第11話

 二週間の春休みに入って以来、私は足繁く凜の家に通っていた。

 初めて来訪した時のように、エントランスで扉の開け方に迷うことはなくなったが、依然と高価なスーツや服を身に纏う上流階級風の人たちとすれ違うのには慣れなかった。

 受付のお姉さんの挨拶に会釈を返せる程度には成長したが、エレベーターに乗り込むたびに、安堵のため息が漏れる。最上階行きのボタンを押すと、直後全身をググッと奇妙な浮遊感が包み込む。数秒で地上百四十メートルを登り切った箱から降りれば、その階唯一の居住者が自動ドアの奥から姿を現したのは同じタイミングだった。

 「いらっしゃい」

 「おじゃまします」

 ほとんど毎日顔を合わせているのに、凜を見る度に心臓の鼓動が大きく跳ね上がった。

 外履きから来客用のスリッパに履き替え、リビングを通り凜の部屋へ入る。部屋の真ん中に置かれた一脚の長机と、その上に積み重ねられた分厚い本の山を前に、私はヨシッ! と小さく気合の呼気を吐き出し、肩にかけていたバッグと、上着を部屋の片隅に降ろした。そのままスタスタと長机の方へと歩み寄る。

 「フフッ、気合十分ね」

 お茶と御菓子の乗ったトレーを持った凛が入ってきた。 

 「うん。今日こそは持ち上げられるようになりたいから」

 「それは良い心がけね。じゃあ、華が持ち上げられるようになるまで、このお菓子は私が一人で食べておくわね。早くしないとなくなっちゃうわよ」

 「ええ~、そんなのヒドイよ~!」と、先程までの気合に満ちた表情から一転、情けない声を洩らすと、心底おかしそうにお腹を抱えながら笑う凜に、私は頬をぷくーと膨らませる。

 「ごめんごめん。だって、さっきの華の顔ったら、あまりにもおかしくって」

 尚も目尻に涙を浮かべながら語気を震わせる凜は、サイドテーブルにトレーを置くと、隣まで歩み寄り「許して」と上目遣いで謝ってくる。その可愛さの破壊力たるや、同性の私からしてもクラリとさせられる。将来、凜の隣に立つことになるまだ見ぬ伴侶への昏い感情が沸々と胸の奥底で沸き上がってくる。

 「ちょっと、華、どうしたの? すごく怖い顔になってるけど?」

 孤高の白雪姫と謳われる凛が、顔を引き攣らせる。

 「ちょっとね。将来、凜の旦那さんになる人の事を考えたら羨ましく思っちゃって」

 と、素直に本心を口にすると、一瞬唖然とした表情から、ハハハッと学院では決して見せないような笑い声を上げ、凜は細かく肩を震わせながら顔を上げる。

 「華、アナタ、そんな事を考えていたの?」

 「え? 私、何かおかしなこと言ったかな⁉」

 一人あたふたとしていると、更に凜が口元を覆いながら笑みを零す。その姿が何だかおかしくなり、気付けば二人揃って笑い声を上げていた。

 ひとしきり笑い、落ち着きを取り戻した凜は、目尻に溜まった涙を白い指先で拭い去る。

 「大丈夫よ、私は将来誰のお嫁さんにもなるつもりはないから」

 「で、でも、それじゃあ‥‥‥凜のウエディングドレス姿が見れない、いや、でもそれはそれで私は嬉しいけど、でも、あぁ~どっちも嬉しくて、どっちも嫌だ~!」

 「あはははっ! 華、やめて。これ以上笑わせないで、お腹が痛いわ」

 「もう笑わないでよ! 私は真剣に悩んでるのに!」

 「そうね、ごめんなさい。でもね、さっきも言った通り私は誰とも結婚しない」

 「その根拠は?」

 おずおずと訊ねると、凜はフフッと含みのある笑みを零し、スッと私の耳元へ口を寄せ、

 「それはね、私が将来、華の旦那さんになるからだよ」

 「え?」

 思いがけない台詞に、硬く凍り付いた私から顔を離し、手を後ろに組みながらクルクルと舞い踊る凜の面貌には、悪戯が成功したような無邪気さと、見るモノを魅了する蠱惑的な笑みが浮かんでいた。

