第13話

 六月某日。

 SNSを中心に、ある噂が実しやかに囁かれていた。

 

 目撃者 R大二年(二十歳)の談。

 あの日、僕は交通事故で意識不明になっている五つ上の兄貴の見舞いに行きました。

 ずっと眠ったきりで、この先も意識を取り戻すことはないだろうって言われていましたから、家族ですら、兄貴が眼を覚ますことはないって諦めていたんです。

 それでも僕はどうしても諦めきれなかった。

 だって、兄貴が事故に遭ったのは、僕を庇ったせいなんですから。

当時、小学三年生だった僕にとって五つと年上の兄貴は大人みたいで、その後ろをずっとついて回るような子供だったんです。

 え? そろそろ本題に入ってくれって? ハハッ、すみません。長々と前置きしすぎちゃいましたね。それじゃあ話します。それで、兄貴の見舞いに行く途中でした。病院に入る寸前、ふと空を見上げたんですよ。その時でした、何か、物凄い速さで飛んでいったんです。僕は一瞬、鳥が通り過ぎたんだろうって思いその後を眼で追ってみると、どうにも鳥じゃなかった。

 じゃあ何だったかって聞かれると、僕はこう答えると思います。あれは、人間だって。

 あ、アナタ今の話信じていないでしょう!

でも本当なんです。僕は確かに見たんだ。

あれは間違いなく、鳥だとか、強すぎる日差しのせいで見た幻影なんかじゃなかったって。

 しばらく唖然とその場に立ち尽くしていましたよ。周りの人は誰も気づいた様子がありませんでしたから、だから直ぐにはそれが本物だとは思えなかった。

その時でした、突然、母から連絡がきたのは。

 なんでも病院から連絡があって、寝たきりだった兄貴の意識が回復したっていうんですよ。

 そのあとの事はよく覚えていませんね。気付いたら、兄貴が眠っている病室に駆け込んでいました。ベッドの上で起き上がっている兄貴が僕を見て、名前を呼んだんです。

 これまで生きてきた中で、初めて奇跡ってあるんだなって思いましたよ。だって、どんな医者だって匙を投げだして、一生目覚めないって言われてたんですから。

 数日が経って、長い間眠っていたせいで生じる記憶の混濁から兄貴が徐々に回復してきて頃に、訊いてみたんです。どうして目が覚めたんだろうか、ってね。

 そしたら兄貴は、こう言いました。

 底のない暗闇に沈んでいると空から一本の光が差し込んできた。優しくて暖かな、起きてって言われてるような気がしたって。そして視界が白く塗りつぶされて、気付いたら目を覚ましていたそうです。

 何だか御伽話、いやマンガとかフィクションの中でしか聞いたことのないようなことでしたけど、僕なんだか妙に納得しちゃって。あの日、僕が見た何かはひょっとしたら天使だとか、神の使いみたいなものだったんじゃないかって―――。


 目撃者 専業主婦(三十三歳)の談。

 二年前に旦那が病気で亡くなってから、私、女手一つで娘を育ててきました。

 だから、私みたいにお金で苦労してほしくなくて、少しでも有名な進学校に入れたかったんです。塾とか、いろんな習い事にも参加させました。娘もそれを喜んでいたし、私も日々、娘が成長していく姿に、たくさんのモノをもらっていました。

 そんな時でした、仕事中に娘が通う塾から娘が突然血を吐いて倒れたと報せが入ったのは。急いで娘が搬送された病院に駆け込みました。そこで娘の回りに見たことも無いような大仰な機械や透明な管が並べられていて、しばらく呆然としていた私に先生が言葉少なに、ひどく云い難そうに言ったんです。

 娘の命はもってあと半年だと。一瞬、何を言われているのか判りませんでしたよ。耳の奥でキーンって耳鳴りがずっとなっていた事だけは覚えていますけど。

 娘は助からない。だけど、延命させることなら出来るって言われて、でもそれには莫大なお金が必用だったんです。どれだけ親類縁者や知り合い、保険や母子家庭に支払われる補助金を足してもとうてい払い続けられる額ではありません。どんなに手を尽くしても娘は助からない、だったら周りに迷惑をかけずに、最後は静かに終わらせてあげたいと思いました。でも、そんな思いとは裏腹に、どうにかして娘が助かる方法はないかって探したんです。 

