第30話 アタシ、好きよ
沙苗の部屋を追い出されたあと、向かった先はアメリアの部屋の前だった。
扉と向かい合うようにして、背中から廊下の柵にもたれかかる。気力がなんだか萎えてしまって、そのままずるずると床にへたり込んだ。
「あー……アメリア」
扉に向かってそう呼び掛ける。だけど反応はない。まあ、でも構わない。反応がなくてもいいのだ。今、この胸の内側にある感情を吐き出したい。それさえできれば、あとのことはまあ、いいだろう。
「今、俺、叔母さんにめちゃくちゃフルボッコにされてきた」
二時間も立ちっぱなしのまま指摘を受け続けていた足はダルかった。全力で走ったあとのような爽快感は皆無だ。
「実は、去年の夏ぐらいに初めて漫画描いてみてさ。俺としては面白く描けたつもりだったんだけど……でも、まだまだ全然だった」
沙苗の指摘はいちいちもっともだった。悔しいことに、文則よりも文則の描いた作品のことについて理解してくれていた。
「さんっざんな酷評だよ。ゴミ。カス。駄作。それぐらいじゃ生ぬるいぐらいの、ダントツの低評価。そこまで叩くかよってぐらい、それこそ徹底的にいたぶられてきた」
ただ否定されるだけならまだマシだ。そこにいちいち理屈があり、道理があり、納得があるからたちが悪い。それはそのまま、文則自身の至らなさをぶん殴られていることに他ならないから。
だけどそれでも。
いいや、だからこそ。
「悔っしいな!」
自分が一歩踏み出して、挑戦したことがあっさり否定された悔しさは、今も胸の内に残っている。
沙苗に感謝はした。したが、それとこれとはまた別の話だ。
憎い。
悔しい。
恨めしい。
そんな感情も当然ある。いや、むしろそちらの方が大きいかもしれない。
「俺は悔しい! 悲しいよ! ふざけんなって思った。なんでここまで否定されなくちゃならないんだって思った。こんちくしょうって、腹が立った!」
心の底からそう叫ぶ。傷口を抉って血を撒き散らすような、そんな気分で悔しいと喚く。
そして。
「……お前は、もっとなんだよな」
そう。
アメリアはきっと、さらに悔しくて悲しくてつらい。文則が今抱えているだろう悔しさは、きっとアメリアの百分の一とか、千分の一とか、それぐらいでしかない。
文則なんかよりも、さらにもっとずっとアメリアは努力し、己を磨き、挑戦をしてきた。ずっとずっと高みを飛んでいたからこそ、落ちた時の衝撃は遥かに大きい。
それに比べて、文則はまだ、よちよち歩きの赤ん坊だ。低空飛行している時に、ちょっとバランス崩して地面に落ちた。それぐらいの衝撃しか、本当は受けていないのだ。
だとしても。
まるで分からなかったアメリアに、今はほんの少しだけ、手が届いたような気がするから。
だとしたら、最初の一歩としては上出来だ。あとはただ、自分の足で歩くだけ。
「……なんていうか、まあ、それだけだ。漫画はとりあえず、これからも描いていこうと思ってる。このままで終わるのは、なんだか悔しくなったからな」
そう吐き出すと、心がすっと軽くなる。どんな形であれ、自分で自分の意志決定をするのはいいことだ。
立ち上がって、扉を見つめる。アメリアはまだ、部屋から出てくる気配はない。文則の言葉は、彼女にはまるで届いていない。当たり前だ。まだ文則はそれだけの人物にはなっていない。
それでもいつかは届くだろうか。そうであれば良いと思いながら、アメリアの部屋に背中を向けた、その時だった。文則のスマホが着信を告げたのは。
取り出すと、画面に表示されているのは御坂からのメッセージだ。
曰く――
御坂 綾:やよいちゃん、反応ないんだけど少年から伝えてもらっていいかな?
