第12話

 薄暮。

 凜の自宅を後にした私は、夕暮れに紅く染まった街を一人帰路に就いていた。

 気が付けば義妹と二人で暮らしているアパートの屋根が見えている。凜の自宅のある高層マンションからここまでは電車とバスを乗り継いで二○分近くかかるはずなのに、ここまでどうやってたどり着いたのかまるで記憶になかった。

 それも全ては、別れ際に凜から告げられた、魔法使いの真実が私の想像をはるかに超えていたからに他ならない。

 呆然自失となりながらアパート近くの公園を横切ると、不意に、足首に柔らかい何かが当たった。視線を下げると、ソコには黄色のゴムボールが転がっていた。

 「すみませーん、ボールとってください!」

 元気のいい声をあげるのは、公園で遊んでいた幼い子供たちだった。どうやらこのボールも子供たちの物らしい。我に返った私は、足元に転がるボールを拾い上げると、えいっ、と投げ返した。「ありがとう!」と無邪気な声とともに、ボールが返ってきた子供たちは遊びを再開した。その様子に思わず笑みが漏れる。

 夕日に伸ばされた子供たちの長い影。ブランコが揺れる度にギィギィと鳴る錆びの音。未来のある子供たちを見ていると、不思議と胸の奥が軽くなったような気がした。まだ高校生の私が、未来に対して何を悲嘆にくれているのだと、周りの大人たちが聴けば笑うだろう。

だけど、私は三か月前のあの日に、人生にピリオドを打とうとしたのだ。その私がこうして未来への漠然とした恐怖を抱いていられることそのものが、奇跡のように思えた。

 遊んでいた子供たちの親が迎えに来る。手を繋いで公園を後にする子供たち。

私はしばらくガランとした無人の公園を眺めていた。金属の擦れる音だけを残し揺れる無人のブランコ。そこに私は、まだ両親が生きていた頃の思い出を重ねてしまう。

 「‥‥‥父さん‥‥‥母さん‥‥‥私、本当に生きていてもいいのかな?」

 不意に漏れたその言葉は、凜と出会う以前には幾度となく頭をよぎった問いかけだった。

 あの日、本当に死ぬべきだったのは私だったのではないか? もし仮に、私一人があの時死に、両親が助かっていたとする。優しい二人のことだから、一時は深い悲しみに打ちひしがれるだろう。だけど、それも長く続く人生の中のほんの一端に過ぎない。二人なら、もう一度、新しい家族を作り、幸せな人生を送ることが出来たに違いないのだ。

 そんな私を永遠に愛し続けると言ってくれた凜の言葉を疑うわけではない。それでも時々、考えてしまう。誰の役にも立たない私なんかよりも、世界中の人に笑顔と、勇気を届けられる母さんのような人こそ生きるべきだったのではないか、と。

 「駄目だな‥‥‥また、変なことばかり考えてる‥‥‥」

 俯き、自虐気味に微笑する。途端、それまで堪えてきた不安や恐怖といった色々な感情がこみ上げ、私はたまらず公園の周囲をぐるりと覆っている薄緑色のフェンスに背中を預けながらズルズルと座り込んでしまう。

 通りかかった人が見れば、不審者認定されても仕方がないと自認しつつも、抗いがたい虚脱感に襲われ、しばらく起き上がれそうになかった。

 「やっぱり、凜はすごいな‥‥‥。こんな思いに、ずっと独りで耐えてきたんだから‥‥‥。私なんかとは違う‥‥‥すごく、強いよ‥‥‥」

 ここにはいない親友を想って、私は小さく呟いた。 

 その時だった。カサッと葉擦れの音が聞こえたのは。緩慢な動きで首を動かすと、へたり込む私のすぐ側を、一匹の黒毛の猫が横切っていく。

チラリと肩越しに振り向いた猫の琥珀色の瞳と視線が交錯する。時間にすれば数秒、だけど私にはずいぶん長く感じられた。小さくひと言「こっちにおいで」と囁きかけた。それに対して黒猫はニャーと可愛らしく鳴いて、そのまま去っていく。