 当然、医者ですら無理だと言い切る状態でしたから、素人の私には何も出来ませんでしたよ。最後に縋ったのは、職場のバイトの子たちが話していたSNSでした。 

 アナタも知ってるでしょ。ええ、そうそう、これですよコレ。

 『どんな病気、怪我でも治します。お礼は不要です。治してほしい人のいる住所と名前を、教えていただくだけで構いません。』

そんな誰が書いたのかも解らない言葉に私は、藁にも縋る思いで頼りました。

 気が付けば、搬送された病院名と、娘の名前を書き込んでいました。

 それから数日後に、先生から告げられたんです。娘の病気が完治したって。

 すぐには信じられませんでしたよ。先生の言う通り、娘は日に日に衰弱していましたし、最悪の覚悟はしていましたから。でも、まさか本当に娘の病気が治るなんて思わないじゃないですか。でも、娘と前みたいに笑いながらしゃべっている時にふと気付いたんです。これは偶然じゃない。誰かが意図して、ううん‥‥あのSNS。そこに書かれた娘を誰かが救ってくれたんだって。その人が誰なのかは解りませんけど、ちゃんとお礼を言いたいです。

私に残された最後の希望を守ってくれてありがとうって、それには相手の名前が必用ですから、今、SNSで囁かれている仇名を使わせてもらいますね。

 大切な娘を救っていただき、心から感謝しています―――『奇跡の使者』様。

 


 「ねぇ、凜、ちょっとこれ見て」

 駅のホーム。等間隔に並べられたベンチの一つに腰掛けながら隣に座る親友の陶器のように白い太腿にスマホの画面が見えるように置いた。

 画面には幾つかのニュースが映し出されていた。

 その一番上に書かれているのは、近頃、都内で立て続けに発生している集団自死事件についてだ。一瞬、凜の瞳が大きく見開かれたような気がしたが、私はその事について言及することなく画面に指を這わせると下へスライドさせた。

 そこには誰かがSNSへ投稿した短い動画が映し出されていた。

トンッと再生ボタンをタップ。短い読み込みが終わり、広い公園を元気いっぱいに走りまわる少女が映し出された。短い動画が終わり、スイッと画面に触れる。

動画の上に書かれた長い文字。『数週間前まで余命半年を宣告された娘の奇跡の復活劇』。

 まるで少し前にテレビでやっていたようなヒューマンドラマみたいなタイトルだな、などと関係のない考えが脳裏を過った。

 さらに画面を下げるとコメント欄には――――

 感動した。

 いいハナシ。

 何の広告?

 新手の詐欺か?

 などと様々な感想が呟かれている。

  でも、私たち二人は、ここに書かれていることが真実であることを知っていた。

 「これって、この前のあの子だよね?」

 「ええ、そうよ。アナタが救ったね」

 「えへへっ、何だか今でも信じられないよ。私たちが『奇跡の使者』だなんて」

 「フフッ、もっと誇ってもいいくらいよ。アナタは誰にも出来ないことをやった。それにね、『奇跡の使者』は私たちじゃなくてアナタ一人の力よ」

 「そ、そんなことないよ! 凜がSNSで情報を拡散してくれたから、あの子だって助けることが出来たんだよ!」

 「ううん、あれくらい時間さえあれば誰だって思いつくわ」

 そんなことない! と言いかけ口を噤んだ。

これ以上否定を続けても、かえって凜に対して失礼になる気がした。

 「それにしても、華がこの魔法に気付いてから二ヵ月。これでどれくらい救えたのかしら?」

 「‥‥‥多分、五十人くらいかな」

 即答しては自慢してると勘違いされそうだったので、間を空けてボソリと弱々しく呟く。


 二か月前―――。

 車に撥ねられ瀕死の猫を救った翌日、凜にその時に起きたあらまし全て話した。

 魔法を無事に発動できたこと、順番こそ前後したが物を浮かせる以外のことが出来たことを。

 そして、あわよくば凜に褒めてもらいたいという、邪な思惑もないわけではなかったのだが。

 ともかく私は、新たな魔法『治癒』について凜からもっと詳しく話を聞こうとした。

 が、話を聴き終えた凜の反応は、私が期待していたモノとは違っていた。

 目を見開き、口元を右手で覆った凜は、そのまましばらく何やら考えごとを始めた。

 「り、凜‥‥‥? どうかしたの?」

 「‥‥‥華‥‥‥あのね、アナタが使った魔法を、私は使えないの」

 「え?」

 魔法について誰より精通している凜の思わぬ発言に、私は何も言えずに固まってしまう。

「これは、アナタが魔法の力をもっと操れるようになってから話そうと思っていたんだけど、私たちが使う魔法はね、基本的には出来ないことは何もない。だけど、使い手はそうじゃないの。‥‥‥魔法との、相性といえばいいのかしら」

