第9話

 春休み初日。

 丁寧な筆跡で書かれたメモを宝物のように握り締めて、そこに書かれた道順をひとつひとつ確認しながら約束の場所へと向かっていた。

 義姉と暮らすアパートから電車とバスを乗り継いで二○分。

 たどり着いたのは高層ビル―――ではなく、高層マンションだった。

 「た、高い‥‥‥」

 見上げているだけでうなじの辺りがチクチクと痛む。

 メモによれば、約束の場所―――凜の自宅は、この高層マンションの四十九階。つまりは最上階だという。エントランスから出てくる高そうなスーツを身に纏う大人や、モデルのように綺麗な女性。一介の女子高生が足を踏み入れていい場所ではない。これまでにも透明になれたらいいのにと思ったことは何度もあったが、今こそ 切実に願ったことはない気がする。

 出てくる人とすれ違うたびに、「何、あれ?」「あんな貧相なガキが来る場所じゃないぞ」と咎められているような気がして委縮してしまう。出来る限り目立たないように顔を伏せながら、メモを持つ手とは反対側の手で握っているお気に入りのケーキ屋のクッキーが入った袋を胸で抱きしめながら、そそくさと中へと足を踏み入れた。

 直後、私は凍り付いた。

 「と、扉が、開かない?」

 一向に開く気配のない自動ドアを前に呆然と立ち尽くしてしまう。

 「ええっと、どうしたら‥‥‥。そうだ! 凜に電話を‥‥‥!」

 と、スマホに手を伸ばしかけた所で、ピタリと動きを止めた。

 「そうだった、凜。携帯持ってなかったんだ‥‥‥」

 信じられないことに、凜はスマホを持っていない。

そのため春休みに入る直前に、凜から「よかったら、家にこない?」と誘われ、二つ返事で了解の旨を伝えると、一枚のメモを手渡されたのだ。

 「ど、どうしたら‥‥‥」と辺りをキョロキョロと見回していると、白い大理石の壁に操作盤が埋め込まれていることに気づいた。恐る恐る、操作盤のほうへと近づき、メモに書かれた部屋の番号と、最後に呼出ボタンを押す。プツン、という輪ゴムが千切れた時のような音の後、ガガっと罅割れた音、次いで―――

 「いらっしゃい、華」と、凜の声が流れた直後、微動だにしなかった自動ドアが静かな駆動音とともに開いた。故障していたわけではなかったことに、ホッと安堵の溜息が漏れる。その後、綺麗なコンシェルジュのお姉さんに声をかけられ驚いたりと幾つかの試練を乗り越え、どうにかエレベーターに乗り込むことに成功する。そのまま凜の部屋がある四十九回をタップ。ググッという加速感とともに箱が昇り始める。

 

 「いらっしゃい」

 四十九階唯一の部屋の扉(自動ドア)が開くと同時に、弾むような声と、柔らかく微笑む凜に出迎えられた。

 「入り口で迷ってたでしょ?」

 「え、何で知ってるの⁉」

 「フフッ、華のことなら何でもお見通しよ」と冗談なのか、本気なのか判らない台詞にどう返したらいいのかしばらく逡巡していると、凜はくつりと喉を鳴らして笑う。

 「疲れたでしょ。今、お茶を淹れるから上がって」

 「あ、あの凜!」

 なに? と、振り返った凜に、慌ててクッキーの入った袋を差し出す。

 「こ、これ‥‥‥凜の家にはもっと美味しいのがあるとは思ったんだけど‥‥‥」

 「あら、ありがとう。じゃあこれを今日のお茶うけにしましょう」

 私のお小遣いで買える範囲の中では最高級のクッキーだったが、黒条財閥の一人娘である凛には、失礼だったかと危惧していたが、凜は気にした様子もなく袋を受け取ってくれた。

 「さ、早く入って。華が来るのずっと楽しみにしていたの」

 「わ、私も‥‥‥」

 にこやかにほほ笑む凜にあてられて、口元を薄く綻ばせながら、玄関(我が家のリビングより広い)へと足を踏み入れた。

 思った通り。いや、部屋の中の煌びやかさは想像以上だった。

 高そうなテーブルやイスが置かれたリビング。テレビなんってウチの浴槽より大きかった。キッチンは料理番組で使われるような広さで何よりお洒落だった。部屋の間取りも楠女学院の教室なら幾つ入るのだろうかと目算してしまう程だ。窓辺から見える外の景色は、東京全体が一望できそうなくらい高い。見るモノ全てに圧倒される華に、凜は「そんなに珍しい?」とクツクツと忍び笑を洩らしていた。