 しばらく呆然と見入ってから、私の口からボソリと呟きが漏れ出た。

 「それ本気なの、凜?」

 「さぁ、どうかしら?」

フフッと意味深な笑みが浮かぶ。

 「じゃあ、今度は私が訊くね? 華はこの先、私たちが大人になっても、年を取ってお祖母ちゃんになっても、ずっと側にいてくれますか?」

 「‥‥‥‥私なんかで、よければ」

 華麗なステップを踏む凜に倣い、私も亜麻色のロングスカートの裾を軽く持ち上げてみせた。

 さながら王子からの求婚に応じる、恋に夢見る姫のように。

 「あっ、でもその時は、私と凛、どっちが奥さんになるのかな?」

 何の気なしに発した言葉に、凜はやっぱり声を上げて笑うのだった。

 

 「さて、練習を始めましょう」

 白いワンピースに黒のレギンス。処女雪のような銀色の髪をアップに纏め、目元には銀縁の眼鏡まで掛け、教師然とした装いに変わった凜は、静かに長机の上に山積する本の正面へと歩み寄ると、広げた右手を机の方へと突き出した。

その様子を、私は半歩退いたところからじっと見守る。

 「まずはこれまでのおさらいからね」

 「お、お願いします!」

 声に緊張の色を滲ませる私へ、教師役を買って出た凜は薄く微笑む。その視線が正面へと戻ると、硝子色の双眸に小さな波紋が広がっていくのが見えた。凜の瞳を青い光彩が包み込んでいく。光はそのまま眼から、体全体を包み込むように広がっていき、二秒とかからずに、薄く青みがかった『殻』が全身を覆い尽くした。

 「まずは、これが魔法の基礎。全身を薄い殻で包み込むようにイメージするのがコツね」

 ここ数日、何度も聞いた説明に、真剣な表情でうんうん頷く。

 「私たちが使う『魔法』は、全てこの『殻』を通して使うから確実に覚えないとダメよ。それじゃあ、いつも通り私がお手本を見せるから、あとから華もやってみて」

 「わ、分かった!」

 「うん。まずは簡単な―――物を触れずに持ち上げる所から始めるわ」

 先ほどまでの柔和な雰囲気から一変、銀色の双眸を細めると、凜の体を覆っている殻が薄く引き伸ばされ、さながら実体のない腕が長机の上に置かれた本へと向かった。

そのまま引き延ばされた腕が、机上の本を呑み込んでいき、次の瞬間―――。

 「ッッッ‼」

 分厚い参考書並みの本数冊が、指一本触れていないにも関わらず宙にフワフワと浮き上がる。 

 何度も見ても、浮世離れした光景に息を呑んでいると、コチラへ凜が振り返った。

 「こうやって殻で対象物を包み込めば、あらゆる物質を自由に持ち上げることが出来るし、殻を上手く操れるようになれば、自分自身を浮き上がらせることも出来るようになるわ」

 「やっぱり、私には出来ないよ、こんなこと‥‥‥」

 「そんなことないわよ。昨日は殻まで創れたんだから、あとはその応用ね。それに華になら出来る」

 「うぅ、私は凛みたいに、出来る自信も、才能もないよ」

 自分で言っていて卑屈な思いになってくる。

自信も才能も、単なる言い訳に過ぎないことくらい分かっている。凜なんてコレを誰にも教わらず独学で身につけたのだ。その事を思えば私は凜という指南役がいてくれるだけ恵まれている。それなのに、たった数日上手くできなかったからといって、才能がない、と匙を投げるのは教えてくれている凜に対しても失礼すぎる。