 「魔法との相性?」

 「そう。華はどうして人が右利きと左利きに別れるか知ってる?」

 「え~っと、確か母体の中で咥えていた指が関係してるから、だっけ?」

 「そういう説もあるわね。利き手の原因は諸説あるけれど、私は幼少期に過ごしてきた環境だと思うの。どんな場所で育ったのか、どんな教育を受けてきたのか、どんな親だったか、それによって人間を形作っている魂の八割以上が形成されると唱える学者もいるくらい。ごめんなさい、少し脱線したわね。つまり、魔法にもその人の個性が色濃く反映されるってことなの」

 「じゃあ、魔法にも個人差が、得意不得意があるってこと?」

 その答えに、凜は満足そうに柔らかく口元を綻ばせ、

 「その通りよ。傷を癒す、壊れた物を直す、瀕死の猫を助ける、これって私が一番苦手な分野なの。ほとんど使えないと言っていいわね。反対に華は、私が得意な魔法を使えないと思う。私とアナタの二人だけだから確認する術はないけれど、おそらく間違いないわ。前にも、色々と魔法を試したけれど出来ることと出来ないことがあったから」

 「私だけの、魔法」

 これまで他の人より優れているコトなんて何もないと思っていた。

成績も、運動も、よくて中の上。容姿だってとりわけ優れているわけじゃない。かといって眼を背けたくなるような不細工でもない。あくまでも平均の少し下側の何処にでもいる普通の女子高生。

それが私自身のセルフイメージだ。でも、そんな私が、凜と二人しかいない魔法使いとはいえ、唯一無二の長所を持っているなんてすぐには信じられなかった。

 とくん、とくん、心臓の鼓動がやけによく聞こえる。馴染みのない心臓の音。これが何なのか上手く言葉にできないけれど、その時、たぶん、高揚していたんだと思う。

 誰にも出来なことをやり遂げたという自信が、これまで感じたことのない熱い思いとなって私の胸の内側をチリチリと焼き焦がした。

 柄にもなく強く握り締めた拳を胸に押し当てながら、しばらく心臓の音の余韻に浸り続けた。

 そんな私の様子に、凜はクスリと微笑し、

 「アナタは人としても、魔法使いとしても尊敬に値するわ」

 親友からの大げさすぎる賛辞に、眼の奥がカッと熱くなる。

 「ありがとう、凜。‥‥‥私‥‥こんな気持ち、初めてで‥‥‥どうしたらいいか‥‥‥」

 「そんな時はね、頑張った自分をめいいっぱい褒めてあげるの。そうしなきゃ、あなた自身に対しても失礼だわ」

 自分自身に対して失礼。その言葉は、他人の幸せこそを第一に考える私にとって、これまでの価値観を根底から揺るがすひと言だった。

 と、そこで私はある疑問を抱き、ちゃんと考えをまとめる前に訊ねた。

 「じゃあ、凜の得意な魔法ってどういう魔法なの?」

 その言葉に、凜は一瞬だけ考えるような素振りを示すと、最後には観念したように小さく肩を竦めてみせた。

 「私が得意な魔法はね―――」

 言葉を切り、スッと広げた掌を向けてくる。

「華、携帯持ってる?」

 「え? 持ってるけど」

 言われるがままに、私はバッグからスマホを取り出す。

 「じゃあ、そのまま何もしないで持ってて」

 「‥‥‥‥‥?」

 途端、凜の体を淡い青色の光彩が包み込む。普通の人には視認することも出来ない殻が、凜の全身を余すことなく包み込んでいく。これから一体何をするのかと訝しんでいると、そっと長い銀色の睫毛が伏せられた。そのまま数秒、沈黙が室内に満ちる。

