最終章 青い果実 その七

 ハルが向かったのは森の北東だった。

 紬の髪と同じ色の月光が降り注ぐ中、小屋から五分ばかり歩くと人の背丈ぐらいの小さな枯れ木が一本、赤い花に囲まれて生えていた。青い果実の生る木と輪廻草である。

 ハルが夫婦の亡骸を木の根元に置くと、木の根が蛇のようにうねりながら幾百も地面を突き破り、夫婦の亡骸を貪るように包み込んだ。暫く待つと、根は解けて地中に帰り、地上に残されたのは仄かに漂う血の香りのみであった。

 さらに待つと、一番太い枝先に小さな青い果実が二つ実ってみるみる膨らみ、ハルの手に余る程大きく育っていく。

 ハルは一つ手に取ると、たまらない様子でしゃぶり付き、青い果汁で口元をべしょべしょに濡らした。果実は、ものの数秒で腹の内に収まり、掌に残った汁を名残惜しげに舐めている。


「もうなくなってしまった……残りはまた明日食べよう」


 いったい何人がこの木の、そしてハルの犠牲となったのか。

 きっと想像もつかない程の膨大な人々の骸が果実とされている。


「あなたはこうやって何人も……」

「そうだよ。人がここに迷い込んだら出られない。エリさんの作り上げたこれは特に素晴らしい。今まで手に入れた輪廻草の中でも最上級だよ」


 ハルは輪廻草の一輪に手を伸ばし、女の頬に触れるような指付きで花弁を撫でた。


「青い果実の木と共生する輪廻草は、人をよく惑わせるんだ。辿り着きたい者は辿り着けず、辿り着きたくない者は辿り着く。故にヒスイさんは、ここへは来られない」


 ヒスイが現れない理由が人を惑わせる特別な輪廻草にあるのなら、紬はどうなのだろう?

 逃げ場所を求め、走り続ける内にハルと出会った。

 紬は精霊成りだが、根本は人のまま。ならばハルの元に辿り着いたのは、ここが辿り着きたくない場所だからではないだろうか?


