第26話

 「やっぱり、ここにいた」

 寒風吹きすさぶビルの屋上にそっと降り立つと、ビルの縁に佇みながら東京の夜景を見つめていた凜はゆっくりと振り返った。少し困ったように柳眉を下げ、十二月を彩る街の灯りが彼女の白銀の双眸を艶やかやかに照らしていた。

 「どうして、ここが判ったの」 

 「んー、何となく、かな」

 ここは八月末に、凜と一緒に花火を見たビルの屋上だった。季節は十二月。時刻はもうすぐ夜の十二時を回ろうとしている。当然、屋上には私たち以外に人の気配はなかった。

 くすり、凜が微笑んだ。

 「ねぇ、見てよ」

 そう言われるがまま、私は凜の隣に立ち並び、彼女の見つめる景色を見た。

 宣言の影響か、街のいたる所でパトカーや救急車の赤いランプが瞬いている。

 「きっと今頃、誰もが自分自身と向き合っている。誰かを殺すことで、自分自身や、大切な家族を守ろうと躍起になってる。これが終わればきっと誰もが理解するよ。本当に大切なモノは何なのか。痛みを知ることで、人は優しくなれる」

 「それが凜の言う、新しい世界なの?」

 「‥‥‥多分、そうだと思う」

 胡乱気に頷く彼女の横顔を見つめながら、私は言う。

 「じゃあ、その世界に私はいちゃだめだね」

 「え」

 その言葉に、凜は予期していなかったという反応をする。

 これまで超然とした表情を崩さなかった凜が初めて、困惑する様が可笑しくてたまらんかなかった。親に叱られた子供のように、傷ついた顔をする凜は、何で? と呟いた。

 「どうして? 何で分かってくれないの? 私には、こうする他にないのに‥‥‥」

 私の両肩を掴みながら、凜は何で、何でと繰り返した。

 ズルズルと崩れ落ちる凜の肩に私もそっと手を置き。

 「全部、私のためだったんでしょ?」

 「‥‥‥‥‥」

 沈黙は、肯定を意味していた。

 「やっぱり、そうなんだね。それに、私やっと思い出せたよ。凜のこと。ううん、凜と私が本当の姉妹だったこと」

 「――――ッ‼」

 弾かれたように顔を上げた凜は驚愕に眼を見開いていた。

 「自分がいなくなった後も、私が孤独にならないように、新しい世界を創ろうとしたんでしょ?」

 「‥‥‥」

 「だけど、それ‥‥‥間違ってるよ」

 「じゃあ、私はどうすればよかったの」

 嗚咽交じりに呟く凜の髪を撫でながら、私は答えた。

 「何も、しなくてよかったんだよ。ただ一緒にいてくれさえすれば」

 「でも、私には時間がなかった‥‥‥。私がいなくなった世界でアナタを独りぼっちにするわけには、だから‥‥‥私は‥‥‥」

 「初めから無理だったんだよ、そんなこと」

 「え」

 「だって、凜がいない世界で私だけが生きていたって意味ないもの」

 そこで凜の涙腺が決壊した。とめどなく頬を涙で濡らしながら、凜は何度も「ごめん」と謝った。それが一体どれだけの人に対しての言葉なのか私には推し量ることは出来なかった。

 「大丈夫だよ」

 嗚咽に肩を震わせる凜をそっと抱き寄せ、髪を梳くように撫でる。

 「私が何とかしてみせるから」

 「無理よ。もうじき捲いた毒が大勢の人を殺すわ。もう誰にも止めることは出来ない」

 「出来るよ。私と―――凜の二人なら」

 「え?」唖然と眼を見開く凜に、私は柔らかく相好を崩した。

 「お母さんに言われたんだ」

 暗い水底に沈みゆく中、聞こえてきたあの声は紛れもなく母のものだった。

 「凜と―――お姉ちゃんを助けてあげて、って」

 「――――ッ」

 「それにこのまま凜をひとりで逝かせちゃったら、私きっとこの先生きていくのが辛くなる。凜と出会うまでの辛かった時より、多分もっと‥‥‥今度こそ本当に死にたくなると思う。だから、これは救済なんって大袈裟なものじゃなくて、ただの、妹のお願い」

 そっと肩を押して、鼻先がくっつきそうなくらい近くで、私たちは顔を合わせる。

 「私を助けて―――お姉ちゃん」

 「‥‥‥どうして」

 ぽつり、凜の口からそんな言葉が漏れた。

 「どうして、アナタがそんなことを言うのよ。私は華を―――妹を助けたいから、私がいなくなった世界で独りぼっちにさせたくなかっただけなのに‥‥‥、どうしてアナタは、私を独りにさせてくれないの?」