 「何か気になるものがあるなら、後で好きなだけ見せてあげるわ。それより私の部屋へ行きましょう」

 凜に連れられ、凜の自室へ入った途端、窓から差し込む目を灼くような光に思わず顔を手で覆い背けた。眼が光に慣れはじめた所で思わず感嘆の声が漏れた。

 「す、すごい!」

 部屋の中は、ひとことで言うと図書室と音楽室がごちゃ混ぜになったような内装だった。

 左右の壁に置かれた本棚には、隙間なく大量の本が並び、窓辺には、ゆらゆらと純白のカーテンに煽られるグランドピアノが置かれていた。艶のある表面に陽の光が眩く反射して、部屋の中全体を優しく照らしている。

 「あのピアノって、たしか‥‥‥あの時の‥‥‥?」

 数日前に蘇ったばかりの記憶。去年の暮れ。クリスマスイブの夜に見た、あのピアノだ。

 「正解。あれは私の私物なの。たまに外で弾きたくなるんだ」

 ピアノを外で弾きたくなるからといって、気まぐれで外にピアノを運ぶ女子高校生なんて恐らく日本中探しても凜くらいのものだろう。

 はは、と引き攣った笑みを浮かべる華には気付かず、部屋の中ほどに置かれていた椅子をピアノの隣にそっと並べると、

 「ここに座ってて、飲み物持ってくるから」

 「‥‥‥うん、ありがと」

 椅子に座り、凜が部屋から出て行くのを見送ってから、改めて部屋の中を見渡した。

 「それにしても凄い本だなぁ‥‥‥、ちょっとした図書館くらいあるんじゃ‥‥‥」

 と、ピアノの上に薄っすらと埃を被って置かれていた本を手に取る。『神曲 ダンテ』。随分と年季の入った頁をパラパラと捲っていく。確かこの本は、地獄、煉獄、天国の全三篇で構成されたモノだって授業で習ったような‥‥‥。ちょっと取っつき難くて、よく解らなかったけど、やっぱり学年主席は違うな。と素直に感心し、パタンと本を閉じてもとあった場所へ戻す。

 チラリと扉の方を見るが凜が戻ってくる気配はない。その時、ふっと目の前のピアノに触れてみたくなった。勝手に使ったら怒られるかなぁ、と短い逡巡の末、堪え切れず演奏席の方へと移った。

 低音から高音までの鍵盤を順に叩く。死んだ母はまだ幼かった私に色々な音を聞かせてくれた。ピアノの音を聞いていると、母の事を思い出しそうになるから遠ざけていたけれど、再びこうして弾いてみると、まだ両親共に存命だった頃の記憶が走馬灯のように思い起こされ、胸の奥がギュッと締め付けられるような郷愁にも似た感覚に襲われる。

 慈しむように鍵盤を指先が撫でていると、鍵盤の上に透明な雫が落ちた。 

 「あれ? 何でだろ‥‥‥どうして涙なんか‥‥‥?」

 乱暴に目元を拭っていると、ガチャリと扉が開く。白いカップとクッキーが乗せられたトレーを持った凜が入ってくる。

 「どうかしたの?」

 「ち、違うの‥‥‥これは、別にそういうんじゃなくて‥‥‥」

 一体何が違うのか、おそらく凛には解らないだろう。もう涙は流れていなかったが、目元を乱暴に拭ったせいで眼の回りが赤く腫れてしまい、上手く誤魔化せなかった。

 しかし、凜は直ぐに表情をいつもの無表情(最近では、真面目なときの顔だと解った)へと変え、スタスタと歩み寄ると、トレーを側にあるサイドテーブルに降ろした。そのまま私の隣に腰を下ろす。

 そして、そのまま白磁のような細指で鍵盤をゆっくり叩き始める。

 「凜?」

 「華、一緒に弾こう」

 「‥‥‥‥‥無理だよ、私にそんな資格はないよ」

 悄然と顔を俯かせ、小さく頭を振る私へ、それでも凜は言葉を重ねる。 

 「じゃあ、私の演奏を聴いてもらえる?」

 数秒の間を空けて、私はコクンと小さく頭を縦に振り。

 「ありがとう」そう答えた凜の指が鍵盤の上をゆっくりと叩き始める。

 『ベートーヴェン ピアノソナタ・第八番・悲愴 第二楽章』。擦り傷の上を覆っていたかさぶたが剥がれるように、胸の痛みを労わるような、真綿で包み込むような音階。せき止めていた涙腺が再度、決壊した。