 「‥‥‥何を、期待してたんだろう」

 あの黒猫に、私は一体誰の面影を重ねていたのか。少し考えたが、やはり答えは出ない。

 いい加減に立たないと不審に思った周辺住民から警察へ通報が入るかもしれないと危惧し、まだ上手く力が入らない体をフェンスの網目に指を掛けながら、どうにか立ち上がることに成功した。そして、ようやく残り僅かな帰路へ就こうとした私から向かって正面、車一台が通るか通らないかという隘路に、突如、物凄い勢いで一台の赤い車が入ってきた。

私は咄嗟にフェンスに体を預け、車との接触を避けるが、一瞬だけ見えた車内にはまだ十代とおぼしき少年たち数名が高笑いしながら運転していた。

その瞬間、かつての光景。両親が命を落とした時の光景が、ありありと頭の中に浮かび上がった。その直後に起こった凄惨な事故―――いや、あれは事故などではなく、起こるべくして起こった悲劇だ。それと似た匂いが鼻ではなく、第六感と呼ばれる感覚をちりちりと刺激した。

 ゴンッ、と鈍い音がした。私はほとんど無意識に音のする方へと振り向いた。走り去っていく車の屋根で一度バウンドして地面に転がる小さな影が眼に入った。

 「――――ッ‼」

 か細い悲鳴が漏れた。と同時に、氷像のように冷たく凍っていた私の体は、弾かれたように固いアスファルトの上に倒れた影―――黒猫の方へと駆け出していた。

 一目で、もう助からないことは判った。

 腹部が凹み、片目は潰れている。口からは少量ながらも喀血していた。

 「‥‥‥あぁ、そんな‥‥‥何で、こんなことに‥‥‥」

 目の前の現実を直視することが出来ず、私はかたく眼を閉じることしか出来なかった。

 蘇りかけていた七年前の光景が蘇り、呼吸のリズムが不規則に加速する。

 ほとんど喘ぐような呼気。こういう症状を、過呼吸と呼ぶのだと私はこの時初めて身を以て知ることとなった。

 きつく閉じた瞼の裏側にノイズが走る。ざらざらと砂嵐のような、目障りなエフェクト。

 耐えきれず目を開ければ、そこには血を流し倒れる子猫の姿。

 もう何をどうしたらいいのか解らず、私はただ嗚咽を洩らすことしか出来ない。

 と、その時だった。ケハッと黒猫が血の塊を吐き出し、その小さな腹部が大きく上下する。

 「まだ生きてる‼」

 目の前に降りてきた一本の細い希望という名の糸。それに私は縋った。

 「死んじゃダメ! お願い、死なないで‼」

 しかし、一介の女子高校生に過ぎにない私に応急処置の心得などあろうはずもなく、ただ遮二無二に励ましの言葉をかけることしか出来なかった。当然、そんなことで瀕死の猫が生気を取り戻すはずもないのだが、それでも私は決して諦めなかった。

 「死なせない。絶対に、死なせるもんか!」

 この時の私は、おそらく目の前の猫に、七年前に死んだ両親を重ねていたのだと思う。

 だから、もう二度と同じ悲劇を繰り返したくないという一心から、無意識に全身が薄青い光彩『殻』に包まれていく。

 「お願い、死なないで‥‥‥ッ!」

 二センチほどの間隔を開けた姿勢で、猫へ手をかざすと、全身を覆っていた殻の一部が原生生物のように蠢き、瀕死の猫を包み込んでいく。

 助ける、死なせない、眼を開けて! 