 「‥‥‥凜、いったい何を‥‥‥」と言いかけた所で、ブブッ、ブブッ、と携帯が 鳴動したのはほとんど同時だった。

 一年生の春からスマホを持つようになったけれど、凜と出会うまで友達がいなかったため、連絡先は義妹の亜香里姉さんと、つい最近まで、小間使い扱いされていた木村さんとその取り巻き数名のみだった。多忙な姉さんからの連絡もほとんどない。あるとすれば、私を苛めていた人たちからで、こうして携帯が鳴ることは私にとっての凶兆を意味していた。

 おそるおそるスマホに視線を落とすと、そこには見覚えのない非通知番号が表示されていた。

 「いいわよ、電話に出て」と凜から促された。

 「う、うん」と首を縮めて着信ボタンをスライドする。

 「‥‥‥も、もしもし?」

 「フフッ、だ~れだ」

 「え? その声って‥‥‥⁉」

 銀凛の鈴の音のような声音。一度訊けば忘れられないこの声は―――。

 「凜⁉」

 スマホと、眼前の凜へ順繰りに視線を行き交わせていると、薄っすらと瞼を持ち上げた凜が、桜色の唇の端を吊り上げる。

 「そうよ、驚いた?」

 「―――――ッ⁉」

 慌ててスマホを見やる。次いで、凜の口元。

 「ど、どうして⁉ 声は間違いなくスマホから聞こえてくるのに、凜の口、何も動いてない」

 慌てふためく私の様子に、凜は耐えきれないとばかりにクスクスと笑みを零す。

 「これが私の得意な魔法よ。あらゆる電子機器を意のままに操ることが出来るの」

 「電子機器を操る?」

 コクリと首肯し、同時に凜を覆っていた殻が紙吹雪のように宙に溶けながら、霧散した。 

 「そう。さっきまでは私の意識の断片を、大気中を飛び交う電波に無理やり流し込んで回線を繋げていたの」

 意識の断片を回線に繋いだ⁉ という叫びは、声にはならず唖然と口が半開きになった形で固まってしまう。

 「だから凜は携帯を持ってないの?」

 「そうよ。携帯なんかなくても、私はいつでも好きな時に、どんな場所にでも意識を向けることができる。もちろん、一度に処理できる速度には限界があるけれど、たぶんどんなスーパーコンピュータよりも早く動けるはずよ」

 「でも、どうして‥‥‥あの時、手紙だったの?」

 それは凜の家へ初めて向かった時。携帯を持っていないからという理由で、自宅の住所と簡略的な地図が書かれたメモを手渡された。そのせい、というより私の無知と方向音痴のせいも手伝って、凜の住む高層マンションにたどり着くまで多大な肉体的、精神的労力を費やすハメになったのだ。

 訊ねられた凜は、少しだけ困ったように微苦笑し、

 「あの時はまだ、華に殻以外の魔法を教えたくなかったの。あまり多くの魔法を知りすぎると、もっと他の魔法も試してみたくなっちゃうから。そういう知的好奇心で、私たちの体にどんな弊害がもたらされるかは、前に話したから、解るよね?」

 「‥‥‥ッ‼」

 凜の言う通りだ。最初から、自分自身を覆う殻以外の魔法を教えられていたら、そして忠告されていなければ、私はきっと無暗に魔法を使って、ゆっくりと、しかし確実に破滅への道を歩んでいたことだろう。そうやって思慮に欠ける行動に出ることを懸念しての、凜のやり方に、胸の奥が先程までと異なる熱でキュッと締め付けられた。

 「ごめん、気にかけてくれて。それとありがとう。やっぱり凜はすごいね。私だったらそんな所まで気が回らないよ」

 「でも、こうして華は自分自身で魔法の可能性に気付いちゃったから、効果はあまりなかったみたいね」

 「そ、それは‥‥‥そうだよね。ごめん‥‥‥」

 シュンと項垂れる私へ、凜が慌ててフォローを入れる。

 「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないから。気にしないで」

 「‥‥‥‥‥‥」

 「どうかしたの?」

 「‥‥‥凜、あのね、私この力に気付いてから、色々と考えたの。この力があれば、大勢の人を救うことが出来るんじゃないかって」

 「駄目よ」

 反論を許さぬ冷然とした否定に、私は一瞬気圧されてしまう。

 「アナタの事だから、こういうつもりね? その癒しの魔法で、怪我を負った人や、病気の人を助けたいって。でもね、それは偽善だわ。誰かを救うために、自分を犠牲にするようなやり方は、絶対に間違ってる。それに言ったでしょ? 私たちは―――」