それに、何度教えられても一向に成長の兆しの見えない、私なんかに凜の貴重な時間を浪費させていると思うと、今にも逃げ出したくなる。

 悄然と顔を伏せていると、視界に絹のように滑らかな指先が映りこむ。

 「ねぇ、華。こっちを見て?」

 その声に従って、おずおずと顔を上げると、ぷにっと両頬を凜の両手に挟み込まれる。

 「りぃん? ぬぁにすふの?」

 何語なのか解らない言葉が漏れる。頬を両側から挟み込まれ身動きの取れない私の榛色の瞳の奥を凜はジッと覗き込むように凝視する。

 「アナタには才能がある。なかったら花は最初からアナタを選ばなかったはずよ」

 「――――ッ‼」

 「あの花は、生きている。正直に話すとね、華の他にも何人か、あの花に接触させたことがあるの」

 「しょ、ひょれって‥‥‥」

 私たちの他にも、同じように魔法使いが存在するのか? というコチラの意図を鋭く読み取り、凜は小さく頭を振ってみせた。

 「結果は失敗。触れた人は例外なく、触れるまでの数か月前の記憶を失くして、ほとんど廃人みたいになっちゃった。でも心配しないで、皆しばらくしたら元に戻ったから。もちろん、花に触れた時の事は何も覚えていなかったようだけれど‥‥‥」

 そこで一瞬、凜の瞳にわずかな翳りが過る。それが何なのか私は何となく解った。

 凜はずっと寂しかったのだ。魔法という常識の埒外の力をたった一人で手に入れてしまった直後に抱いた感情は、果てしない孤独であったはずなのだ。

 誰にも相談できず、誰にも打ち明けることも出来ない孤独。それは木村さんからの執拗な嫌がらせや苛めを、姉さんに心配をかけたくない一心でずっと胸の奥底に押し殺していた頃の、凜と出会う以前の私と酷似している。

 途端に、胸を鋭利な刃物で刺されたような疼痛を感じ、それに耐えるようにきつく唇を噛み締めた。

 「凜、ごめん」

 「え?」

 頬を挟んでいた拘束がそろそろと解け、十数秒ぶりに自由になった口角を震わせ私は続けた。

 「‥‥‥私、凜の気持ち、何も考えてなかった‥‥‥。自分のことばっかりで、本当に辛い思いをしていたのは凜なのに、そのことに少しも気付かないで‥‥‥私‥‥‥私‥‥‥」

 鼻先がつんと熱くなってくる。目尻にジワリと涙滴が滲み、しかし、今回はそれを零すことなく、キッと凛の双眸を見つめ返し決然と言い放った。 

 「私やるよ! 今日こそ魔法を成功させて、凜―――アナタを独りぼっちにさせない!」

 その言葉に一瞬だけ唖然とした様子の凜は、フフッと微笑し、小さく一言だけ「ありがと」と告げると勢いよく私へ抱き着いてきた。

 この時、いつも大人びて見えていた凜が、年相応の傷つきやすい同年の少女なのだと思えた。

どこか懐かしい花の香りのする銀色の頭を、私は優しく撫でる。

 その瞬間、私と凜の体全体を、さきほど見た時同様の薄い青色の殻が包み込んだ。

 私は最初、凜が魔法を使っているのだと思ったけれど、顔を上げ、驚いた様子の凜は無言で私じゃない、と頭を振った。じゃあ、一体誰が? ―――とは考えるまでもない、凜以外で、ここにいる魔法使いは一人しかいない。

 「え? ‥‥‥これ、私なの⁉」思わず素っ頓狂な声が洩れた。

 「う、うん。そうだよ‥‥‥これが華の魔法なんだ‥‥‥」

 普段の冷静さがすっかり成りを潜めた凜の言葉が意味するところは、現在、私たち二人を包み込んでいる殻の大きさだった。丸い球体。極大の風船の中に閉じ込められたような殻は、凜の殻よりもずっと大きく、部屋の三分の一を埋め尽くそうとしている。

