第25話

 浮遊魔法で空を縦横無尽に飛び回るには、丸い球体状の殻を縦横に長い楕円形に引き伸びしながら移動しなければならない。術者である魔法使いは常に殻の中央に位置しているため、その特性を活かして進行方向とは反対側に殻を伸ばすことで休まずに移動を続けられるのだ。

 その速度は最大で一秒間に三四○メートルにも達する。

 そして、都内の夜空を二人の少女が猛スピードで飛翔していた。

 何の訓練も受けていない一般人が、音速と同じ速さで移動して意識を保つことは不可能だ。しかし、殻はその内側に気温や重力を一切通さないため、二人は何の気兼ねもなく空中飛行を続けていた。

 唯一の難点があるとすれば、その速度に対する心理的恐怖心にどれほど抗えるか、その一点に限られる。辺りの風景など一秒とかからずに遥か後方に流されていく。今、自分がどこを飛んでいるのかなど解るはずもなかった。それでも飛び続けられたのは一重に、十数メートル先を飛翔する凜の後を懸命に追いかけているからに他ならなかった。

 日常では経験することのない速度域に、全身から冷や汗が噴き出してくる。

 一体どこまで行くつもりなのかと危惧したその時だった、突然、凜が宙で動きを止めた。慌てて私も急制動をかける。十メートルほどの距離を空けて向かい合う。そのすぐ隣には、夜の帳を嘲笑うような輝きを放つ摩天楼が聳え立っていた。

 「ここって、スカイツリー⁉」

 遠目からは何度も見たことはあるが、改めて間近に聳え立つその威容を前にした途端に圧倒されてしまう。特別展望台を含めた塔内部からは人の気配は感じない。宣言による影響なのだろう。

 「すごい、浮遊魔法。すごく上手になったね」

 「‥‥‥うん。凜と再会できたときに驚かせようと思って、たくさん練習したの」

 本当はこんな形で見せたかったわけじゃない。

 「そっか、頑張ったんだね」

 後ろで手を組み合わせながら我が事のように喜ぶ凜の笑みに、胸がギュッと締め付けられる。

 「うん、頑張ったよ。すごく寂しかったけど、また凛と一緒にたくさんの人たちを救いたくて‥‥‥だけど、もう‥‥‥その願いは叶わないんだよね‥‥‥」

 「うん。仕方ないよ。誰もが自分たちの孤独に気付かず、知らないフリをする。だからその事に無理やりにでも気づいてもらわないと、でなきゃ、また私やアナタのように孤独に苦しむ人が生まれ続ける。それってすごく悲しいことだと思わない?」

 凜は大仰に両手を広げながら、桜色の唇を動かした。

 「人は、生まれた時から、誰もが平等に幸せになる権利を与えられている。それなのに、どうして世界から不幸がなくならないのかしら? 多分、それは―――痛みを知らないから。痛みを知れば、他人に優しくなれる。痛みを知れば、他者を慈しむことができる。そのことに気づいてほしくて私は皆の頭の中に毒を盛ったんだ。やり方はすこし強引だったかもしれないけど、それで救われる人は必ずいるはずだよ」

