った体勢を直し、隣で目を抑え倒れる狼に全体重をかけたニードロップを食らわせる。


「!」


暴れる狼の首元に食らわせたその一撃は、狼の骨を砕き口からは血を吐き出す。


「グワアアアンッ!」


視界が回復したのか、一匹の狼が仲間を殺された怒りに燃え、ユレンへとびかかった。


風弾ウィンドショットっ!」


足音で接近を察知していたユレンは魔法を放つ。狼はその風の塊とぶつかり、大きく横へ吹き飛ばされる。


「キャンッ!」


吹き飛ばされた勢いのまま背中から地面に倒れる。


「グワアアアッ!」


ユレンが魔法を打った隙を逃さず、背後に回っていた四匹目の狼が襲い掛かる。が、それを把握していたユレンは、スッと横へ躱すと、狼の体へ拳を打ち付ける。


「はあああッ!」


「キャンッ!」


殴りつけた際、バキッと骨を折った感触を覚える。しかし、吹き飛ばされた狼は何度か転がるもののヨロヨロと立ちがあった。


ユレンは周りの狼たちの様子を注意深く観察しながら、顔にかかった血を強引に腕で拭った。そして、木にぶつかり倒れた狼の元へ足を進める。


「……戦ってる間は、何もかも忘れられる。……そこだけは、ありがたいかもな」


皮肉気に笑うユレン。戦闘中は集中しているため辛い現実を考えないで済む。


ユレンは、狼四匹を相手に無傷に勝つほど、大きく成長していた。先日の狩りから狼の特徴を理解したのも一つの要因だと思われるが、ユレンの判断、行動、その一つ一つが一段とキレを増していた。


身体強化があればユレンほどの少年でも大人に組み勝てるほどの力が持てる。ユレンは痙攣し、泡を吹いている最後の狼の喉元を狙い魔法を唱えようとする。


「—————————ァァアアアアッ!」


しかしその瞬間、草むらから大きな影が飛び出し魔法を唱えようとしたユレンへ体当たりを食らわせる。


「っ、なんだっ!?」


ユレンはその衝撃で飛ばされ、体勢を崩す。が、すぐに受け身をとって構え追撃に備える。襲いかかってきたその魔物を見ると、ユレンのよく知る魔物であった。


薄汚れた灰色の毛を持ち、犬が二足歩行したような姿をする亜人種の魔物の名は、コボルト。その大きさはユレンよりも大きく、百五十センチほどある。


(なぜここに魔物が……。獲物を追ってここまで来たか……?)


森の奥とはいえ、村周辺の森は魔物が少ない。しかし、冬眠準備の獣を狙って、普段は近づかないはずの魔物たちも活発に行動開始していたのだった。


コボルトは地面に倒れる狼をその手で掴むと、最大の武器である大きな顎で噛み砕き咀嚼し始めた。


なすすべもなく噛み殺された狼、同じような姿をしていても魔物と獣、コボルトにとってはただの獲物でしかなかった。


口に合わなかったのかコボルトはその死骸を投げ捨て、今度はユレンへとその濁った瞳を向けた。身構えるユレン、魔力を体中に流しコボルトを睨む。狼四匹からのコボルト、重なる連戦にユレンは内心で恨み節を吐く。


コボルトは、血で赤く染まったその大きな口元を薄笑うかのように歪ませると、腰を沈めユレンに飛びかかろうと足を溜める。


しかし、ユレンの不幸はそれだけに留まらなかった。


後ろから草をかき分ける音が聞こえたかと思うと、すでに動かなくなった狼の傍にもう一匹コボルトが立っていた。


「グワアアアンッ!」


二匹目の、薄汚れた茶色のコボルトは一匹目のコボルトとユレンを威嚇するように吠えた。


コボルトは集団で狩りを行わない。彼らは互いに獲物を奪い合い、競い合うことでメスを取り合う習性がある。そのためコボルトには番とその子以外の群れは存在しない。


「グルルゥ……、ガアアアアッ!」


灰色のコボルトも負けず吠えだし、威嚇する。二匹目のコボルトの出現はユレンにとって苦しいものだった。


「くそ、二匹目か……厳しいな……」


ユレンは、短慮な行動をした自分を恨む。強い緊張感、自らの命の危機、しかしそれらによって今のユレンの思考はどう生き残るかしかない。ユレンは皮肉げに乾いた笑いを浮かべる。命がかかっているというのに現実逃避の喜びすらある。


ユレンは三つ巴となることを予測し、コボルトたちから距離をとり、様子を見ようとする。


しかしさらなる参戦が続く。


そこに現れる影。人かと思いきや、その姿は真っ黒な影そのものであった。揺らめくようにユラユラと出現し、それは奇妙な低い音で鳴き始める。その魔物をユレンは知らない。


揺らめく影フリッカーシャドウ。人の影が魔力によって生物になったと言われ、食事も睡眠もせず、ただ生命を襲う魔物。発生条件や生態はよくわかっていないが、唯一魔力によって体が構成されていることだけがわかっている。


「——————————ォォ」


低く唸るような音を発しながら、フリッカーシャドウは歩みを進める。その数なんと三体。コボルトたちも敵意をむき出しにし吠え続ける。


「……ヤバイな」


先ほどとは比べ物にもならないくらいの危機に、額の汗は止まらない。自分が今無手ということをユレンは強く後悔した。


呼吸は乱れ、心臓の鼓動はより一層早くなるのをユレンは感じた。


「はぁ、はぁ、くく、くはは……」


高まる魔物たちの殺気、張り詰める空気の中。ユレンはこの場の生物のなかで、一番脆弱なことを、最下だということを、理解させられた、させられてしまった。


「くく、くははははははッ」


嫌だ、全てが。怖い、全てが。逃げだしたい、全てから。死んでしまいたい、絶望から。



ふと、ある恐怖を思い出す。それは過去に確かにあった記憶。ユレンは空気を引き裂くような叫びを上げる、まるで何かに怯える自分を鼓舞するかのように。


体からは魔力が溢れ、ユレンという存在を大きく主張する。出し惜しみする必要は無い。なぜなら自分はのだから。


フリッカーシャドウたちは、その魔力に釣られるように、ユレンの方へ注意を向ける。ギラギラと目を輝かせ、獣のように吠えるユレン。二匹のコボルトは地に手を着き、今にも飛び出そうと喉を鳴らす。


ユレンは既に死に体となった狼の牙を無理やり抜くと、両の手で握り構える。


「アアアアアアアアアアアアアッッ!!!」


「グラアアアアアアアッ!」


「———————————————ォォ」


そして、生物競争は始まった。吹き荒れる強風、飛び散る鮮血、光る魔力光子。そしてその光が、喧騒がさらなる獣を、魔物を、血に飢えた者共を呼び寄せる。


赤い月が辺りを照らす。景色が真っ赤なのは月明かりのせいなのか、それとも舞い散る鮮血のせいなのか。それほどまでに地上は、赤く染めあげる。



――――――――



夜が明けた木々の中、ユレンの姿はどこにもなかった。

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