「紬に出会えてよかった。果実の甘露を分かち合えるのは、紬だけだ」


 ハルは両腕で紬を抱き寄せ、愛でるように背中を擦った。群れをなしたムカデのような怖気がぞわぞわと背筋を撫でる。たまらずハルを突き飛ばし、大きく一歩退いた。


「分かち合うつもりなんか、ありません!」


 遅れ米の対価に精霊成りとなった時、村の贄となった時、紬はそれをよしとした。自分一人の犠牲で村の全員が救われるのならそれは決して高い代償ではないのと。

 けれどヒスイとの旅路で得た経験とハルの狂気を知り、ようやく気付くことができた。

 人の命を贄にする実りを許してはならない。遅れ米であれ、青い果実であれ、こんなものはこの世の中にあってはならないのだ。

 遅れ米の犠牲は紬が最後ではない。いずれまた別の誰かが犠牲となってしまう。そしてすずや団蔵のように泣く人々が現れ、犠牲を理の一字で片付ける。

 それは人の血肉を糧に実りを授ける青い果実の生る木とて同じこと。

 犠牲を強いる実りは、どちらも等しく浅ましいのだ。


「どこにも行かないでおくれ」


 だからハルは孤独でいる。


「ずっとここにいておくれ」


 だからハルは求めている。


「僕たちは同じ血を受け継いでいるのだから」


 己の同類を。同じ血脈を受け継ぐ同士を。


「僕は、紬がいない日々を思い返すと、寂しさに殺されそうになる」


 遅れ米の村で生まれ育った紬を自らの理に導こうとしている。

 理を外れた精霊成りを蜂蜜のように甘い言葉で誘っている。

 所詮お前に行く場所はない。どこへ行こうと人狩りに追われ、いつか狩られる定めにある。ここにいれば安全だからお前も人を狩る側に回れと。


「私は……」


 同じ血を受け継いでいるのだとしても、命を対価にして実る遅れ米の恩恵でこの歳まで育ったのだとしても――。


「あなたとは違います」


 それでも人は狩らない。

 狩る立場にはならない。

 欲のために獣や精霊を虐げる人間をヒスイとの旅を通して見つめてきた。人の醜さと悍ましさを嫌という程経験した。けれど全ての人が愚かだったわけではない。


「私は、〝人狩り〟にはなりません」


 人であれ、獣であれ、精霊であれ、己の欲を満たすためだけに傷つけることだけはしたくない。たとえ自らが理に反した存在であろうとも、その一線だけは踏み越えたくはない。


「この実を食べれば君は完全な精霊になれるんだよ」

「なれるとしてもいりません」


 幾人もの命を奪って生き永らえてもきっと後悔する日が来る。それならヒスイの銃弾を心臓に撃ち込まれた方がいい。

 もちろん今でも死にたくないけれど、罪なき人々の幸福を食い尽くしてまで生き延びたいと願う程、浅ましくはなりたくなかった。


「紬、わがままを言うものじゃないよ」


 ハルが手を伸ばして歩み寄ってくる。


「ほらこっちへおいで――」


 身構える紬と近付いてくるハルの間の地面が突如盛り上がり、一匹の獣が顔を覗かせた。


『お嬢さんと外道の人狩りか』


 土竜である。声からしても今まで数度顔を合わせたことのある、あの土竜と同一の個体なのは間違いない。


 ――なんでここに?


 紬とハルの視線が地面の土竜に吸い寄せられると、爆音と共に生じた熱風が紬の頬を叩きつけた。突然の出来事に狼狽しながらも熱風の発生源を見やる。それは青い果実の生る木であった。翡翠色の焔に包まれて、立ち上る白煙が焔の輝きと相まって夜空を彩っている。


『人狩り殿、こちらの役目は果たした。後は任せた』


 土竜が水に飛び込むように土中へ潜ると、地面に漂っていた匂いがふわりと舞い上げられた。肉の焼けるような香ばしい香りが紬の鼻先をくすぐる。青い果実の生る木が燃える匂いだ。

 何と甘美で蠱惑的なのだろう。口腔が溢れんばかりの唾液で潤っていく。


 ――なんておいしそうな匂い。


 心中に生じた邪な欲望をすぐさま追い出し、ハルを一瞥した。彼は魂を抜かれたように脱力し、青い果実の生る木の最後を呆然と眼に焼き付けている。


「紬――」


 背後から切なさの混じる声がそう呼んだ。

 ハルに背を向けて振り返ると、翡翠色の優しい瞳が旅を始めた頃と変わらずに輝いていた。


「ヒスイ様……」


 寂しそうな顔をしているヒスイがそこにいた。構えている小銃の銃口から琥珀色の硝煙が立ち上っている。


「辿り着くとは思わなかったさね。そうか……辿り着いてしまったか」


 口惜しそうに呟き、自嘲を浮かべながら燃え盛る青い果実の生る木に顔を向けた。


「こんなものを崇めている奴がまだいたとは驚きさね」


 翡翠色の焔は、通常の炎とは一線を画す。

 紬には、この焔に心当たりがあった。以前ヒスイが聞かせてくれた蜜の弾丸であろう。


「これは、ヒスイ様が以前仰っていた蜜の弾丸なのですね?」

「ああ、万物を焼き尽くす焔だ。大樹に近い性質を持つ青い果実の生る木でも生命が燃え尽きる時まで燃え続ける。何人にも消すことは叶わん。たとえ同じ蜜の弾丸でも」


 紫電樹の町で我霊のシュウを狩った時、ヒスイは蜜鳥の他に蜜の弾丸と呼ばれる特別な道具を一発だけ持っていると言っていた。万物を焼き尽くす翡翠色の焔や大気を凍てつかせる青い冷気を生み出せるのが大樹の蜜を仕込んだ弾丸であると。