 「じゃあ、凜がたくさんの人を殺したのって―――」

 「生きる希望を失った人たち全てに、もう一度、幸せになるチャンスを与える。 そしてこれから先、生まれてくる全ての命がそうなるように」

 迷いなく凜は答えた。微笑みすら浮かべて。

 大勢の命を奪う代わりにこれから先の未来を生きる多くの命。

その救済を、凜は願っている。

 だけど、私はその願いを容認することができない。

 これからを生きる人々の幸せのために、今生きる人々を犠牲にする。

 それは間違っている。

 「やっぱり、凜はすごいなぁ‥‥‥。私にはそんな先の事まで考えられないよ」

 「理解してもらう必要はないよ。寂しくはあるけれど。でもこれが黒条 凜の願いだから」

 魔法の花によって眠っていたはずの狂気が形になって現れた、凜のもうひとつの人格。

 彼女は嘘なんてついていない。その言葉のひとつひとつから、凜の息遣いを感じる。

 あれは全て凜の本心なんだ。

 「それでも、私は今を生きる人たちが犠牲になっていいとは思わない。誰だって生きたいよ。誰だって幸せになりたい。でも、だからって人を傷つけたり、殺したりしたら駄目なんだ。もしそうしてしまえば、その人は一生、自分が犯した罪の重さに苦しみ続ける! だったら、それは間違ってる。大勢の人を救うために、少数を犠牲にしないと手に入らない幸せなんって、そんなの―――偽物だよ!」

 「―――ッ‼」

 愕然と眼を見開き、唇を震わせた凜は、静かに口を開いた。

 「私の願いが、偽物?」

 「少なくとも私は、そう思うよ。だって私は、あの日、アナタに救われたから」

 「‥‥‥‥だったら、証明してみせてよ。華の願う理想を―――私にも見せて!」

 瞬間、凜を覆っていた薄青色の殻が膨み、私は殻ごと後方へ大きく弾き飛ばされた。

 「く‥‥‥ッ‼」

 三十メートルほど押し戻された所で、どうにか止まった私へ凜は冷厳と言い放った。

 「自らの命すら惜しまず奇跡の使者として大勢の人々を救ってきたアナタの事を私は心から尊敬している。だけど、それはコップ一杯の水を砂漠に撒くのと同じくらい無駄なことよ!」

 開いた掌をスカイツリーの方へと突きつけながら凜は叫んだ。

「凜、もう止めて!」

「無駄よ、今の私を止めたければ言葉じゃなくて、行動で示してみせなさい!」

 巨大化した凜の殻が原生生物さながらに、ぬらぬらと地を這う蛞蝓を彷彿とさせる動きで塔へ伸びていく。

 浮遊魔法を初め、全ての魔法の基本となる殻は、その面積に比例して魔法の効果が大きくなる。たとえば離れた場所の物質を動かす(本やスマホ、といった日用品)程度ならば通常サイズの殻でも容易に干渉可能だが、巨大な建築物などに関しては効果が薄い。幼稚園児が数十キロのバーベルを持ち上げられないのと同様に、魔法使いにも実行できる範囲に限りがある。

 しかし、凜は迷うことなく引き延ばした殻でスカイツリーの中腹辺りを包み込む。

 「ねぇ、これならどうする?」

 これから悪戯でも仕掛ける子供のような無邪気さで微笑んで見せた。

 すると、殻が包み込む塔の中腹部分からギシギシという、金属同士を引っ掻くような嫌な音が鳴った。

 まさか、と口に出しかけた所で、疑念は最悪の形で現実へと変わった。

 天を貫かんばかりに聳え立つスカイツリーが徐々にその面積を広げていく。

否、コチラに向かって倒れている。

 「―――――ッ‼」

 私は咄嗟に全身を覆う殻の出力を最大にして、これを待ち受けた。

 「さぁー、とめてみせて!」

 弾むような声を残して、塔を破壊した当事者が一人安全な高空へ避難していくのが見えた。

 一瞬、私も逃げることを考えたが、すぐにその考えは捨てた。

 今ここで塔が崩れ落ちれば、落下の衝撃でこの辺り一帯の建物、宣言によって家の閉じこもっている大勢の人たちが巻き込まれてしまう。それだけは絶対に阻止しなければいけない!

 これ以上誰も、凜に人を殺させちゃ駄目だ!