 「す、すごい、こんな大きな殻、見たことないよ」

 と声を震わせた凜は、ハッと眼を見開き抱擁を解く。そのまま細い指先でおとがいを撫でながら何やら考え事を始めた。そしてたっぷりと十秒近く黙考すると―――。

 「もしかしたら、これが華の魔法なのかもしれない」

 「え、それって、いったいどういうこと?」

 まるで事情を呑み込めていない私の疑問には答えず、凜はくるりと長机の方へ振り返ると、

 「今ならいけるかもしれない。華、このままあの本を持ち上げてみて!」

 「ど、どういうこと⁉」

 「いいから、早く!」

 さきほどまでの甘えるような声音から一転して、厳しさを増した凜の声に半ば気圧される形で、私は言われた通り意識を、机の上に積み重なった本へと向ける。

 そして――――。

 「ッッッ‼」

 「やっぱり!」

 何やら納得した様子の凜に眼もくれず、私は初めて自らの意思で宙に持ち上げられた本数冊を唖然と見つめていた。

 「つまり、そういうことだったんだわ」

 「え? 凜、何か解ったの?」

 「ええ、華の魔法は、私よりも高い出力が出ていたのよ。だけどそのせいで魔法を制御出来ていなかった。反対に私みたいに出力が小さければ、その分、制御や小回りが効きやすくなる」

 「でも、何で? 昨日までは全く出来なかったのに」

 「これは私の推測になるけど、おそらく華の魔法を使う引き金になっているのは、他者を慈しんだり、守ろうとするような庇護心、なんだと思う」

 「ひ、庇護心?」

 上手く呑み込めない私に、凜は、スチャッと眼鏡の位置を直すと、絵にかいたような教師然とした仕草で、説明を再開させた。

 「魔法の発動に欠かせない重要な要素が、殻の他にももう一つあるの。それは精神面。心の在り方と言い換えてもいいわ」 

 「心の在り方?」

 ふと以前、凜の口からきいた孤独の温度差なる話を思い出した。

 「たとえば華の魔法は、自分の為よりも、他者を慈しむ心が魔法発動の原動力になっている。要するに魔法というエンジンを動かすのに必要なエネルギー=何を思うか、ってことよ」

 いつも理路整然とした凜の言葉とは思えない、アバウトな説明だったけれど、私はその云わんとすることが何となく理解できた。

春休みに入って数日、凜の家で魔法の練習に取り組んできたが一向に進展せず、昨日ようやくほんの一瞬、殻で全身を覆うことに成功した。もちろんそこから凜のように本を浮かせたり、自分を浮かせることは出来なかった。それなのに、今は特別意識することもなく本を浮かせていられる。その理由が凜の言う、心の在り方なのだとすれば、昨日までと今とで異なる点は一つしかない。凜を独りぼっちにさせたくない、という強い想いがあったか、どうかの違いだけなのだ。

「これは大きな発見だわ。これまでは私以外に魔法を使える人がいなかったから、自分と比較することが出来なかったけれど‥‥‥、うん。なるほど。心の在り方で魔法の得手不得手は変わってくる」と、一人納得した様子の凜は、薄い桜色の唇を白い指先で撫でながら一人うんうん頷いている。

「え、えっと、凜? それじゃあ私は自分自身の為には魔法を使えない、ってこと?」

「いいえ、そうじゃない。全く使えなくなるっていうよりは、出力が落ちるイメージが正確よ。私の場合は反対に自分自身のために魔法を使った方が出力も安定するから、魔法だって‥‥‥」

