第28話 あの夏に立ちはだかった壁

 その日は結局、アメリアは部屋から出てはこなかった。部屋の前に訪れても珍しく鍵まで締め切って、声をかけても反応すら返ってこない。しばらく扉の前で粘ったけれど、文則は今はそっとしておいた方がいいと思い引き上げることにした。


 翌日になっても、アメリアが出てくる様子はまるでなかった。合鍵を持っているから、その気になれば中に入れないこともない。だけど、そうしていいのか分からなくて、仕方なくその日はアメリアを置いて一人で学校に行くことにした。


 登校中には、違和感ばかりが付きまとっていた。アメリアを連れて学校に行くのが、彼の日常になっていたから。途中でドーナツショップを見たアメリアが、足を止めることもない。買ったドーナツを買い与えたりすることもない。煩わしいと思っていたことがなくなっただけで、妙に寂しく感じられてしまった。


 授業が終わったところで、文則は教室を飛び出していく。クラスメイトから雑談に誘われたりもしたけれど、とてもそんな気持ちにはなれなかった。


 アパートに帰り着いたところで、文則の部屋から絵麻が飛び出してきた。


「アメりん、まだ部屋に引きこもったまんまだよ!」

「それ、なんで俺に言うんですか……」

「だってノリフミ君、アメりん当番じゃん!」


 そんなことを言われても困る。たとえアメリア当番だとしても、やれることには限界があるから。


「昨日の夜から、アメりんなんにも食べてないんだもん! お好み焼き作って持ってっても、顔を出しても返事を返してもくれないし!」

「だからって、俺になにができるんですか」

「分かんないけど、でも、アメりんに一番なにかしてあげたいって思ってるのは絶対、絶対ノリフミ君だもん!」


 それを言われると、ちょっと弱い。アメリアのことを元気づけられたらいいと、そう思っていたのは事実だ。


「……分かりましたよ」


 絵麻にうなずき返して、文則は制服のまま二階へ上がる。


 それから、アメリアの住む202号室の扉をコンコンと叩いた。


「……アメリア」


 そう呼び掛ける。


 だけど反応はない。


「おーい、アメリア!」


 今度は、先ほどよりも大きな声で呼び掛けた。しかしそれでも反応はない。声が届いているのかどうか、それさえもまるで分からない。


 そのうちに、自分がなにをしようとしているのかがだんだんと分からなくなってきた。いや、それはもしかすると最初からだったのかもしれない。だいたい、アメリアになんて言葉をかけるつもりだったのだ。彼女に言えるような言葉を、そもそも文則は持ち合わせてなどいないというのに。


 それに気づいた途端、急に足元が冷たくなった。


 そしてその冷たさは、体の低いところから徐々に上へと上がってくる。


 そうなのだ。文則に言える言葉など、絶対にありはしないのだ。


 なぜなら分からない。アメリアが引きこもっている理由が、彼女の落ち込んでいる理由が、まったく分からなかったから。


 オーディションに落ちた。ただそれだけの理由で、アメリアはきっと苦しんでるわけじゃない。悲しんでいるわけじゃない。


 だってアメリアは言ったのだ。絶対に受かったと。確信があると。


 そして、そう断言できるに足るだけの努力を重ねて重ねて積み重ね続けて、才能だけには頼らずに、自分自身を磨き続けて。


 そうやって彼女は生きてきた。演技以外のすべてを切り捨てて、そのことに全力で取り組んできた。


 彼女のその生き方を文則は理解できない。だからなにも分からない。成功の喜びも失敗の苦しみも、こんな感じかなと想像するばかりで本当のところは分かっちゃいない。


 天才のアメリアにはどうせ自分のことなど分からない、なんてずっと僻んで、妬んできた。そうやってレベルの低い地平から、見上げるばかりで不貞腐れていた。


 だけど本当に理解が及んでいなかったのはどちらだ。本当の意味で『分かってなかった』のはどちらだ。


 今、なにも言えないのがそのすべてだ。彼女の背負っている覚悟や、見据えている目標を、何一つとして理解していないのだから、言葉が出てこないのは当然だ。


 それが、足元から全身へと広がっていく冷たさの原因だ。情けない、動き出せない自分が生み出している冷たさだ。


 扉をノックした手を、強く握る。凍えて逃げ出しそうに縮こまる心を、強く戒める。


 今しかないと文則は思った。この寒さに今ここで対抗できなかったら、自分はきっと一生負け犬になってしまうだろうと。


「……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!」


 そう叫んで、階段を降りて駆け込んだ先は、一階にある自分の部屋。


 机の、二番目の引き出し。そこにそいつは眠ってる。あの夏のトラウマ。あの夏の絶望。あの夏の後悔。――あの夏の、挑戦。


 引き出しから取り出した、二十五枚の読み切り短編。


 それの入った封筒を取り上げた時、懐かしさと痛みが同時に胸を襲った。苦くて青くて狂おしい感情が心の中を駆け巡った。


「ごめんな……もう、俺もお前から逃げねえよ」


 原稿に向かってそう謝ると、文則は封筒を抱えたまま再び部屋を飛び出した。


 向かう先はすぐそこだ。


 ラウンジのすぐ横にある管理人室。


 叔母・柿井沙苗の住んでいる部屋。


 またの名を、奥嶋ユーサク。職業、漫画家。


 あの夏のトラウマ。あの夏の挫折。あの夏の苦い記憶。


 あの夏に――立ちはだかった壁。


 だから今度こそ、文則はあの夏に再び立ち向かう。

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