 きつく眼を閉じ祈り続ける須臾の間、私の頭の中に、よく解らない大量の情報が濁流のように流れ込んできた。ズキッと頭を刺すような痛みに小さなうめき声が漏れる。

 それでも私は一瞬たりとも集中力を損なうことなく、瀕死の黒猫へと意識を注ぎ続けた。

 「眼を、開けて…―――‼」

 最後の瞬間、懇願するような叫び声は、殻の中でキーンという長い残響を残したところで、全身を包み込んでいた殻が、宙を漂うシャボン玉のようにパンッと儚くも、美しく割れた。

 凜が言っていたように、集中力が切れたせいで魔法が解けたのだ。

 「‥‥‥ハァ‥‥‥ハァ‥‥‥」

 意識が朦朧とする。冷たいアスファルトの上に両手をつく。極限まで張り詰めていた集中力が切れ、全身から熱が急激に引いていくのが解る。指先が氷のように冷たくなっていく。

 ゴクリと生唾を呑み込む音がした。カラカラに乾いた口の中からは一切の水分が失われ、代わりにズキリとした痛みが疾る。

 お願い、死なないで。そう祈りながらも私は眼を開けることが出来なかった。

 もし目を開けた先で、さっきまで息をしていた黒猫が死んでいるかもと想像すると、生きた心地がしなかった。恐怖に耐えるように硬く目を閉じ、唇を噛み締めていると―――不意に、冷たく凍り付いていた指先に仄かな温もりを感じた。

驚いた私は、そろそろと瞼を持ち上げ、

 「ッッッ‼」

 ペロペロと小さな舌で、右人差し指を舐める黒猫の姿が視界に入った。

その隣のアスファルトにポタッと透明な雫が、ひとつ、ふたつと、次々に滴り落ちた。

 「~~~~~~‥‥‥、良かった‥‥‥生きてて、本当に‥‥‥」

 「ニャア~」

 甘えるように喉を鳴らす黒猫は、最後にスリスリと頭を私の右手に擦りつけてくると、そのままスルリと身を捻り、先程と同じように何処かへ立ち去ってしまう。その姿が見えなくなるまで、私はしばらく、胸の内に燻り続ける形容し難い感情の余韻に浸り続けた。

 「私が、やったんだ‥‥‥」

 手の甲で乱暴に目元を拭う。

 「生まれて初めて、命を、救うことが出来た」

 この力が、七年前にもあったならと思わなかったと言えば、嘘になる。

 それでもこの日、私の中に、自分とは別の命を救ったという確かな自信と誇りが芽生えたことは明らかだった。

 


 路傍に一人、膝を突きながら嗚咽を洩らす栗色髪の少女を、僕は驚愕の思いで見つめていた。

 家に帰るのが億劫で、時間つぶしに公園のベンチに腰掛けていると、突然、誰かの叫ぶ声が聴こえて慌てて立ち上がった。

猛スピードで走り去っていく一台の赤い車。地面に血を流しながら転がる一匹の黒猫。

僕は直ぐに引き逃げと判った。だからといって自分と関係のない野良猫が撥ねられただけなんだから別に驚くことも、哀れみを抱くこともなかった。

だけど、その猫に駆け寄る少女はそうではなかったらしい。

 遠目から見ても、その猫が助からないことは明らかだった。しかし、少女は懸命に何事かを呟き、横たわる猫へ手をかざした格好でしばらく固まっていた。

 一体、何をしているのか? と訝しんでいると、先ほどまで瀕死だったはずの黒猫が平然と立ち上がったではないか。これにはさすがに驚き、瞠目した。 

 その後、猫はまたどこかへ立ち去り、しばらく呆然と座り込んでいた少女がゆっくり起き上がる。僕は慌てて近くの茂みの陰に身を隠した。幸いにも少女がコチラに気付いた様子はない。

 しばらくしてから、誰もいないことを慎重に確認しながら、茂みの陰から身を起こした僕は、さきほどの少女のことを思いながら、ボソリと呟いた。

 「何だ、さっきのは?」

 未だ抜けきらない衝撃の余韻を追い払うべく、僕は楠女学院を示す制服の右ポケットから大粒のブレスケアが入った箱を取り出し、一粒口に放り込む。

ガリッという音とともに口の中にミントの味が広がった。

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