 ボロボロと頬を止めどなく涙が伝い、膝の上にいくつものシミを作っては消えていく。

 顔を俯け、漏れ出る嗚咽に肩を震わせる私へ、凜は言葉ではなく、音で優しく慰撫してきた。

 奏でられる旋律は、三か月前のあの夜に聴いた時のように、死んだ母親を思い起こさせる。

 やがて演奏を終えた凛は、両手で私の頭を包み込むとそのまま自分の胸に押しつけた。

 「私ね、本当は華と同級生じゃないの」

 「え?」

 「十一歳の頃に、交通事故に巻き込まれて、後遺症で事故以前の記憶のほとんどを失くしちゃったの。だから満足に日常生活が送れるようになるまで学校は休学してた。だから本当は一緒の教室で授業を受けたり出来なかったはずなのよ。

 そりゃあ事故当時は何で私がこんな目に合わなきゃいけないのって、神様を憎んだわ。だけど今は感謝してる。そのおかげで私たちは出会うことが出来たんですもの」

凜は自らの過去を赤裸々に語った。

 同時に納得した。普段、教室で凜だけが周囲とは異質な存在に思えたのは、何も凜の人柄だけではなく、彼女がそもそも同級生でなかったからだったのだ。故に、凜はクラスメイトとの間に壁を作り、『孤高の白雪姫』で有り続けていたのではないか? 

 もし、そうなのだとしたら、そんな大事な話を何故私に話したのだろう?

 その話が他の級友たちに知られれば、凜はさらに周囲との軋轢に苦しむかもしれない。

 勿論、誰にも口外するつもりはない。

 だけど、そんな秘め事を話してくれた。

それがどういう意味なのかは、鈍い私にも理解できた。それと同じくらいこれまで語れなかった私自身の思いを、凜なら受け止めてくれるかもしれないと思えた。

「ねぇ、話しくれない。アナタが今まで何を思って、何を見てきたのか」

 泣き止まない我が子の耳元で囁くように、凜が柔らかく問う。

「‥‥‥‥‥‥っ!」

「アナタはもう独りぼっちじゃないない」

そのひと言が、私の内側で長い時間かけて凍り付いていた、最後の氷塊を溶かした。

 「本当に、聞いてくれるの?」

 か細く震える声に、凜は「当たり前でしょ」と笑って答えた。

 これまで誰にも、姉さんにも話したことのなかった過去。

脳裏を過るのは、七年前、最愛の二人を失ったあの日のことだ――――。

 「私、人を殺したの―――」

 ゴクリと唾を呑み込み、私は凜の反応を待たずに話を続けた。

 「母さんは有名なピアニストで、七年前のクリスマスの日に父さんと一緒に、母さんの演奏会へいった帰り道、事故に巻き込まれた。

 父さんの運転で家に帰る途中、対向車線から飛び出してきた車と正面衝突して、そのまま私たち三人を乗せた車ごと、ガードレールを突き破って、その下にある川に落ちたの。

報 道では、未成年の少年数人たちによる無免許暴走事故って言われて、一時ニュースでも大々的に取り上げられていたけど。でもね、その裏で起こったことについては、何も報じられていなかった‥‥‥」

 そこで喘ぐように空気を吸い込む私の背を、凜が「大丈夫だから、落ち着いて」と優しく撫でてくれた。ゆっくりと呼吸を落ち着かせてから、私は続ける。

「暗く、冷たい水が車の中に入ってきて、運転席に座っていた父さんと母さんは顔から血を流してぐったりしていた‥‥‥。私、怖くて何も出来なくて、ただ二人が冷たくなっていく姿を、見ていることしか出来なかった。

 あぁ、私、死ぬんだなって思った。水が首まで迫って、体の感覚が消えていったから‥‥‥。そして息も出来なくなって意識が朦朧とするなか、見たの‥‥‥」

 「なにを?」

 「‥‥‥‥母さんが、割れた窓から私を外へ出してくれる姿を。気付いたら私は病院のベッドの上にいた。まだ何が起きたのか理解できてなかった私に、病院の先生や、色んな大人たちが私に話を聞きにきた。何が起こったのか、どうしてそうなったのかって‥‥」

 あの時のことは鮮明に覚えている。

 シミ一つない白い調度品と味気ない部屋。ベッドの周りには無数の花と、心電図モニタに囲まれ、まだ十歳だった私の細い腕には何本もの管が絡みついていた。シュコー、シュコーという呼吸器越しの呼吸音を聞きながら、朦朧とする意識のなか、大人たちに私は何も答えられなかった。

 医者たちは強い精神負荷による一時的な記憶障害が、どうだとか言っていたけれど、本当はそうじゃない。車の中に取り残され、昏い水底に沈んでいく母の姿が脳裏にべっとりとこびりつき、それ以外のことを考えるだけの余裕がなかっただけだ。

