第8話

 眼を覚ます。いつもと買わない木天井。隣を見れば無人の布団。

 ―――姉さん昨日は帰ってこられなかったんだ。

 布団から抜け出し、リビングへ向かうとテーブルの上に一万円札一枚とメモ書きが置かれていた。

 

 【花へ

 姉ちゃん仕事で当分帰ってこられないと思うから、それでうまく生活してください。

 もし何かあったら携帯に連絡して。

 出なかったときは、留守電にしとくから宜しく。

 P.S.いつもさみしい思いさせてごめん。今度美味しいごはんごちそうする。

                                      あかね】


 そう書かれたメモを読みながら、私は制服へ袖を通すと、洗面台の方へと向かった。

 鏡面には、先日よりも遥かに生き生きとした栗色髪の少女が映し出されていた。

 「よしっ!」

 誰に言うでもなく、気合を入れて玄関へと向かう。

 

 アパートの入り口の塀に寄りかかり文庫本を読む一人の少女がいた。

 ペラリと頁を捲る、その何気ない仕草一つとっても実に可憐である。扉を開けたまま凝視していると、こちらの視線に気づいた少女――凜は、読んでいた頁に栞を挟み通学鞄へとしまう。

 カン、カン、と空き缶を叩くような音を立てながら、私は薄い錆に覆われた鉄階段を駆け降り、待ち人へおずおずと挨拶する。

 「お、おはよう‥‥‥凛(りん)!」

 緊張で若干声が裏返ってしまい、凜に笑われてしまう。

 「フフッ。おはよう華」

 目の前まで歩み寄っても、凜の笑いの波は一向に引かないようだった。

 「やっぱり華って、面白いね」

 「え? 私なにか変? 寝癖とかついてないよね」

 慌てて前髪を手櫛で整えると、今度こそ堪え切れなくなった凛が笑い出した。

「そういう意味じゃないの。だってあんな大声で挨拶をされたのって初めてだったから」

 「もう、からかわないでよ!」と、頬をぷくーっと膨らませて抗議するが、余計に凜の笑いを誘ってしまったようで、余計に恥ずかしくなる。

 「ごめんなさい。少しからかいすぎたわね」

 「ホントだよ。凜、私のこと玩具にしてるでしょ」

 「あら、バレちゃった?」

 「もう、知らない!」

 「フフッ、ごめんごめん」

 そんな何気ない、普通の女子高生がするような軽口も、私にとってはすごく新鮮で、心の底から楽しいと思えるひと時だった。

 「じゃあ、行きましょう。ノンビリしてたらHRに間に合わなくなるわ」

 「う、うん!」

 そう言って歩き出す凜の隣に慌てて並び、そのまま二人で朝の通学路へついた。


 学院へと向かう道すがら、私たちは色々なことを話した。

 好きな本は何か?

 好きな食べ物は?

 好きな色は何色か?

 どんな音楽を聴くか?

 等々、他愛もない話を永遠と、飽きることなく笑いながら話した。

 以前までは、随分長く感じていた学院までの道のりも、凜と一緒にいるだけであっという間に感じられた。丁度、正門前には中等部、高等部を含めた大勢の女学生たちでごった返していた。と、そこに現れた私たちを見た途端、周囲から無遠慮な視線が向けられる。

 『孤高の白雪姫』。それが凛の学院内で密かに呼ばれている仇名である。

その整った容姿、立ち振る舞い、誰とも関わろうとせず、クスリとも笑わない人形のような彼女に実にピッタリの仇名であると、私でさえ思ったほどだ。当人はあまりそう呼ばれるのを好んではいないようだけれど。

 そんな凜が、教室の隅っこでジッと目立たないように日々を過ごしている、地味な同級生と楽し気に登校しているとなれば、周囲からの注目を浴びるのは必然だった。

中等部の一部からは、悲鳴まで上がっている。

 他の生徒からも、隣のアイツ誰? みたいな容赦のない視線が、鋭利な刃物のように私の背中に突き刺さってくる。

 頬を冷たい汗が伝う。私は周囲の反応にあえて気付かないフリをした。隣をあるく凜は、元々周囲への関心が低すぎるせいか、周囲の様子に気付いていないようだった。

 こうなることは初めから解っていたことだ。

 なけなしの勇気を振り絞り、凜との歩幅を完全に同期させて昇降口へと向かう。

 


 楠女学院は、基本的に真面目な生徒が多い。朝のHRが始まる前にも関わらず勉強に励む者や、授業で使う道具の整理をしている人が大半で、他の女子高のように甲高い笑い声が飛び交うことはない。

 しかし、今日に関してはいつもと事情が違っていた。

 その理由はもちろん、今朝の私と凛が二人仲良く登校してきたことが原因だろう。

 ひそひそと幾つかの仲良しグループから聞こえてくる囁き声。

 時折、チラリとコチラを一瞥する好奇の眼差し。

 その視線に晒されながら、私は一心に凜から借りた本『一九八四年』の文面を追いかけた。この本の主人公の気持ちが今なら何となく理解できるような気がした。

チラリと窓際の自分の席で読書に耽っている凜を覗き見る。いつもと変わった様子はなく、そんな凜へ数名のクラスメイトが玉砕覚悟で声を掛けようとした、その時。

ガラガラと音を立ててスライド式のドアが開き、担任の女性教諭が入室してくる。

あれ? と思い、黒板の上に設置してある壁掛け時計を見やる。

 HRが始まるいつもの時間より少し早い。いつも時間通りに行動する先生だからこそ、数分でも早くやってきたことに、他の生徒からも怪訝な視線が向けられている。

 教壇に立ち尽くしたまま沈黙する女性教諭の異変に、その場に居合わせた全員が誰に言われるでもなく自分の席へと座り、少し早めのHRとなった。

 そのまましばらく教室内に重苦しい沈黙が流れた。 

「あ、あの‥‥先生」と、この重圧に耐えきれなくなった、学級長が女性教諭に声をかけた。

しかし、教諭はその呼びかけにも応じず、幅の広くない両肩は小刻みに震えていた。まるで何かに怯えるように。

そして、長い沈黙を経て、女性教諭がゆっくりと口を開いた。

 「皆さんに悲しいお知らせがあります。昨日、当校の生徒である木村 千鶴さん、吉永 巴さん、佐々木 加奈さんが亡くなりました」

 しばらくの静寂の後、教室内はさきほどまでとは別の意味で、騒然となった。

 「え、どういうこと?」

 「亡くなったって、つまりそういうことよね?」

 「でも、どうして?」

 「三人同時ってことは何か事件に巻き込まれたとか?」

 様々な憶測が飛び交う中、私の頭の中は真っ白だった。

 ―――木村さんが死んだ? 昨日? それってつまりあの後ってこと? でも三人はちゃんと生きていた。あの時だって‥‥‥まさか‥‥‥まさか‥‥‥。

 言葉にできない不安がこみ上げ、私は縋るような思いで窓辺の席を見つめた。

 しかし、凜は騒然とする教室の中で唯一人、興味なさげに頬杖をついて窓の外を眺めている。

 「皆さん、落ち着いてください。三人が何らかの事件に巻き込まれたのか、今はなにも解っていません。ですが、昨晩、警察からの話では、三人は自殺したとのことです」

 教室は再び静まり返った。

 このクラスの誰もが、木村 千鶴がどういう人間なのかを知っている。

 そして彼女の性格を想えば、自殺などありえない。それが周囲の共通認識だった。

 最後にもう一度、凜の方を見やるも、凜は興味なさそうに外をボンヤリと眺めていた。

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