最終章 青い果実 その九

 母に抱かれたような心地の良い微睡みを脱すると、全身を浮遊感が支配した。

 少女が瞼を開けるとそこは光の園であった。

 翡翠色の光の粒子が足元で暴風のように吹き荒れている。

 光の粒子は轟々と渦巻きながら上へ向かい、その色を翡翠色から青へと変えた。

 無限に広がっていると錯覚させられる空間は破壊的な光の演舞に埋め尽くされている。

 少女が浮遊感に身を任せると、ふわりと体が宙を舞った。荒れ狂う光の渦とは対照的に、少女は微風に乗った木の葉のようにゆらゆらと上へ登っていく。

 空間の上層を吹き荒れる青い光の粒子を啄むように微細な精霊たちがたむろしていた。人の目には決して映らない小さき者たち。しかし溢れ出る生気は尋常の生物を遥かに逸脱している。

 少女の蒼い瞳は、はっきりと彼らの姿を視認していた。

 そして自らがやるべきことを理解した。


「あの、みなさん。力を貸してほしいことがあります。とても大切な……私がやらなくてはいけないことです」

『何をする? 何をしたい?』


 幾万幾億の声が重なり合って空間を震わせた。


「この光を鎮めたいのです。そうすることが私の願いなのです」

『何故? 理由は?』


 問われた少女は考える。だけど頭の中を支配するのは真っ白な靄だった。靄の向こう側に答えがある。だけどどうすれば靄を払うことができるのか、方法を知らなかった。


『覚えておらぬか。我らは理由を知っておる。お前が何者かを知っておる』


 那由多に及ぶ精霊たちが語りかけてくる。


『頭に掛かる靄の全てを取り去っても構わぬ。我らにはそれができる』


 真摯で。


『さすればお前は、人だった頃の自分を取り戻し、再びあの者と旅をできよう』


 甘く。


『しかし、それは我らの持てる力全てを使わねばなしえぬこと。人の記憶を保ち、精霊の命を得るとはそれほど途方もない願い』


 厳しく。


『それでは光を鎮めるお前の願いは叶わぬ。この光を鎮めるのもまた、途方もない願い。故にどちらしか叶わぬ。我らの全てを使おうとも一つしか叶えてやれぬ』


 温かい声で。


『人の頃の記憶か。理由を知らぬ願いか。お前が選べ。この選択がお前の旅の最後の分かれ道――』


 失われてしまった人であった頃の自分を取り戻すか?

 そうせねばならない理由は分からずとも願いを叶えるか?


 ――もう、答えは決まっています。


「……この光の暴走を止めます」


 理由が分からなくても絶対に成し遂げなくてはならないから。

 理由が分からなくても絶対に果たさなくてはいけないから。


「だって、それは私の――」


 魂に刻み込まれた大切な願いであった気がするから。



 × × ×



 月下の銀世界を貫くように生えた無数の稲穂が、ずっしりと頭をもたげている。


「珍しい。この間できたばかりなのに、また遅れ米か」

「しかも今年は、稀遅れだ」

「めでたいのう。めでたいのう」


 村の者は、嬉々として盛大な宴に身を委ねている。

 稀遅れは、その土地を故郷とする精霊成りが完全な精霊へと変じた時に起こるとされ、精霊成りが二度と帰れぬ故郷へする恩返しとも言われている。

 宴会の会場に向かうべく、すずと団蔵が雪道を歩いていた。

 ふと、すずが田畑を見つめると、たわわに実った稀遅れの稲穂の海でたたずむモノがいた。

 一見すると着物と袴を纏った子供のようであるが、雪の輝きと月明かりを混ざり合わせたような銀色の長髪と、狐と思しきふんわりとした毛並みの耳と尾は人でない証だ。

 恐らくは精霊であろう。

 背を向けているため顔を窺い知ることはできないが、精霊の桜色の小袖と紺色の袴に、すずは見覚えがあった。


「あれは――」


 振り向いた精霊の蒼い瞳とすずの目が合った瞬間、突風が穂を一撫でして、いつの間にか精霊は姿を消していた。


「すず? どうかしたかい?」


 団蔵に問われたすずは、先程まで精霊が立っていた場所に頭を下げた。


「……実りをありがとう」


 この稀遅れを最後に、村では二度と遅れ米が実ることはなかった。

 一匹の土竜が村人たちに聞かせた話によると、村の地下に眠る大樹の遺骸から生じた荒れ狂う生命力をある精霊が鎮めたのが原因だとか。

 遅れ米を失った村だったが、それと引き換えに多種多様な作物の育つ肥沃な土地に生まれ変わり、村人たちはいつまでも幸せに暮らし続けたという。



 × × ×



 見渡す限り、灰に支配された大地がある。

 一見しただけでは不毛な土地だが、よく目を凝らしてみると灰の積もった地面からぽつりぽつりと木の芽が生い茂っていた。

 一人の少女が一本の苗木を植えている。桜色の小袖と紺色の袴を纏った人間の少女に見えるが、狐に似た耳と尾と銀色の髪、そして蒼い獣のような瞳がこの少女が精霊であることを物語っていた。