 「―――それでも!」

 理路整然とした凜の台詞を、私は自分でも驚くほどの大声で遮っていた。

 「あっ、いや‥‥‥その、何って言うか‥‥‥、もう嫌なの‥‥‥」

 「何が?」

 先ほどまでの柔和な雰囲気から一転。これ以上の反論は一切聞き入れないという、凜のゾッとするほど冷たい声音。その重圧に怯みかけるが、どうにか耐えきった。

 「この力があれば、父さんと母さんは、あの時、死なずに済んだ。二人がいなくなってから、私、空っぽだったの。何も心に響かなくて、無気力になっちゃって‥‥‥だからね、もう誰にもあんな思いをさせたくない。その為なら‥‥‥私‥‥‥」

 呟きが部屋の中に低くこだまし、やがて「ハァー…」と呆れるような溜息が凜の口から零れた。馬鹿なことを言っている自覚はある。失望されたかもしれない。もう友達じゃいられなくなるかも‥‥‥。

脳裏に間断なくネガティブな思考が過る。

 しかし、次に凜の口から発せられた言葉は、私が思い描くモノとは違っていた。

 「仕方ないわね、本当は絶対にさせたくないのだけれど‥‥‥。アナタ一人じゃ心配だから、私も手伝うわ」 

 「え⁉ いいの?」

 「ええ」と首肯する白皙の少女。

一瞬、気が抜けかけたタイミングで、ビシッと細い指先が眼前に突き出された。

 「ただし、幾つか条件がある。一つ目は、無理をしないこと。他人を助けるのもいいけれど、まずは自分の体を大切にする。次に二つ目は、使う相手は選ぶこと。この力の存在が世間に知られればきっと大変なことになる。それどころか、魔法の力を解析しようとして、モルモットにされるかもしれないから、使う時と場所、それに相手は慎重に選ぶこと。それが出来ないのなら―――」

 「それでいいよ、やらせて!」

 「う‥‥‥ッ!」

 孤高の白雪姫と仇名される凜を、仰け反らせるほどに顔を肉薄させると、凜は最後にもう一度だけ小さく溜息をつき、私の頬に愛おしそうに指を這わせるのだった。


 「あれから、もう二ヵ月かぁ‥‥‥。何だかあっという間だったね」

 この二ヵ月を振り返りながら、私は空を見上げた。

季節は六月。そろそろ梅雨入りの時期だ。制服も冬服から夏服へと移行していた。

空はどんよりとした曇り空。不快指数もここ数日で一気に上昇したように思う。こうして駅のベンチに腰掛けているだけで額には薄っすらと汗が滲んでくる。

 チラリと隣に座る凜の肌を覗き見る。日本人離れした銀色の髪をした親友の顔からはわずかにも暑さを感じられなかった。

 「そうね。たった二ヵ月の間に世間から『奇跡の使者』だなんって大袈裟な名前で呼ばれるようになるなんって、華からこの話を持ち掛けられた時は考えもしなかったわ」

 「そ、そんな、私はただ必死だっただけで‥‥‥」

 最初はただの思い付きだった。あの日、瀕死の黒猫を救ったとき、私の中にそれまで感じたことのない感情が芽生えた。七年前の事故で死ぬべきだったのは私自身だったのではないか?

 誰の役にも立てず、存在そのものが迷惑でしかない私なんかが生きていてもしょうがない、と。

 でも、猫を救ったあの瞬間、気付いた。

 これこそがあの日、両親の代わりに生き永らえた私に与えられた使命なのだと。

 そして凜に全てを打ち明け、相談の末に、私たちは行動に移った。

 まず初めに、都内にある大きな病院へと向かった。そこで魔法の力を必要とする患者。凜曰く、魔法を受けるに値する人間の選別を始めた。私は誰でも分け隔てなく治療したかったのだが、それは凜に相談を持ち掛けた際に提示された条件の一つなので、従う他になかった。

