最終章 青い果実 その八

 水の匂いを辿って森の南側を訪れると細い川が流れていた。裸足に川辺の小石はうっとうしいが気にせず川縁でしゃがみ込むと、月光の跳ねる水面が鏡のように紬の姿を映し込んだ。

 銀色だった髪は毛先以外が黒く変色し、輝くように白かった歯と爪は血の紅で、すずから譲り受けた桜色の小袖と紺色の袴は土と乾いた血の茶に染まっていた。

 北方の民と見紛う程の碧眼も今は褪せて薄黒く色づいている。


「何……これ?」


 紬の見つめる異形は、人でもまして精霊でもない。

 人の黒い想いと精霊の力に溺れてなれ果てた者。

 これを人は精霊成りと呼んだのだろう。

 だからヒスイは狩ろうとしたのだ。浅ましいモノと化す前に、綺麗なままの紬を守るため。

 醜くて悍ましい姿は、吐き気を催す粘着質な嫌悪を抱かせる。

 これが自分だと認めたくない。しかし水面は嘘をつかない。そこに映る姿は紛れもない真実だ。

 何度瞬きしても、雪明りで染めたような銀髪も宝石のように輝く蒼い瞳も戻ってこない。

 ここにいるのは人を狩って食い殺したモノ。犯した罪の重さに相応しい姿のモノ。罰を受けることを逃れた厭らしいモノ。欲に溺れてなれ果てたモノ。

 こんな存在を指し示す言葉があるとするならば、それはたったの一つだけ――。


「化け物……」


 こちらをまっすぐ見つめる化け物から逃げ出すように駆け出した。

 小石に、小枝に、木の葉に、足の裏がズタズタと引き裂かれ、血が滲んでも止まらずに。

 日が昇り、落ち、また昇り、けれど一睡もせず止まらずに。空腹に耐えかねた胃に穴が開き、渇きに喉が裂けても、止まらずに。

 母から貰った遅れ米の入った小さな巾着袋を握りしめて、ひたすらに走り続けた。


 春が終わりを迎える頃。深更の夜に見慣れた景色が目に入り、紬はようやく足を止めた。故郷の村を去る時、通ってきた大樹の若木が群れをなした森である。

 一本の若木に歩み寄り、目を凝らした。木肌は磨いた白石のような艶がありながら、ざらざらと蠢いている。

 やはり大樹の若木であると確信して森に入ると、足元で軋むような音が鳴った。時折水の流れるような音が耳まで登ってくる。大樹の若木が道案内をしてくれているのだ。

 案内に従い、歩を進めた。


 空は葉と枝に覆われて太陽の輝きは届かないが、葉の一枚一枚が白く淡々とした光を放ち、昇り始めた朝日のように眩しかった。光に目を細めながら想う。

 故郷に帰ったら何をしよう?

 何処から話せばいいのだろう?

 何を話せばいいのだろう?

 こんな浅ましい姿と化した娘を愛してくれるのか?

 自問しても答えは出ないけど、大樹の若木が案内してくれるのなら、きっとそこには紬にとって素晴らしいことが待っているはずだ。

 そんな願いが叶ったかのように、故郷への道に立ちはだかる男が一人――。


「ヒスイ……様」


 小銃を持つヒスイの右腕は、ハルにやられた怪我がまだ癒えていないのか添え木をしている。

 彼が紬をどうしようとしているのか聞くまでもない。けれど紬を見つめる翡翠色は慈愛に満ち溢れていた。大樹により生み出された瞳の放つ光は、紬の体内を流れる汚泥のような自己嫌悪までもそそいでくれる。


「紬」


 共にいた頃と変わらない親しみの籠った声で名前を呼んでくれる。

 ヒスイは、あの頃と何一つ変わっていない。変わってしまったのは紬だ。

 悪意に染まった罪深いモノ。理を乱す汚れたモノ。

 底の見えない深淵に堕ちた身なれど、こうやって一緒にいると、出会った頃の自分を思い出す。昔の自分に戻っているような気がした。

 それが都合のいい幻想なのは理解している。今更元に戻れないのは思い知っている。そうだとしてもなるべくあの頃のような笑顔で、あの頃のような子供らしい声を作った。


「ヒスイ様、お会いしたらお尋ねしたいことがあったんです」

「なんさね?」

「青い果実の生る木とは何なのでしょう?」

「あれは、大樹が突然変異して生まれた植物で産実(うぶみ)と言ってな。根で人の血肉を分解し、果実として再構成する代物さね。あれになる実は人の赤子の味がするという」

「……ああ、そうなのですね」

「食べたのか?」

「はい……一つだけ……だけど私は――」


 ハルの肉を喰らった時、青い果実と同じ美味と充実感が身体を震わせた。あの特有の甘露は確かに同じものであった。

 抗えなかった。

 あの美味にも。

 ヒスイに狩られる死への恐怖にも。

 だから森に残り、ハルの理に飲まれたのだ。自分の欲のためだけに。


「ヒスイ様。私の心は、壊れています」


 我欲のために精霊の力を使う。もはや精霊はおろか人ですらない。理を乱す異質な存在。


「私は……ヒスイ様が想っていた通りの、化け物でした」


 人は、恐怖と軽蔑を込めて紬のような存在をそう呼ぶのだ。

 けれどヒスイはゆっくりと首を横に振った。翡翠色の瞳は温かい光を灯している。旅をしていた頃と同じ、安らかで心地良い輝きであった。


「紬は、化け物なんかじゃないさね。人とは、そういうものなんだ。黒くもあれば白くもある。自分の行いを後悔している時点で、やはりおまえはどうしようもなく人なんだ……紬、すまなかった。俺が最初から事情を話していればよかったのだ」