 少女が植えているのは桜と呼ばれる木の苗木である。

 植えた苗木の周囲の土を掌でポン、ポン、と叩いて整えると手についた土と灰を払って立ち上がり、腰から下げた浅葱色の巾着袋から小さな革の水筒を取り出して、苗木に水を与える。

 一仕事終えて満足げに鼻を鳴らした少女だったが、ここに来た理由を知らない。

 何故そうしたのかは自分でも分からない。ただ、そうしなければいけない気がしたのだ。桜の苗木をここに植えに来なくてはいけない、そんな気がしてこの場所を訪れた。


 桜の苗木を見つめる少女の耳がピクリと跳ねた。後ろから誰かが近付いてきている。

 少女が振り返って確認すると、桜の苗を持って一人の青年がこちらに向かってきていた。

 歳は二十の半ばか三十路の手前に見える。焦げ茶の髪は、少々癖のある毛質のようだ。

 袖をまくった白いシャツに黒いネクタイをゆるく締めており、黒のズボンと少々くたびれた革靴と鶯色の背嚢が旅慣れていることを窺わせた。

 青年の風貌で一層少女の目を引いたのは、彼の面立ちだった。端正であることに加えて鷹のように鋭い眼光と尋常でない瞳の色。そのまま翡翠を嵌め込んでいるかの如き美しさは、少女の蒼い瞳ですら霞ませた。