途端、不自然に言葉が途切れた。怪訝に思い私はどうしたのかと声をかける。

「凜、どうかした?」

「ご、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたわ」

「フフッ、凜もボーっとしたりするんだね」

「あら心外ね。私だって人間だもの。ボーっとしたり、それに授業中に居眠りもするのよ」

「えー、意外。凜って授業中はいつもシュッとしてるイメージあるから」

「それはそういう風に振舞ってるからね。これでも一応、黒条のお嬢様だから、私」

嫌味に感じない程度に、冗談っぽく微笑む凜は、やっぱり同性の私から見ても素敵だった。

と、本題から脱線していることに気づき、ひとまず宙に浮かせた本を机の上にそっと下ろす。

無意識に殻を発動した時とは違い、意識的に持ち上げた物体を降ろすという作業は、見た目以上の細かな技術が必用で、私の額にはジワリと珠のような汗が吹き出していた。

すぐ側で見守る凜の「頑張って」という無言のエールを無駄にするものか、と普段の消極性を押しのけて、どうにか私は浮かせた本全てを机の上に降ろすことに成功した。

「魔法って、こんなに疲れるんだね‥‥‥」

 こんな事なら普段からもう少し体力づくりをしておくんだったなと後悔していると、背中にぽんと労うように凜の手が置かれた。

 「慣れちゃえばそうでもないわよ。私も最初の頃はすごく疲れたし、華だって使っているうちに体が慣れてくるはずよ」

 「そ、そっか、ならいいんだけど‥‥‥。この調子でいけば私も、凜みたいに空を飛べるようになるかな?」

 「うーん、そっちは無理しない方がいいかな。上空で集中力が切れて落ちたら、魔法使いだろうと助からないから、飛行訓練はもう少し体を魔法に慣らしてからの方がいいわね」

 「分かった。今度は自分の力で空を飛べるようになったら、また一緒に雲の上から星を見ようね」

 「ええ、約束よ」

 緩く握られた拳。小指だけを軽く折り曲げ、指切りの形にしながら突き出してくる。その意味を直ぐに理解すると、私も凛に倣い、そのままお互いの指を引っ掛け合う。

 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます、指切った」

 小さな子供同士が交わす約束の定番歌を陽気に歌い切り、お互いの指を離した。指先に残る凜の仄かな温もりを味わうように、自分の小指を宝物のようにそっと胸に抑えつける。

 「ねぇ、指切りの由来って知ってる?」

 「えぇっと‥‥‥、約束を破ったら駄目っていう言いつけ、とか?」

 何となく口にした答えに、凜はふるふると頭を振る。同じように先ほどまで絡め合った指先へ、慈しむような眼差しを注ぎながら口を開いた。

 「昔、遊女たちが、意中の相手に自分の小指の第一関節から先を斬り落として渡したのが由来みたい」

 想像以上にショッキングな理由に、意図せず頬が引き攣る。

 「へ、へぇ~‥‥‥痛そうだね、それ‥‥‥」

 「うん。すごく痛いと思うよ。でも、そうまでして指を切ったのも、それだけ相手のことを愛していたからなんだ」

 凜なら、小指くらいなら平気で斬り落としそうな気がする。

 「私の小指、欲しい?」

 まるで私の心の声に応じるような、不意打ち気味の台詞に私は思わずギョッと眼を瞠った。

 「え⁉ ‥‥‥いや、いらな‥‥‥別に凜のだから欲しくないってわけじゃ、いや別に変な意味でっていうか、嫌いだからとかじゃなくて、えぇっと、その‥‥‥」

 何と答えたらいいか解らず、変に口籠っていると、凜がくつくつと忍び笑いを洩らした。

 「フフッ、冗談よ。ホントに華って、からかい甲斐があるわよね」

 「ひ、ひどいよ~‥‥‥」

 「心配しないで。私だって痛いのは嫌いだから指はあげられない」

 そのひと言にホッと安堵の息を洩らすと、その一瞬の間隙を狙いすましたかのように、

 「でも、華にだったらあげてもいいかな」

 「ッッッ‼」

 「ハハハッ、冗談だよ、冗談」

 クツクツと身体をくの字に折って笑う凜は、私が「もうっ!」と憤慨しようが気にした様子もなかった。未だ目尻に薄っすらと涙の粒を浮かべながら、

 「でもね、本当に指を切り落とす人はほとんどいなかったみたい。だからその代わりに、新しく生えてくる爪や髪を切って、相手に渡していたみたいね」

 「‥‥‥爪や、髪‥‥‥」

 我知らずボソリと呟き、しばらく逡巡する。

頭がおかしいと思われるかもと危惧しながらも、意を決して口を開く。

「ね、ねぇ、凜。もしよかったら‥‥‥なんだけど、凜の髪を一本私にくれないかな」

 「髪を? 一体どうするつもり?」

 「そ、その‥‥‥笑わないで訊いてくれる?」

 窺うように俯けた顔をわずかに持ち上げた私の顔は今、きっと林檎のように紅潮しているだろう。それでも‥‥‥。

 「笑わないよ、それで?」

 「約束を守れるように、凜の髪を指に巻いておきたいの」

 恐る恐る口にした言葉に、さしもの凜も数瞬、唖然と目を丸くして固まっていた。

 やっぱり気持ち悪かったか、と不安の波が胸の内に押し寄せてくる。やっぱり今の無しで、という寸前。それより僅かに早く、クスッと口元を綻ばせた凜は「いいよ」と了承してくれた。