 仮に最初から真実を知っていたとしても今と同じような選択をしたはずだ。我が身可愛さに逃げ出していた。結局化け物となって市井の人を手にかけたかもしれない。


「いいえ。ヒスイ様は、最善を尽くしてくださいました」


 化け物は、化け物なりの責任の取り方をしなくてはいけない。


「自分の起こした結果は、自分で背負います」


 紬が覚悟を決めると、ヒスイは小銃に左手を添えた。


「そうさね。俺はここでお前を狩らねばならん。だが可能性はある」

「可能性?」


 ヒスイの目は、狩人としての殺意に満ちた目ではない。ある種の希望を見出しているようにさえ見えた。視線の先が示すその対象は、地面を構成している大樹の若木の無数の根だった。


「地還しの大樹でやろうとしたことと同じことをここでするのさね」

「同じこと……とは?」

「精霊はいくつかの生き物の亡骸を大樹が取り込み、新たな生命として命を与えた者。精霊になれない精霊成りは地還しの大樹に連れて行き、狩る。精霊になれない者が精霊になれる最後の機会さね」

「じゃあヒスイ様は、私を地還しの大樹で狩り、精霊になれるかどうかを……」

「しかし地還しの大樹であっても成功の確率は限りなく低い。精霊になるとはそれほど難しいことなのさね。しかもここの大樹はまだ若木。地還しの大樹と比べてそれほど強い力があるわけじゃない。成功する確率はないに等しいし、そもそも大樹がお前を許すかも分からん」


 許されるはずがない。許されてはいけない。化け物に罪を償う機会が与えられていいはずがない。

 そんなことを望んだら、きっと化け物以下になってしまう。今よりもずっと醜い存在へと転げ落ちてしまう。


「……私は許されないことをしました。そんな私にたとえ低い可能性でも機会が与えられる……その資格があるのでしょうか?」

「それを決めるのは俺でもお前さんでもない。ただ俺にできるのは人を狩ることさね。それ以外はできないのさね」


 ヒスイは、ずっと紬を一番に考えてくれた。心を砕き、魂を傷つけながら紬を救おうと足掻いてくれた。

 もうここで終わってしまってもいい。

 後悔はない。

 両親から深い愛情を注がれて育ち、最後にはヒスイという優しい人に出会えた。これ以上、何も望むことはない。

 だから最後はヒスイに全てを託して終われたのなら結果がどうあれ、それでいい。

 紬は懐から薄汚れた浅黄色の巾着袋を取り出した。村を出る直前、すずが渡してくれた遅れ米が収められている巾着袋である。


「ヒスイ様。私を狩ってください」


 巾着袋を差し出すと、ヒスイは受け取り、中の遅れ米を改めた。一掴み分の青い米は、紬が困った時のためにと、すずが与えてくれたもの。きっとこの時のためのもの。


「これで……足りますか?」


 紬は無理矢理に笑顔を作った。火照った眼から涙の雫がはらはらと落ちていく。


「……ああ。十分さね」


 ヒスイもまた、誰の目にも作り物と分かる笑みを浮かべながら巾着袋を握り締めて頷くと、紬に銃口を向けて引き金を引いた。

 胸を食い破り、突き進む熱が堪えがたい苦痛を与えたのは数瞬に満たず、全身から力が抜け出すと同時に安息に落ちていく。

 死への恐怖はない。あるのは、化け物が葬られていく安堵だった。

 意識を黒く塗り潰され、崩れ落ちる紬を支えるように地面を構成する大樹の若木の根が伸び、抱き留める。

 小銃の槓桿を引き、飛び出した薬莢を拾い上げると、紬の右手に握らせようとした。だが、その寸前でヒスイは手を止め、紬の顔をじっと見つめた。遊び疲れて眠る子供のように安らかな表情である。


「人しか狩れぬ人狩りの俺にできるのはここまでさね」


 巾着袋の遅れ米を外套のポケットに入れると、空になった巾着袋を紬の右手に持たせた。


「俺にできるのは、紬の人の部分を狩ることだけだ」


 大樹の若木の根は繭のように紬を包み、地面へ引きずり込んだ。


「あとは紬よ、お前に残されているモノ次第さね」


 ヒスイは薬莢を自ら握り締めると、大樹の若木の森の奥へと消えていった。

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