 ――良かった。


 人の命を犠牲にした実りがこの世界から一つ消えた。

 これで青い果実にされる人はいなくなり、多くの人の未来が贄とならずに済む。


「ありがとうございますヒスイ様。これで救われる人がたくさんいるはずです」


 紬がお辞儀して顔を上げると、ヒスイは数瞬強く唇を噛んでから一転して微笑を浮かべた。


「そうさね」


 ヒスイの本来の目的は理を乱す人を狩ること。

 精霊になり切れず、我欲に支配され、己が命可愛さに逃げ出した者を狩ること。


「私を……狩りに来たのですね」

「……そうさね――」


 ヒスイの視線が紬から外れた瞬間、銃声が空を切り裂いた。ヒスイは、狼のような身のこなしで木陰に身を隠す。

 銃声はヒスイの小銃が奏でたのではない。紬の背後から轟いた。

 涙目のハルの手に小さな銃が握られている。見たことのない形状の銃だ。

 ヒスイは木陰からちらりと顔を出し、ハルの持つ小さな銃を見やった。


「拳銃か。用心深い奴さね。紬! 隠れていろ!」


 ハルは、鬼の形相で引き金を絞り、ヒスイの隠れる木に弾丸を撃ち込んだ。

 一発、二発、三発、拳銃の引き金を引き続ける。

 宝物を失い、破綻寸前の心持でありながら狙いは正確。しかし弾丸は、樹皮に埋め込まれるばかりで、ヒスイを捉えることは叶わない。射撃の腕は健在でも、狂乱するハルに銃撃戦をこなせるだけの余裕はないらしい。

 銃はすさまじい殺傷力を誇る人類の英知の結晶だが、一度に装填できる弾の数には限りがある。基本中の基本がハルの頭から抜け落ちていた。


 カチンッ――。


 金属同士の当たる甲高い音が木霊する。ハルの拳銃に装填されていた弾は全て失われ、引き金を引く音だけが響いた。

 相手の弾切れを悟り、すぐさまヒスイは木陰から身を乗り出し、引き金を絞った。

 放たれた弾頭は銃音が鼓膜に届くよりも速く、そして正確無比にハルの左胸を捉える。シャツの生地を引き裂き、皮に食い込む。如何なる生命であっても死を約束する一射。けれど弾丸はハルの薄皮を貫けない。


「何!?」


 さすがのヒスイも動揺を隠せていない。表皮で押し留められている弾丸は、やがて推力を失い、ぽとりと地面に落ちた。銃弾で貫けない皮とは、まるで鋼だ。

 驚愕の光景に硬直する紬とは対照的に、ヒスイは素早く槓桿を引いて次弾を装填。時間にして僅か数瞬の達人芸である。

 しかし、それよりも一手速くハルが右手を突き出し、拳銃を手放した。


 轟!


 眼には見えない力場がハルの掌から躍り出し、周囲の木々をなぎ倒しながらヒスイに迫る。

 咄嗟に身を躱すヒスイであったが、力場に巻き取られた大気のねじれによって突風が吹き荒び、蛇のようにうねりながらヒスイにまとわりついて中空へと舞い上げた。

 暴風は大の男をまるで羽毛であるかのように弄び、一際強く吹き荒れるとヒスイを背中から地面に叩きつけた。


「ぐっ!?」

「ヒスイ様!」


 人の行動力を奪うには十二分すぎる衝撃に、ヒスイの肉体は竦んでいる。蹲るヒスイに歩み寄る度、ハルの浮かべる愉悦が歪みを増していった。


「バカだよ君は。あの果実は食べた者を精霊へと近づける。僕が精霊に等しい力を付けていると気付かなかったのかい?」


 シュウの造った浅ましい奉仕の場所。あそこで初めてハルと出会った時、彼はランタンを手にしていた。あの時は蜜蜂で視界が封じられた紬のために点けたと言っていたが、そうではない。ハル自身が精霊に近しい存在だからこそ、灯りがなくては何も見えなかったのだ。