 そしてもう一つは、背嚢とは別に肩から下げている濃藍の絹の長細い袋。持ち手の紐が肩に食い込んでいるから相当の重みがあるらしい。

 これが噂に聞く人狩りの仕事道具であることを少女は悟った。


「桜を植えに来たのですか?」


 青年の手にある桜の苗木を見つめながら少女は尋ねた。


「ああ、約束だったからな」


 見かけの割に低い響きの声で青年は答えた。


「そうですか。どなたとの?」


 青年の顔色が何故か哀愁に染まっていく。


「……覚えていないか?」

「どこかで……お会いしましたか?」


 少女と青年は初対面である。なのに青年は一層悲壮感を露わにした。まるで人生で一番大切な約束を忘れられてしまったようだった。


「いや……そうさね」


 青年は悲哀の色をしまい込み、一転して破顔した。


「約束したのは旅の相棒ってところさね。お前さん名前は?」


 少女に名前はない。これまで気にしたことはなかった。ないことを悲しくも思わないし、おかしいとも感じなかった。


「分かりません。多分ないのでしょう。つけてくれる誰かもいませんでしたし」

「そうか」

「失礼ですが、あなたのお名前は?」

「ヒスイさね」

「まぁ……」


 なんと見た目通りの名前でしょうと、少女は思わず漏れた声を手で押さえた。

 ヒスイは気を悪くしていないようで、にっこりと笑んでいる。

 それから少女とヒスイは彼の持ってきた桜の苗木を植えながら話をした。彼が旅の相棒と繰り広げた旅の物語だ。


 人狩りを騙す大きな狼と精霊の話。

 人の顔の皮を剥ぐ我霊の話。

 翡翠色の赤子と母親の話。

 精霊成りの子供を失った母親の話。

 青い果実の生る木とそれを愛でる男の話。


 ヒスイの恐ろしくも浅ましい、けれど興味深い大冒険の数々に少女の胸は大いに躍り、相棒の話をするヒスイはとても幸せそうだった。

 けれど今のヒスイは、その相棒と一緒にいない。彼は別れの詳細については教えてくれなかった。

 少女も深く詮索はしない。ヒスイを傷つけてしまいそうだったから。


「さて、俺の話はこんなもんさね。よければお前さんの話も聞かせてもらえないかね?」


 少女は、身の上話をした。

 遅れ米が実る村の側にある大樹の若木から生まれ、遅れ米が実る村の地下にある大樹の遺骸の活動を抑制したこと。

 もう二度と遅れ米が実らないようにしたこと。

 そして桜を植えるため、ここへ足を運んだこと。


「ほう。ではその村で遅れ米が実らないようにしたのかね?」

「はい。土地に住む他の精霊の方々と協力して」


 少女はそうしなければならないと思っていた。けれど理由は今でも分からない。


「けれど私は何故そうしたのかよく分からないんです。ただそうしなくてはいけない気がして。ここへ来たのもそうなんです。ここに来なくてはいけない。そんな気がして……」


 少女の話を聞くヒスイの表情は、幸福を噛み締めているように見えた。


「そうかね」


 初めて出会った相手なのにとても話しやすい。翡翠色の澄んだ瞳を見つめていると心に溜まった全部を吐き出したい気持ちにさせられる。


「遅れ米の村でとてもきれいな女の人ととても優しそうな男の人に会いました。だけど私は逃げてしまいました」


 一緒にいたいけど、一緒にいてはいけない――。

 そう思ってしまった。いたいといたくないが心の中でずっと鳴り響いていて。だから訳が分からなくなって逃げ出した。

 それでよかったのだと少女の理性は結論付けていた。

 話をしている内にヒスイが持ってきた桜の苗木を植え終わり、少女は腰の巾着袋から革の水筒を取り出し、水をかけ始める。

 ヒスイは、興味深げに水筒を見つめていた。


「その水は……」

「これは蛇時雨で取れる吸の作り出した水球の水なんです。元が大樹の水分なので、きっとこの桜たちもきれいな花を咲かせるはずです」

「……その水筒借りていいかね?」

「構いませんが?」


 唐突な提案を訝しく思いながらも少女は水筒をヒスイに手渡した。するとヒスイは水筒の中身を一気にあおってしまう。

 思わず少女は声を上げた。


「あ、あの! それ厳密には吸という虫のおしっこですので! 好んで飲むものでは!」


 元は大樹から取れた水であるから身体に悪いものではないが、好んで飲む者はいない。もし仮にそんな者がいたらいい笑い者になるだろう。

 それなのに、何故かヒスイは満足そうにしていた。


「そうさね。しかし、まぁいつか仕返しすると言われたからな」

「……なんのお話ですか?」


 少女が首を傾げると、ヒスイは水筒を返して優しく頭を撫でた。


「こっちの話さね。さて、俺は行くことにする。お前さんも達者で暮らしな」


 ヒスイが離れていく。

 彼との距離が開く度、少女の胸が締め付けられた。


 ――なんでだろう?


 咄嗟に少女は、ヒスイのシャツの裾を指先で捕まえた。


 ――きっとこの人と一緒にいちゃいけない。


「あの……えっと」


 ――だけど、ここで離れたらもう二度と会えない気がする。


 二つの感情で心が真っ二つに割れている。なんでこんな風に思うのだろう。

 一緒にいない方がいいはずなのに、どうしてこんなに離れがたいのだろう。

 だけど一緒にいてはきっとヒスイを悲しませてしまう。根拠はないけれど、そんな予感がある。それでも何かこの人と出会ったという証を自分の中に残しておきたい。


「……ヒスイ様、名前を付けてくれませんか」

「名前?」

「私に名前をください。あなたと出会った証が欲しいんです。ここで別れてしまってもあなたを思い出せるような――」


 少女がヒスイのシャツを放して見上げると、彼は何故だか古い友人との再会を懐かしむように破顔していた。


「そうさね……じゃあ、つむ――」


 ヒスイから笑みが消え失せ、唇を噛み締める。言いかけた言葉を飲み込み、咳払いしてから再び微笑みを浮かべた。


「……リンネという名前はどうさね?」

「リンネ? リンネ――」


 少女は小さな声で繰り返した。とても暖かい音の色がする。そんな響きに思えた。


「とても、良い響きですね。何か意味があるんですか?」

「再び生まれ、巡り合う。そんなような意味さね」


 笑いかけてくれるヒスイに、リンネは笑顔の花を咲かせる。


「ありがとうございます。この名前、大切にしますね」


 二人は笑顔を交わし合ってから、お互いに背を向けた。


「では……またな、リンネ」

「はい。まだどこかでヒスイ様」


 それぞれの道を歩み始めたリンネとヒスイの間を心地の良い微風が流れ、桜の苗木についた小さな新芽の葉をそっと揺らした。




 おわり

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人狩り ~精霊成りの少女と遅れ米~ 澤松那函(なはこ) @nahakotaro

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