 「そんなの決まってるよ」

 毅然とした声音。次いでパッと花の綻ぶような笑みで。

 「凜が私を救ってくれたから。独りぼっちだった私を、あの冷たくて暗い場所から救ってくれて、ここまで連れてきてくれたから。だから私も、凜を独りになんてさせられない」

 これは唯の我儘だ。

 だけど、私達の間に遠慮は不要だった。

 それは血の繋がりや、互いを思いやる絆より尚深く、運命で繋がっているから。

 「‥‥‥ごめん、ごめんね。‥‥‥華‥‥‥」

 とめどなく涙を流す凜の頬を、こわごわと震える指の背で撫でるようにして涙を拭う。

 「違うよ、凜」

 色素の薄い虹彩を帯びた瞳を、おずおずと上向け。

 「こういう時は、ごめん、じゃないよ」

 脳裏に、別れ際の亜香里の姿が蘇り。

 気付けば、頬を熱い涙が伝っていた。

 「ありがとう、だよ」

 須臾の間、細かく震わせていた凜の肩と唇がわずかに落ち着きを取り戻した。

 「ほんとうに、強くなったんだね」

 二人で花火を見た夜から今日までの孤独を癒し、労うかのように凜はポツリと呟いた。

 このままずっと時間が止まってしまえ、そう願わずにはいられなかった。 

 だけど現実は非情に、容赦なく、残された時間を告げてくる。

 ごーん、ごーん、という鐘の音が遠くから聞こえてきた。

 年に一度、十二月 二十五日のクリスマスを報せる教会の鐘楼である。

 現実に引き戻された私たちは、しばし眼下に広がる街を見遣り。

 「さっき川に落ちた時に気付いたんだ。本当は、私が修復できるのは人や物だけじゃなくって、時間そのものも修復できるんじゃないかって」

 「それって?」

 既知の富む凜のことだ。二の句を告げるより先にコチラの言わんとする所を察したのだろう。

 うん。私はゆっくりと、確固たる意志を以ってと頷いてみせる。

 「時間を巻き戻す。凜の魔法が発動するより前の時間よりもっと前に」

 仮に私の仮説通りに時間を巻き戻すことが出来たとしても、銀の花による浸食で自我を保つことが難しい状態の凜では、いつまた同じ凶行に及ぶとも限らない。ならばそれより更に過去へ。凜が自我を保つことが出来ていた時間軸。

 銀の花と出会うより前、魔法使いとなるより以前にまで遡らなくてはならない。

 それはつまり、私たちが、まだお互いの顔も知らない孤独なあの頃への逆行を意味していた。

 「本当に、それでいいの?」

 憂いを帯びた眼差しが向けられ、しばし言葉に詰まった。

 だけど。

 「これでいいんだよ。これが魔法っていう奇跡の代償なんだ」 

 以前、鈴から言われた言葉を思い出す。

 『この世界の在り方は、常に等価交換』であると。

 ならば、あの日凛と出会ってから今日まで、幸福も、苦悩も、葛藤も、希望、その全てに対する対価を支払わなくてはならない。それが例え、今日までの思い出を、すべて消し去ってしまうことになるとしても。

 「だけど、私があの花を見つけたのは三年も昔なのよ。それより前に戻るには今の華に残された寿命の全部と使っても、おそらく足りないわ。それだけじゃない。これまでみたいに一部の限定された人や物の修復と、時間の修復では影響を与える範囲もこれまでの比じゃない。そんなことが、本当に出来るの?」

 「判らない。だけどやってみる価値はあると思う。それに道筋なら既に凜がつけてくれてる」

 「まさか⁉ 私の捲いた毒の軌跡を辿るつもり⁉」

 「うん。凜が広げた回路に私の魔法を流し込めれば、街中の人たちを起点に世界に影響を与える事が出来ると思う」

 「‥‥‥ふふ、時々、華ってとんでもなくお馬鹿なこと言うわよね」

 「ひ、ひどい」

 先程までの悲壮な態度から一転、情けない声が漏れる。その姿がよほど可笑しかったのかクツクツとひとしきり笑ってから、凜は徐に空をふり仰いだ。釣られるように私も空を仰ぎ、鋭く息を吞んだ。

 凜が発した宣言により、外を出歩く人はほとんどいない。その所為で街の灯りは少なく、おかげで冬の星空の煌々とした輝きを妨げるものは何もなかった。

 陳腐な言い方だが、息を吞むような美しさだった。

 「本当に、これで最期なんだね」ポツリと凜が漏らす。

 「最期じゃない。今度こそやり直すの。魔法の花に頼らなくても私達なら必ずもう一度巡り逢うことが出来る。なんでかな、そんな気がするんだ」

 「そっか、うん。そうだね、そうだといいな」

 そう呟く凜の頬をひと筋の涙が流れる。

 きっと私も同じだろう。

 もう一生分の涙は流したと思っていたのに、何処からともなく涙が溢れてくる。

 「凜―――手を」

 小さく頷く凜が差し出す、お互いの指を絡めるようにして握り締める。

 「またね―――華」

 「またね―――凜」

 そして、最後の時は訪れた。

 

 視界が、次いで意識は白く塗りつぶされた。

残る寿命の全てを使い果たした私たちの体は無数の光の粒となって宙に四散した。

 白柳 華という存在、黒条 凜という存在を形作る境界線が曖昧と成り、帯状に解け、ひとつになり―――やがて空を彩る星々の輝きの中に溶けるようにして消えて無くなった。

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