 「私が病院を退院した頃には、全部変わってた。周りの大人たちは、私のことを悲劇の子、母さんの残した忘れ形見だって、騒ぎ立てた。そんな私の事を引き取ることを嫌った親戚たちの間をたらい回しにされて、その内の一つで‥‥‥私は‥‥‥ひどい暴力を受けた。その人は母さんの妹で、最初から母さんが残した遺産が目的だったの。そんな生活が姉さんに保護されるまで二年くらい続いた‥‥‥。

 だけどね、私にそんな資格はなかったんだよ。あの事故で、運転していた父さんは即死だったけど、母さんはまだ生きてた。自分が助かることだってできたのに、そうしなかった‥‥‥。

 代わりに私なんかを助けて、母さんは死んじゃった。誰も言わないけど本当は解ってる。あの時、生き残るのは私じゃなくて、母さんの方だった。何の才能も、取り得もない私なんかじゃなくて‥‥‥才能に溢れてた、素敵な未来を選び取ることもできたはずだった母さんが、生きる、べきだったんだよ‥‥‥」

 「じゃあ、華が殺した人って言うのは?」

 「‥‥‥そう、母さん。私なんかが生きていたせいで、死んじゃったから。母さんと父さんが死んじゃったのは、確かにあの事故が原因だけど、母さんが死んだ理由の一端には、私も加担してるんだよ‥‥‥。だから私、決めたの。私のせいで誰かがいなくなったり、傷ついたりするくらいなら、私は、私自身をいくらでも犠牲にしようって、だから――――!」

 その続きを口にしかけた所で、凜の美しい桜色の唇が、私の口元を塞いだ。

 「――――ッ‼」 

 榛色の双眸を驚愕に見開き、全身を固くする私は、反射的に凜の体を押しのけようと抗った。が、凜はその細腕からは考えられない力で私の体をガッチリと抑えつけ、一切の抵抗を許さなかった。しだいに私は抵抗を止め、凛から流れ込んでくる熱に体の内側を滅茶苦茶にされるがままに身を任せた。そのまましばらく、私たちはお互いの唇を重ね合わせ、凜の抱擁がゆっくりと解かれるにつれて、そのまま凜の首筋に顔を埋めた。

 泣きつかれて母親に甘える幼子のような私の、栗色の髪を、凜の五指が撫でていく。

 「だから、愛される資格はない。華はそう言いたいんだね?」

 続きを言い当てられ、ビクッと身を震わせた私は、弾かれたように首筋から顔を離し、おとぎ話の中から抜け出しきたような、妖艶な気配を漂わせる白皙の少女を視界いっぱいに収めた。

 そのあらゆる光を弾き返す硝子のような瞳に、地味なボブカットの少女が映っている。

 何を言うべきか考えがまとまらない私は、吊り上げられた魚のように口をパクパク開閉させることしか出来ない。

 そんな私へ、凜はクスリと口元を綻ばせると、呟いた。

 「なら私の愛はアナタには受け入れてもらえないの?」

 「え?」

 「初めて会った時に言ったでしょ。アナタは本当の孤独を知る人だって。それは私も同じ。私たちは遺伝子的には何の繋がりもない別の個体だけど―――」

 トンと、凜の右人差し指が私の左胸、心臓の部分を衝く。

 「心臓?」

 「ううん、魂。心って言い換えてもいいけれど、その部分に関して私たちは同じ孤独を、痛みを知る唯一無二の存在なの。だから、アナタが誰からも愛されないってことは、同じ魂を持つ私も、誰からも愛される資格がないってこと」

 「そ、それは、違っ‥‥‥!」

 と言いかけた所で、胸に置かれていた人差し指が私の唇をそっと塞いだ。

 「同じだよ。それに、世界中の誰もアナタを愛さなくても、私はアナタを永遠に愛し続ける」

 「ッッッ‼」

 そっと指先が唇から離れ、銀色の双眸から澎湃と涙が頬を伝っていた。

 「だから、お願い。もう二度と、誰からも愛される資格がないなんって言わないで」

 鼻先がつんと熱くなった。鳴り止んでいた嗚咽が再燃し喉を詰まらせる。

 涙で顔をグショグショに濡らしながら、私は何度も頷く。

その度に涙が膝上を濡らしていたけど、私も凜も、そんな事は少しも気にしなかった。

 伸ばされた凜の腕が、私の背中へ回され触れ合う体越しに伝わってくる熱が、私の中に忘れかけていた温もりを、言葉にすると『愛情』という名で再燃していくようだった。

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