第弍部 第二十一話 虎の尾を踏む

「…どうやって、ここまで来た」


腰の愛刀に手を伸ばしながら、憲政は輝虎に問う。


「フン……ムカつくことに、俺にはあの弟そっくりなこの顔と……」


するとそこで言葉を切った輝虎は、鎧の上に羽織っていた黒い外套の内ポケットにあたる部分に手を突っ込むと、そこから何かを取り出した。


彼の手に握られていたのは、黒一色のシンプルな眼帯。影虎が使用しているものとは、なるほど近場でじっくり観察しなければ見分けがつかないほど酷似している。


「なるほどのお。たしかに貴様がそれを身につけたなら、この鉄壁の城も飴細工じゃな」


しかしこれはまた皮肉なものだと、憲政は内心笑いが込み上げた。


この状況は、影虎が自身の正体をあくまで隠し通そうしたことにより起こっている。


上田城の警備やここに至るまでの守備隊は、まさか敵の総大将が、こちらの大将と同じ顔をしているとは思いもしなかったことだろう。


それもこれも、影虎の祖国を守ろうという志から来ていると言うなら、これが皮肉でなくて何とする。


しかし次に輝虎が放った一言に、憲政は思わず眉をひそめることとなる。


「いやあ、先に左翼で会っておいて良かったぜ。……まさかあの野郎、本当に左目を無くしているとはなあ」


「……?…どういうことじゃ。影虎のあの目は、お主にやられたものであろう」


その瞬間。

何故かは、分からなかったが。


ドクン、と憲政の心臓が跳ねた。


それはまるで、初めて人を殺めたあの時の衝動を再び味わうかのような。


開けてはいけない扉を、開いてしまった時のような感覚。


「たしかにあの時、俺はあいつの目の辺りを斬ったさ。……でもな。今考えれば、ただでさえ深手を負ってた上にあの剣術バカ相手に……あんな大袈裟な眼帯付けるほどの傷、付けれるわけが無かったんだよ」


今自分が目の当たりにしようとしているのは、人の持つ闇だ。


そんな憲政の様子を嘲笑うように、輝虎はなおも続ける。


「あの当時、俺が——長尾輝虎がいなくなれば、家臣団のブタどもに越後は乗っ取られてただろう。あの国をまとめるには、確かにそれが最適解だったのかもな。……それにしたって、とんでもねえ弟を持ったもんだぜ」


心臓の鼓動が、どんどんと速くなっていく。

本能が告げる。これ以上聞いてはいけないと。


「……何をバカな。儂はあの子の左目の傷口を見たことがあるが、あの傷は確実に左目を抉っておった。…お主ではないとしたら、一体……」


そんなことができるのは、目の前の輝虎を除けば一人しか。

しかし、本当にそんなことが……否、そんなとこがあっていいはずがない。


「ジジイ、お前だってもう分かってんだろ?……お前達は、俺を復讐に狂った人間にしたいらしいけどな。……なあ、生ける伝説様よお」


「……やめろ、それ以上は……やめてくれ…」


認めたくない。たとえ死んでも認める訳にはいかないその事実が、憲政の前に頭をもたげる。


愕然と立ち尽くす彼の前で、復讐に取り憑かれたはずの男は口の端を歪めた。



「愛国心ってのも、立派な狂気だと思うぜ」




その時上田城の外には、大勢の家臣や召使い、守備兵たちが集まっていた。


彼らからすればいつの間にか城内に侵入した賊によって火をつけられ、その賊を討とうにも火の勢いが強すぎて、城内に近づくことすらできないのである。

そしてそれに加え、内部には上杉・長尾の両大将が取り残されているという最悪の状況だ。


そんな集団の間を掻き分けるようにして進む、数人の騎兵がいた。


左翼から全走力で戻ってきた、影虎の一団である。


「あっ、輝虎殿…いつのまに外に!……大殿様は何処にいらっしゃるのですか!」


「……後にしろ、俺はこのまま城内に入る!」


「お、お待ちを!今城内には炎が燃え広がり、とても中になど……あっ、お待ちを輝虎殿!」


家臣団の忠告の声を無視した影虎は、井戸から水を掬ってそれを頭から被ると、矛を部下に預けて一人城内へと入っていった。



一階は廊下や室内に至るまで煙が充満し、そのせいで視界はほとんど効かない。

黒い煙を吸わないよう鼻を押さえながら、影虎は壁伝いに廊下を右へと向かった。


一階の右奥には、二階へと通じる階段がある。

今は一刻も早く上に行き、二階の大広間にいるはずの憲政の安否を確認しなければいけない。


二階への階段を上っている途中で、影虎は一つの違和感に気がついた。

いくらなんでも、人の気配が無さすぎる。


何かがおかしい。


歩調を早めて階段を上り切ると、今度は廊下の左側、対岸に位置する大広間へ向けて影虎は猛然と走り出した。


「……憲政様ッ!!」


叫びながら広間へと勢いよく飛び込んだ影虎は、信じられないものを見た。


年齢のわりに大柄な憲政の身体から、ゆっくりと引き抜かれていく大太刀。

その芸術的な波紋に鮮血を滴らせ、雅やかな刀身が妖艶に光る。


山鳥毛一文字。


憲政が膝から崩れ落ちるとともに、姿を現したそれは。


「……ずいぶんと遅かったじゃねえか。…残念だけどよお、お前の大好きなジジイはたった今死んじまったぜえ」


全身を返り血で濡らした、輝虎の姿であった。



駄目だ。


こんなことは、あってはならない。


自分が奴の策にハマって前へと引っ張り出され、そのせいであの憲政様が。


「あっ、ああ……俺の……俺のせいで…」


現実を受け止めきれず、床に倒れ込む影虎。

そんな弟の姿を見た輝虎は、今までよりも一層愉快そうに顔を歪めて笑う。


「そうだよそう、お前のせいだよ!……ッハハ、5年前から何も進歩がねえ!感覚頼みの軍略なんか、俺には通用しねえんだよ馬鹿が!これまでの犠牲も……これからの犠牲も!!……全部、全部お前のせいだ!!」


その言葉が、ズタボロになった影虎の心を完全に引き裂いた。


人間の域を超えてなお湧き上がり身を焦がすその怒りに、後悔に。


影虎の視界が、赤く染まる。


音が遠ざかっていく。


救う?


助ける?


そんな感情、単なる自己満足でしかなかった。


そう、ただ今は。

この激情いかりに身を任せたい。



「…………殺…………して、やる………ッッ!!」



その瞬間。

影虎の中で、今まで彼を支えていたもの、その全てが音を立てて崩れていった。






























  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る