 胸中で叫び声を上げたのと、展開した殻と倒壊を始めた塔が接触したのはほぼ同時だった。

 「ッッッ‼」 

 全身の骨が粉々に砕けるのではないか? そう思えるほどの衝撃に食い縛った歯の間から、苦悶の呻き声が漏れる。

 「~~~~~~~~‥‥‥‥‼」

 このままじゃ、保たない。

どうにかして、地上に落とさず街の安全を確保しないと。

 両手を突き上げた格好のまま、私は球体状の殻の内側にさらに二層の殻を創り、塔を支えている表面の殻を解いた。途端、ズンッという尋常ではない重みが二層目の殻越しに伝わってくる。しかし、それには構わずに解いた表面の殻を球体型から無数の触手群へと変えて折れ曲がった塔の部位を余すことなく包み込む。

 これまで奇跡の使者としての活動を続けていくうちにある疑問を感じていた。

 『治癒』の魔法は、怪我や病気だけでなく、物質にも干渉できるのではないか、と。

 本当に出来るかは解らない一か八かの賭けだった。

でも、やるしかない!

 「あぁ…―――‼」

 頭の中に濁流のように流れ込んでくる膨大な情報量に、頭の中で白いスパークが弾けた。

 一日に数人の治癒をするだけでも、疲労困憊でしばらく動けなくなるのに倒壊するスカイツリーを修復するなどその範疇を大きく超えている。

 それでも、誰も死なせるわけにはいかない。

 「死なせるもんかぁ―――ッ‼」

 引っ込み思案で、人前で自分の意見を言うことも苦手な華の叫びに呼応するかのように、殻越しに伝わってくる塔の重量が徐々に軽くなっていく。

 それから数秒で、塔は元通りに修復された。

 朦朧とする意識を辛うじて繋ぎとめる私の前に、パチパチと拍手する凜が舞い降りてくる。 

 「すごい、本当に倒壊する塔を止めるなんって!」

 「‥‥‥助けるから、待ってて、凜」

 ボソリと漏らした呟きを受けて、凜がピタリと動きを止めた。

 「ごめんね、予定より少し早くなっちゃったけど、タイムリミットを少し早めたんだ」

 「え?」

 「今から一時間以内。それまでに最低誰か一人を殺さないと、頭の中に仕込んだ毒が、大勢の人たちを殺すわ」

 「そんなの、あんまりだよ‥‥‥」

 愕然とした呟きが漏れた。

 「うん。本当にごめんね。思っていたより黒条 凜に残されていた時間はそう長くはなかったみたいなの」

 「まさか、それって‥‥‥」

 「そう。そのまさか。さっきの魔法で黒条 凜の寿命はほとんど尽きてしまったの。だから、残された残り僅かな時間で、世界を新しく生まれ変わらせて―――私たちは死ぬ」

 「そんな、嘘よ」

 駄々をこねる子供のように頭を振る私を、困ったように見つめながら凜は言う。

 「何回も約束を破ってごめん」

 そう言い残し、クルリと身体を反転するとどこかへ飛び去ろうとする。

 「待ってよ―――凜!」

 慌てて手を伸ばすが、その手は虚しく空を切った。

 「私はもうすぐこの世界からいなくなる。だけど、私たちが生きた足跡は残していく。だから、その邪魔をしないで」

 肩越しに振り返った凜は、哀切な笑みを滲ませながら、そう口にした。

 「お願いだから、これ以上‥‥‥私に、構わないで‥‥‥」

 そっと私の殻の表面に触れるとトンッと小さく押した。正確には、一瞬だけ殻を肥大化させて私を殻ごと弾き飛ばした。

スカイツリーの修復に体力のほとんどを使い切っていたせいで、私はわずかな抵抗もできずにそのまま川に高い水柱をあげて沈んだ。



 暗い水底に沈んでいく中、私はいくつかの不思議な光景を幻視した。

 それは冷たい十二月の川に沈んでいく、あの日の光景だった。

 事故の衝撃で意識を失った父さんと、その隣で、どうにか窓を割ろうとしている母さんの姿。少しずつ迫ってくる死への恐怖に、私はただ泣くことしか出来なかった。

その時、隣から「大丈夫だから、お姉ちゃんが付いてるよ!」と励ます声が聴こえてきた。

 振り向くと、隣には見覚えのない黒髪の少女が座っていた。