 一人目に選んだのは、血液の病気によって余命わずかと診断された将来を有望視されていたアスリートだった。魔法の発動には、殻の内側に対象者を入れなくてはならない。そこで凜の魔法で深夜の病院が寝静まった頃を見計らい、防犯カメラやセキュリティー装置を一時的に解除。ベッドの上で小さな寝息を立てる少女に治癒を施した。

 ものの数秒で治癒は終了し、巡回している警備員や看護師たちの目を盗んで病院を後にした。その翌日、成果を確認するべく病院へと赴き、そこで魔法によって少女の病が無事に完治したことを知った。

 喜びに打ち震える私とは対照的に凜はあくまでも冷静だった。このことをすぐさまSNS上で拡散させる。もちろん、私たち個人の携帯やアカウントを使えば足がつくので、そこもサーバーに侵入した凜によって上手く隠蔽することが出来た。こうしてその後も私たちは、密かに活動を続け、その数週間後には、ネットで噂を聞きつけた一部の人たちから、奇跡を運ぶ神の使い『奇跡の使者』と揶揄されるようになっていた。大仰すぎる仇名ではあるが、私はそれまでの行いが大勢の人たちに認知され、肯定されたことがたまらなく嬉しかった。

 「まだ慣れないな。私が誰かの命を救ってるだなんて‥‥‥」

 「そんなことないわよ。華のやっていることは誰にも真似できない唯一無二の善行だわ」

 力強く言い切る親友は、柔らかい表情とは別に真剣さの増した眼差しと共に続けた。

 「この力をアナタ以外の人が手にしても、華みたいに他人のために使おうとする人なんて誰もいなかったはずよ。皆、自分の利益のためにこの力を使って、少しでも他者を出し抜こうとするはず。だからね、華のやっていることは誰にも真似のできない立派な行いだわ。まるで現代のジャンヌダルクね」

 最後は、悪戯っぽい笑みを浮かべる凜へ「もう、からかわないでよ」と頬を膨らませて抗議する。

 「ねぇ、華はこのまま奇跡の使者として活動を続ける気?」

 「え? ‥‥‥うん、そのつもりだけど‥‥‥」

 「そっか」

 「何で、そんな事を訊くの?」

 依然と凜の表情は柔らかい、しかし先程の返答を受けた一瞬、勘違いかもしれないが、凜の表情が翳ったような気がした。

 「華のやってる事は確かに誰にも出来ない尊い行いよ。だけどね、前にも言ったと思うけど、私たちのやっている事は単なる偽善でしかない。他者のために自分自身の身を削るような行いは、生物として間違っているもの‥‥‥。それにこんなことを続けていれば、今は私たちのことを支持してくてる人たちも、いずれは不信感を抱き、畏れられ、私たちを排斥しようとしてくるかもしれない。そうなったら、私たちは、いや‥‥私は、今度こそ本当に‥‥‥」

 硝子のような双眸をいっぱいに見開きながら、訥々と語る凜の異変に、背筋にゾクリとした悪寒が走った。

 「‥‥‥り、凜、大丈夫?」

 「―――ッ‼」

 ハッ、とした様子の凜は、ゆっくりと俯けていた顔を持ち上げ、顔色はいつもの雪のような白から、血の気が引き青ざめた顔色をしていた。

 「私‥‥‥また‥‥‥」

 「凜、どこか具合でも悪いの? ひょっとして魔法を使いすぎたの?」

 という心配の声を、凜はフルフルと頭を振って否定する。 

 「ごめん、変なこと言っちゃって。近頃、頭がボーッとする時があって‥‥‥。さっきのは忘れて、やっぱり疲れが溜まってるみたい。ごめん、今日の活動は休ませてもらえない?」

 「それは、大丈夫だけど」

 本当に大丈夫なのか、という言葉を呑み込み、口籠っていたとタイミングで無人だったホームに電車が入ってきた。元々、私と凜は帰り道が異なるため、奉仕活動を休業するのなら今日はここでお別れという事になる。

 ヨロヨロとまだ足元が覚束ない凜は、私の心配する声にも大丈夫と答え、そのまま電車へと乗り込んでしまう。

 「それじゃあ、また明日学校でね」

 「‥‥‥う、うん。凜、無理はしないでね」

プシューと、炭酸の抜けるような音とともに扉が閉まる。ゆっくりと流れていく車輛。その窓越しの凜は、最後まで振り向くことはなかった。

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