 「でも、ひとつ条件がある」

 「条件?」

 「私にも、華の髪を一本ちょうだい。それなら私の髪をあげるわ」

 「え、私の髪? それにこれは、私が空を飛べるようになるまでの約束であって、凜が私の髪を指に巻くのは何の意味もないような気が‥‥‥」

 「ううん、そんなことないよ。私だって華を自由に飛べるようにするんだから、それまでは私も条件は同じでありたいもの」

 「‥‥‥‥判った。凜がそう言うなら」

 その答えに満足そうに凜は微笑むと、艶やかな銀色の髪の毛を一本引き抜く。遅れて私も、癖の強い自分の栗色の髪を一本引き抜き、それぞれ交換しあう。光にかざすと透けて見えなくなってしまいそうな銀の髪を私は小指のつけ根に巻き付けた。向かい側の凜も同じように右の小指に、私の髪を巻きつけ、それが終わると私たちは顔を見合わせ、少しぎこちなく微笑み合った。

 「へへっ、何だか照れるね、こういうの‥‥‥」

 「そうかしら? 私は好きよこういうの。私たち二人だけの絆みたいで」

 「絆か‥‥‥。いいね、それ」

 照れ笑いを浮かべる私の頬を、ひんやりと冷たい指先が撫でた。

 「‥‥‥凜、何で、泣いてるの?」

 そう言われて初めて凜は、自分の眼から零れ落ちる涙滴に気付いたらしく、慌てて手の甲で拭うと、少しだけ顔を伏せながら、ボソリと口を開いた。

 「ねぇ、華は、私がどんなに人間でも、側にいてくれる?」

 「それって、どういう‥‥‥? それに凜、何だか変だよ、もしかして体調でも悪いの?」

 先ほどまでとは一転して、凜の只ならぬ様子が心配になり、労わるように手を伸ばすと、凜はサッと身を引いてしまう。中途半端に腕を伸ばした形で固まっていると、これまで聞いたことのないような弱々しい声音でボソリと呟かれた。

 「お願い、答えて」

 そう口にした凜の肩は細かく震えていた。まるで何かに怯えるかのように。

 孤高の白雪姫。と揶揄される普段の彼女からは、想像もできない、触れれば粉々に砕け散ってしまいそうな姿に、心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚える。

 「側に、いるよ」

 「本当に?」

 「うん、約束する。私が凜を独りぼっちにはしない。―――絶対に!」

 そう口にしながらも、私は凜へ手を差し伸べることが出来なかった。本当は凜が私へしてくれたように、その小さな硝子細工のように儚く思える体を、力の限り抱きしめてあげたい。

でも、今、そうするのは、何だか違うように思えて、私は視線を黒いレギンスに覆われた凛の膝頭に縫い付けたまま、それ以上一歩も動けなかった。

 「‥‥‥そっか、ありがとう。華がいてくれるなら、私は、私自身であり続けられる」

 凜の言わんとする言葉の真意がまるで読めない。

銀の髪が巻かれた右手を左手できつく握り締めていると、おもむろに凜が立ち上がった。

 「ごめんね、変な空気にしちゃって‥‥‥。お茶淹れ直してくるね。ちょっと待ってて」

 「‥‥‥‥‥」凜、と名前を呼ぼうとしたが、喉が震えてしまい声にならなかった。

 バタン、と部屋の扉が閉まる音が、一人きりになった部屋の中に虚しく響いた。

 何と声をかけるのが、正解だったんだろう‥‥‥。

 しばらく考えてみたが、結局何も思い浮かばなかった。

 チラリと、凜の出て行った扉を見やる。きっと今、向こう側で凜は泣いている。それくらいは私にだって解る。春休みほとんど一緒にいる友達なんて、これまでの人生で一人もいなかった。だから、という訳ではないが、凜の気持ちというか、心のようなものを感じられる。