 この人が、誰だったのか。それがどうしても思い出せない。

 忘れてはいけないはずなのに、どうして思い出すことができないんだろう。

 ずっと一緒に育ってきたはずなのに。

 ピアノだって私なんかよりずっと上手だった。

臆病で引っ込み思案な私と違って、彼女の周りにはたくさんの人が集まっていた。

いつか私もそんな風になりたくて、いつもその後ろをついて回った。

 そんな私のことを邪険にすることもなく、彼女は手を差し伸べてくれる。

 その顔には靄がかかっていて、誰なのか知ることが出来ない。

 名前を呼ぶ。

 相手も私の名前を呼んだ。

 二人は仲の良い姉妹のようだった。

 だった? 

私の中でずっと欠落していたピースが、ゆっくりとハマる音がした。

 あぁ、どうして忘れていたんだろう。

 私たちはずっと前から、繋がっていたというのに。

 

 眼を開けると、遥か彼方の水面から弱々しい月の光が差し込んでくるのが見えた。

 殻に守られていたおかげで、呼吸も出来るし、落下の衝撃でどこかを痛めることもなかった。

 それなのに、動けなかった。

 すぐに起き上がって凜の元に行かなければ大勢の人々が殺されてしまうのに。

 どうしてもソレを止めたかったけれど、私には最初から無理だったんだ。

 悔しさで視界が滲んだ。

 もう、どんなに手を伸ばしても届かないのに、諦観の念で胸がギュッと締め付けられた。

 私はまた、泣くことしかできない。

 七年前のあの日から、白柳 華は、少しも変わらない。

 奇跡の使者としてどんなに多くの人を救えるようになったとしても、結局の所、私自身は何も変わってなどいなかったのだ。ただ他人には使えない魔法という力を偶然にも手に入れただけで‥‥‥。

 本当に救いたい人を、一年前までいたあの孤独から救い出すことも出来ない。

 だったら、最初から魔法使いになんかならなければよかった。

 一年前のあの日、彼女と出会わなければよかった。

 そうすれば、こんなに悲しい思いをすることもなかった。

私を守るために凜がもう一つの人格に目覚めることもなかった。

大勢の人たちが殺されることもなかった。

 全部、ぜんぶ、私から始まったことだったんだ。

 それなのに、私は今もこうしてただ泣くことしか出来ない。

 このままここで、全てが終わるのを静かに待っていよう。

 私が動いたって、どうにもならないんだから。

 そう自分に言い聞かせて、瞼を閉じようとした。

その時だった―――

 「凜を、助けてあげて」

 「――――ッ‼」

 不意にどこからか、声が聴こえてきた。

 ハッと眼を開けて、辺りを見渡すが、あるのは暗闇だけ。

 だけど、今の声には聞き覚えがある。

 もうずいぶん聞かなかった耳に残る優しい声音。

 「お母さん、なの?」

 不意に零れた呟きに、返答は頭の中で鳴り響いた。

 「お願い、華。お姉ちゃんを、助けてあげて」 

 「‥‥‥‥‥」

 「このままじゃ、お姉ちゃんまで死んでしまう」

 「ムリだよ、私には‥‥‥」

 「頑張って、アナタにしか出来ないの」

 「でも、でも‥‥‥」

 「あの子もアナタが助けにきてくるのを待ってる」

 「凜が?」

 「だから、お願い。あの子を助けて」

 「‥‥‥‥‥」

 「頼んだわよ、華」

 そして、声はそれっきり聞こえなくなった。

 しばし、呆然とゆらゆらと揺れる水面を見つめてから、

 「ありがとう、お母さん」

 その時、自分の体が温かいものに包まれているように感じた。

何かと溶け合っていくような、不思議な感覚。

 目尻に溜まった涙を払い落とす

 もう一度、話をするんだ。

 しなくちゃいけない!

 私は立ち上がり、天に向かって手を伸ばした。

 まるで子供が夜空に流れる星を掴もうとするように。

 「今行くから、待ってて―――お姉ちゃん」

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