御坂 綾:日向役じゃなくてルナ様役でオーディション受かったって話をしたかったんだけど、あの子途中で電話切っちゃって
「は――――――――――――――――――――――!?」
思わず悲鳴みたいな変な声が出た。
「マジかよ、あいつ……なんなんだよほんとマジで」
口元が勝手にニヤけてくる。嫉妬よりも強い喜びの感情が、文則をそんな表情にさせている。
合鍵はある。別に開かずの間だったわけじゃない。アメリアに気を遣って、鍵を開けなかっただけだ。
でもその理由は今なくなった。良い報告を、彼女に届けることができるから。
「アメリ――」
アメリアの名を叫びながら扉に引き返すと、鍵を差す前に内側から開かれる。
顔を出したのは、外出用の服に身を包んだアメリアだ。
「アメリア!? そんな格好をして、どうしたんだ?」
「収録スタジオに行くのよ」
「収録スタジオ? 今日、なんかの仕事だったか?」
「違うわ。日向役を取りに行く」
「は?」
「日向の役はもう一度解釈し直したわ。あとはテープを録って制作会社に送り付ける。次は文句は言わせない。アタシ、取るわ」
見ればアメリアの目は、泣き腫らした赤い目つきなんかじゃなかった。
徹夜の疲れが隈として目元に残るものの、はっきりと意志を定めた強い視線。ほしいものがあれば自分の力で無理やりにでも奪い取る、そういう不退転の覚悟が決まった種類の表情だ。
そうだ、アメリア・エーデルワイスはずっとそうだった。猪武者よりなお悪い。こうと決めたら一直線。傷つこうがお構いなしに、全力の体当たりで運命を切り開く、その細い外見からは想像もつかないほどの女傑なのだ。
あの夏のトラウマと向き合っただけで、少しでも差が縮んだと思い込んでいた文則とは格が違う。
ああ、負けた、と文則は思った。
しかし同時に、そのままでいいのかよ、と心に火が灯る。それを闘志と人は呼ぶ。闘志は意志だ。意志は力だ。だから芽生えた心の熱を、大事に大事に胸に仕舞う。小さな火種が、いつか空へと届くほど、大きく燃え上がればいいと願いながら。
「文則。収録スタジオ、連れてって」
「って、そうだった!」
袖を引っ張るアメリアにそう要求されたところで、大事なことを思い出す。
「お前、御坂さんからの連絡、聞いてねえだろ! 心配してたぞ、あの人!」
「綾が?」
「ほらこれ」
通話状態にしたスマホをアメリアに押し付けた。
すると電話口から説教の言葉が飛び出してきたのか、「すみません」とアメリアが謝っている。でも口調は淡々としていた。
しかし数秒後には、その淡々とした口調も、表情も、途端に剥がれる。「え?」と開いた口のまま、彼女は文則へと視線を向けてきた。
そして。
「文則――」
「うおっ」
飛びついてきた。腰に両腕を回してきて、胸元に顔を押し付けてくる。
「文則。なんだかアタシ、おかしいわ」
「お前はいつだっておかしいよ」
「嬉しいのに、悔しいの」
「悔しい? なんで?」
「アタシは日向をやりたかったから……」
「それって……月役だと不満だってことか?」
「でもアタシしかいなかったんだって」
アメリアの説明はよく分からない。
仕方なく、御坂に聞くことにした。アメリアが手に握っている文則のスマホは、まだ御坂と繋がっている。
「もしもし。柿井ですけど」
『あ、少年? 久しぶり~、やよいちゃんに伝えてくれたみたいでありがとね』
スマホを耳に押し当てると、そんな声が聞こえてくる。
「それは別に構いませんけど……アメリア、日向役でオーディション受けてたはずですよね。それがどうして、月役に?」
『あー、それはちょっと複雑な経緯があったみたいでね』
御坂の説明を要約すると、こういうことらしい。
元々、日向役はアメリアで本決まりになるところだったらしいのだ。演技の質もキャラの解釈も圧倒的で、それ以外には決まりようがなかったぐらいだというからさすがというしかない。
しかしそこで問題が起こった。
相方の月役が決まらない。声や演技が合う人もいなくはなかったが、一番肝心となるキャラの解釈がネックになっているのか、「これだ!」と思う人が見つからない。
そこで原作者の恋ヶ窪躑躅が挙げた名前が、アメリアだった。彼女ならきっと、月のことを誰よりも深く解釈してくれるはずだろうと。
『恋ヶ窪先生の話だと、月は日向よりも解釈が難しいんだってさ』
「それって、どういうことですか?」
『笑顔を失うのと涙を失うのとでは、涙を失う方が難しいからなんだって。特に月は、笑顔以外の表情を浮かべることができないから、どうしても人間離れしてしまってる。でも、恋ヶ窪先生はあくまで自分の作品のキャラクターを人間として描いているからね。非人間的な解釈の仕方をすると、どうしてもキャラの実像から離れてしまうんだって』
納得できるような、できないような、そんな話だった。
『だから今回は、日向で決まってたけど向こうの都合で役が替わったってわけ。日向は比較的解釈のしやすい人物像だから、別の子に声当ててもらうみたいね』
そんな御坂の説明を聞くと、もうなんだか逆に笑いが込み上げてきた。
ちゃっかりと、狙った役を射止めていた。受かったというのは嘘ではなかった。
ただ、アメリアは求められただけだった。もっと難しい役を、もっと深い演技を。
圧倒的とは、こういうことだ。だけど怖気づいてなんていられない。そういう期間はもう過ぎた。
今は、ただ、道をひたすら自分の足で――。
「ねえ、文則。思ったのだけれど、アタシが日向も月もやったらいいだけの話じゃないかしら?」
「欲張りか、お前は!」
「綾に言ってみるわ」
「胃痛の原因になりそうなことを言うのはやめて差し上げろ!」
そう言い合いながら、ラウンジへと二人で向かう。
扉を開いて中に入れば、絵麻と雄星が出迎えてくれた。アメリアのオーディションの結果を改めて伝えると、雄星はクールに、絵麻は飛び跳ねて喜びと祝福の声をかけてくる。
絵麻がホットプレートを持ち出してきた。
「それじゃあお祝いに、今夜はお好み焼きパーティーだ!」
「最近、お好み焼きばっか食ってる気がするんすけど」
「諦めろ文則。絵麻は言い出したら聞かないから」
「アタシ、好きよ」
アメリアの言葉に、全員が振り向く。
アメリアは口元に微笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「アタシ、『ハイツ柿ノ木』、好きよ」
その時のアメリアの表情は――それはそれはもう、言葉に言い表せないぐらいに最高だった。
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