 ハルは、蹲ったままのヒスイが手にしている小銃に目をやった。


「こんな玩具おもちゃを大事に持っていたところで、君は無力だよ」


 嘲笑を露わにしたハルが小銃をヒスイの手からむしり取って投げ捨てると、これが好機と言わんばかりに翡翠色の殺意がハルの右目に狙いを定めた。

 すかさずヒスイが右手を懐に入れて拳銃を抜き、引き金に指をかけた瞬間、ハルの右足がヒスイの右腕を踏みつけ、枝が折れるような乾いた音が木霊した。


「ぐうっ!」


 拳銃を持つヒスイの右腕は、あらぬ方向へ曲がっている。


「脆いな、ヒスイさん」


 額に脂汗を滲ませながらヒスイはハルを見上げた。

 ヒスイはまだ闘志を失っていないが、圧倒的な戦力差は紬の目から見ても明らかだ。


 ――ヒスイ様が……殺されちゃう。


 今の紬は無力な子供ではない。精霊としての力を己の意思のまま振るえる精霊成りだ。

 青い果実の生る木があったせいでハルに行動と感情を支配されることもあったが、それが燃えた今、紬を縛るものは何もない。


 ――ヒスイ様が……殺されるぐらいなら!


 渾身の力で地面を蹴ってハルとの間合いを詰めると、両手に鋭利な風を纏わせて打ち下ろした。一筋の風は、研ぎ澄まされた刀剣が如き一撃となってハルの首筋を抉り、鮮血をほとばしらせる。

 唐突な攻撃でよろめくハルにさらなる追撃を加えるべく両手を振り上げるも、すかさずハルの両手が紬の両の手首を捕まえた。


「紬……悪い子だ!」


 凄まじい腕力が紬を押し返し、ねじ伏せようとしてくる。力比べではとても抵抗できず、おまけにがっちりと掴まれた手首は、いくら暴れても振り解けそうにない。


 ――だったら!


 紬は大きく口を開き、ハルの首筋に刻まれた傷口に歯を突き立てた。


「ぐあっ! この!?」


 ハルの両手が紬の手首から離れ、今度は頭を鷲掴みにして引き剥がそうとしてくる。それに負けじとギリギリ歯ぎしりさせながら思い切り顎を引き、首筋の肉を食い千切った。新鮮な肉片から血液が濁流のように滲み出し、紬の口内を満たしていく。


 ――甘い……。


 林檎の甘露煮よりも甘い極上の美味に、紬の心臓が高鳴るのと比例するように、ハルの生命の灯火は薄らいでいき、ふらふらとよろめきながら地面に尻もちをついた。


「ま、待って……助け……」


 噛み千切られた首筋を押さえながらハルが何かを言っているような気がした。

 けれど紬の聴覚は何も感知していない。

 視覚も――嗅覚も――触覚も――ただ一つ五感で機能しているのは味覚であった。

 ハルの腹に風を纏った爪を立てると、容易く皮が弾け、肉が爆ぜた。中身の臓腑を力の限り引きずり出す。精霊の力は青い果実で強化された人体をも容易く腑分け、ついにハルは肉塊へと変り果てる。

 両手にまとわりつく血を舐め取り、まずは小腸へと手を伸ばした。

 そぶり、と噛めば甘く美味な脂が口へと広がる。


 ――肝臓はどうか?


 こびり付いた土を払い、歯を立てると、これまた得も言われぬ上品な歯ざわりだ。


 脳も。


 ――美味也。


 目玉も。


 ――美味也。


 胃も。


 ――美味也。


 どれも得難い美味也。


 ――嗚呼、甘露。


「紬!」


 悲愴な声が紬の意識を美食の快楽から引きずり戻した。


「ヒスイ……さ、ま?」


 地面に蹲るヒスイは、何故かとても悲しそうな顔をしている。

 どうしてそんな顔をするのか、理由が分からない。

 背中を痛めているせい?

 それとも腕が折れているせい?

 きっと痛みのせいに違いない。そう結論付けた。


「のど、乾きました……」


 地面を這いずりながら近付いてくるヒスイを残して、紬は森を南下することにした。

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