勿論、傲慢な考え、思い違いである可能性は高い。

だけど―――あの日、凜と一緒に星を見て以来、私の中で、黒条 凜という存在は、両親以外で初めて心の底から解り合えた存在になっていた。

 「だめだ、だめだ。せめて凜が戻ってきた時までに、さっきのことを引きずらないようにしないと」

 ヨシッ! 無言の気合を胸中で呟き、とりあえず魔法の練習で使った本を本棚にしまっておこうと思い、立ち上がった。

 「よっと、やっぱり重いな、これ」

 凜が収集している本の大半は掌サイズの文庫本だが、今回、練習用に使ったのは数冊重ね合わせればズシリと重さのある古いハードカバーの本ばかりだ。毎日、練習に使っているだけあって、収納する位置も覚えてしまった。十数秒で全ての本を片付け終わり、一息ついた時、綺麗に並べられた本の隙間から何やら小さな切れ端が飛び出していることに気づく。

 ほとんど意識することなく、その切れ端を摘まみ、引っ張り出した。

それは一枚の写真だった。

 「これって‥‥‥」

 そこに写っているのは、父と母、そして小さな黒髪の少女の三人。その内の二人、両親と思しき男性と女性には見覚えはない。と、そこで私はあることに気づいた。 

 「これって、凜?」

 そこに映る少女が、凜だとすぐには解らなかった。

 御伽話に登場してくるような可憐な容姿をした少女には確かに凜の面影がある。

だが、その髪と瞳の色は、私の知る銀髪銀瞳の少女とは大きく異なっている。以前に、それとなく訊いてみたことがある。凜のその髪は地毛なのか、と。

 そして返ってきた答えは、「そうだよ、気付いたらこうなってたの」だった。

 私はその言葉を、生まれた時からそうだったのだと解釈していた。その理由も、楠女学院で孤高の白雪姫と揶揄される凜の浮世離れした美貌に対して周囲は、遠い血縁者または親族間に外国の血筋が流れているから、というものだった。勿論、この話には確たる証拠もない単なる噂に過ぎないのだが、私の意識にすっかり刷り込まれていたようだ。

 でも、それならどうして、黒かった髪と瞳が、今の処女雪のように白い髪と瞳へと変色するのだろうか?

 その時――――ガチャリと、部屋の扉が開いた。銀のトレーに新しい紅茶を淹れてもってきてくれた凜が、手に写真を持ちながら固まる私へ、「それ、見たの?」と訊ねてくる。

 ここで「うん、見たよ」や「今とずいぶん雰囲気違うね」などと答えられれば良かったのだが、生憎とそこまでの胆力と機転は持ち合わせていなかった。

おろおろと狼狽えた結果、「何も、見て、ないよ」とあからさまな嘘が口を衝いて出た。

 当然、そんな嘘を見抜けない凜ではない。

慌てふためく私の様子に、クスッと微笑をうかべ、無言でさきほどまで本が山積していた机の上にトレーを置くと、足音を立てずに私の元へ近づき、手に持ったソレを私と肩をくっつけるようにしながら覗き見た。

 「今とずいぶん違うでしょ」

 どう答えていいものか解らず、たっぷりと数秒ほど口を噤んでから、

 「う、うん。‥‥‥でもこれって、何かの合成写真とかじゃないよね?」

 「うん。本物。この日は珍しく、父さんと母さん仕事が休みだったから記念撮影でもいかないかって。言われてね」

 「休みが重なったから記念撮影って、何だかそれだけでも凄いよね」

 「だって、この日はたしか‥‥‥私の十一の誕生日だったかな‥‥‥」

 この時の凜、十一歳なんだ。可愛い。

 「ちなみに、凜の誕生日って、いつなの?」

 「え? 私は八月二十四日だよ」

 「じゃあ、あと半年もないんだね」

 「この写真を見たら遅かれ早かれ気付くと思うんだけど‥‥‥。ううん、本当は初めて会ったあの日にちゃんと言っておくべきだった‥‥‥」

 言葉を切り、コチラへ向き直った凜は、銀色の瞳に真剣な色を浮かべ厳かに魔法使いの真実を口にした。

 「花の魔法(この力)には、実は重大な欠点があるの。それはね――――」

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