第29話 背中を押されたいだけのガキならば
「叔母さん!」
管理人室の扉を開け放ち、文則はそう声を上げた。
沙苗は部屋の奥にいた。デカい机と三面モニターを前にして、今も黙々と腕を動かしている。小さな背中が今はでかい。見ているだけで吸い込まれそうになるぐらいだ。
怖気づく足を、「アホバカ間抜け」と叱咤する。背中に呑まれたらそれで終わりだ。きっと何も言えずに引き返すことしかできなくなる。
管理人室には、沙苗の他には誰もいない。アシスタントを雇わないのが沙苗の主義だ。だから今、この場には沙苗と文則だけ。
しかし沙苗は、文則の呼び掛けには答えない。黙り込んだまま、静々と作業を続けている。
そんな沙苗の背中に向かって、文則は自分の持った原稿を封筒ごと突きつけていた。
「これは、やっぱりゴミですか!? なんの価値もない駄作ですか!?」
その封筒には、曲りなりにも文則が一歩踏み出した証拠が詰まっている。
あの夏は、ゴミだと切って捨てられた。駄作だと無残に蹴散らされた。
だけど、そうじゃない。そうじゃないのだ、大切なのは。
だってこの漫画を描いている時、確かに文則は、夢中だったはずだから。
たとえどんな内容だとしても、文則にとっては、やっぱりこの作品はゴミなどではないはずだから……。
「……」
沙苗の背中がため息をつき、椅子をギィと鳴らしてこちらを振り返る。
目つきは冷たい。相変わらず狂暴な視線だ。障害を蹴散らして突き進む、そんな肚の据わった肉食獣にも似た眼差し。その圧を正面から受けて、文則は思わずたじろぐが、それでもしっかりと踏ん張ってその場に立つ。
「あんた……」
沙苗が目つきをさらに剣呑なものにさせて、言葉を発した。
「それで私に、どんな言葉を期待しているの?」
「ぁ……」
「ゴミとか、駄作とか言って悪かった。まだ粗削りだけれど、才能の片りんぐらいは感じられたよ、とか言ったら満足? そういう耳障りのいい言葉が返ってくればいいとでも?」
違う。そうじゃない。そんなことは思ってなかった。それは本当だ。
だけど沙苗の視線は文則を逃がさない。彼の中にある甘さを一つ一つ見つけては、丁寧に踏み躙ってくる。
「無責任な甘い言葉で、背中を押されたいだけのガキなら、田舎に帰って震えてなさい」
「……く、ぁ」
「作業の邪魔よ。出ていきなさい」
突き放すようにそう言うと、沙苗は再び机に向かう。
その背中に、気づけば――文則は頭を下げていた。
「ありがとうございました!」
頭を下げる文則に、あっけに取られた様子で沙苗がまた振り返ってくる。珍しく、彼女を驚かせることができたのは、少しだけ気持ちの良いことだった。
しかし、そうなのだ。
沙苗は無責任なことは言わない。甘い言葉でごまかさない。甘えを甘えと切って捨てる冷酷さを、弱さを弱さと断じて突きつけてくる非情さを、信用することができる。
だから分かった。文則はまだ甘い。この期に及んで、誰かに背中を押してもらおうなんて、そんな虫のいい話はない。
みんな自分で歩いてる。目標に向かって進んでる。
それはアメリアも、絵麻も、沙苗も同じだ。誰に背中を押されるわけでもない。自分の意志で動いている。
そのことを、一切の妥協なく真正面から突きつけてもらえるというのは、一種の救いだ。自分の立っている地平を、確認することができるから。
だからこそ文則は沙苗に頭を下げた。
そして心に誓うのだ。
俺はここから始めるのだと、そういう道を進む決意を。
「……全体の総評。まずもう全部ダメ。絵がダメ。人物も背景も下手くそ。ストーリーの流れも悪い。看板と、出す料理ぐらいはせめて揃えないとダメ」
再び机に向かった沙苗が、おもむろにそんなことを言ってきた。
「……え?」
「次、一ページ目。描き込みすぎでぐちゃぐちゃ。構図もへったくれもない。もっとシンプルに、伝えたい情報を選別していないから描き込みが増えて線が重くなる」
「……えっと」
「今、手元に原稿あるんでしょ。開きなさい」
「あ、はい」
慌てて封筒から原稿を取り出す。沙苗の言った通り、一ページ目に目を通す。
半年以上ぶりに見る自分の絵は、記憶にあるより下手くそだった。
「次。二ページ目」
「はい」
「大ゴマを使いすぎ。派手にしたいのは分かるけど、構図もワンパターン。あと主人公の手が左右で逆になってる」
「……はい」
「三ページ目。魔法で戦う設定の主人公がいきなり剣で無双し始めるの、ちょっとよく分からない。説明がない。ストレスなく読み進める上で必要な情報がいちいち抜け落ちている」
「……すみません」
「四ページ目から七ページ。バトル漫画の冒頭で始まっているのに、少女漫画の導入みたいな形で主人公とヒロインの出会いをわざわざ描く必然性が分からない。この辺りで看板と中身の乖離がもうすでに始まってる」
「……」
そこからはもうフルボッコだった。ページ単位、コマ単位で、いちいち詳細に沙苗からの指摘が入る。しかもそれを、全部原稿を見もしないで言ってくるのだ。
文則ですら覚えていなかった細かいところすら、わざわざ切って捨ててくる。一度原稿を見ただけなのに、すべての内容、展開を覚えているのだ。
沙苗からのその指導は、少なくても二時間は続いた。その間ずっと、文則は殴られ続けるだけのサンドバッグ状態だった。
それを終えると、文則は再び沙苗の背中に向かってぺこりと頭を下げた。そんな文則に向かって、沙苗は後ろ手にぷらぷらと手を振って返事を返す。それから、さっさと出てけと文則のことを部屋から追い出した。
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