最終章 青い果実 その六

 ふっくらとした満月が空の真ん中に居座り、人の目でも歩くのに困らない夜だった。

 紬は、囲炉裏の前で身体を横たえている。全身が鉛になってしまったように重い。腹が悲鳴を上げている。胃を針金で縛り上げられているような感覚が昼夜を問わず襲ってきた。

 やはり完全な精霊となることはできないのだと、実感させられる。


「紬。食事にしよう」


 毎日ハルは、食事を用意してくれる。

 一つはシチュー。もう一つはあの青い果実だ。


「さぁ食べよう」


 気だるさを押し殺してゆったりと上体を起こし、椀によそったシチューを匙で口に運んだ。


「うえっ!」


 口に入れた瞬間、吐き出してしまう。

 まずくて食べられたものじゃない。

 ハルがわざとまずく作っているのではない。大抵の人間が美味と感じる味のはずだ。しかし今の紬には腐った乳を口にしたように感じられ、とても飲み込めるものではなかった。


「無理はいけないよ。これを食べてみないかい?」


 そう言ってハルは、青い果実を勧めてくる。

 紬は果実から視線を逸らし、椀のシチューを一気にあおった。けれどやはり呑みこめず、椀の中に全部もどしてしまう。

 青い果実を食べて以来、身体があらゆる食べ物を受け付けない。例外は恐らく一つだけ――。


「紬、痩せてしまったね。君はただでさえ華奢なんだから、ちゃんと食べないとすぐに飢えてしまうよ」


 ハルは心底、紬のことを心配している風に言った。自らの言葉がどれほど常軌を逸しているか理解していない。まるで子供のような無邪気さだ。


「あれは人を食べるに等しいものです……それは禁忌というのではないですか?」

「君は……人狩りと一緒にいたんだよね。ならば彼の行為はどうなんだろう?」

「ヒスイ様の?」

「本来狩りというのは、自分が食べるものを獲るために行う行為だ。食べもしないのに、命を奪う狩りなんて無意味だとは思わないかい?」

「理を……守るためです」

「彼から逃げた、精霊成りの君が理を口にするのかい? それなら君は今すぐあの男に狩られてもいいのかい? 嫌だと思ったから逃げてきたし、ここにいるんじゃないかい?」


 ハルは容赦なく矛盾を突いてくる。


「理などという誰が決めたのかも分からないモノを守るために命を奪う人狩りと、命を繋ぐために人を狩り、果実にして食べる僕と一体どちらがより狩りという言葉に忠実なんだろうね」


 誘おうとする。外道の人狩り(ハル)の理に。


「君は精霊成りだから、人よりも頑丈にできている。でもなりそこないの君に残った人の部分が絶食を許さないんだよ」


 生きるために、ヒスイの元を逃げ出した。

 生きるためには、食べなければならない。精霊になれない紬は、食べなければ生きてゆけない。そして青い果実を食べれば精霊になることも叶うかもしれない。

 だとしても青い果実を食べる行為は、人の命を奪うということ。


「私は……食べません」

「それは君の自由だよ。僕は強制しない。ただ僕は君がどんな選択をしても蔑まない。それだけは分かってほしい」


 甘い言葉は毒だ。罪を罪と認識させなくさせる。空腹に負けそうになる。

 食を得るために生き物の命を奪うのは、あらゆる生命が行う普遍的な営みだ。

 人が人を食べるのは何故禁忌とされているのか?

 人の肉を食べるためには人の命を絶たねばならない。故に禁忌なのだ。人の血肉で実る果実を食べるのもそれと同義である。

 人が人の肉を食べるために人を狩るのは、絶対に踏み越えてはならない一線だ。

 理破りの精霊成りの身であれど、その一線だけは踏み越えたくない。だけどここにいたら、いつか自分の欲望に負けてしまう。甘い誘惑に身を委ねてしまう。

 一刻を早くここを出なくては。

 理性が訴えかけるも身体が言うことを聞いてくれない。心を奮い立たせることができない。


 ――何故?


 ハルの口から真実を聞かされた時もそうだった。彼の元を離れる決断ができなかった。

 どうしてもここにいる選択肢に感情が寄ってしまう。間違っていると分かっている選択肢を選んでしまう。

 このままここに居続けたら、きっとあの青い果実を――。


 こん、こん。


 玄関の木戸を叩く音が響いた。

 こんな夜半に尋ね人が来るとは、想像もしていなかった。


 ――もしかして……ヒスイ様?


 もしもそうだとしたらどうする?

 声を上げてここにいると告げるか。それともこの小屋から逃げ出すか。出入口は一つしかない。外へ飛び出したら狩られてしまう。ならば押し入れに隠れてやり過ごすか?

 ヒスイは、そんな手が通用する甘い相手ではない。仮に上手くやり過ごせたとしても紬の置かれた状況は変わらない。今はまだ抗えているが、いずれは欲求に屈する日が来る。そうなった時、紬は精霊のなり損ないよりも浅ましい何かへと堕ちてしまう。

 それならいっそ――。


「…………!?」


 声が出せない。ヒスイを呼べない。

 大きく口を開き、叫ぼうとしても喉が音を奏でてくれなかった。

 何が起きているのか分からず、困惑しながらハルを見やると、彼の人差し指が紬に向けられている。

 如何にも善人らしい笑顔の仮面を被ったハルが玄関の木戸を開けると、そこに立っていたのはヒスイではない。和装姿の若い夫婦であった。


「どうされました?」


 人懐っこい顔でハルが出迎えると、夫婦は息を合わせたようにお辞儀してきた。


「妻と旅をしているのですが、夜道で迷ってしまい……一晩宿を貸していただけないかと」

「それは大変だ。さぁ、どうぞ」


 ハルは困っている人を善意で助ける性根ではない。彼なりの打算があっての行動だ。その打算が何を意味するのか分からない程、紬は子供ではない。


 ――あの人たちを……青い果実に?


 危機を伝えなくては。

 叫ぼうとするが、やはり声が出ない。

 身体も金縛りにあったように動かず、座ったままの体勢を維持するしかなかった。それでも何とかしなければ二人が殺されてしまう。あらん限りの力を手足に込めるも、微かに震えるだけでびくともしない。

 必死の抵抗を試みる紬を尻目に、ハルは夫婦を小屋の中に迎え入れると、二人は草鞋を脱いで居間に上がった。座ったまま微動だにしない紬を夫妻は興味深げに眺めた。


「妹さんかしら?」


 妻の方が尋ねると、ハルが答えた。


「ええ。母違いの」

「だから髪と瞳の色が違うのね。綺麗な銀色……北方の方かしら?」

「妹の母がそうでした」

「そうなんですね。こんばんは」


 妻が会釈して笑いかけてくる。笑顔を一目見るだけでとても良い人であるが伝わってきた。


 ――逃げてください! ここにいちゃだめです!


 訴えようにも舌が躍らない。喉が震えない。舌と喉に手をかけられ、同時に握り潰されているような感覚だ。

 危機を知らせるため、何かしらの表情を作ろうにもこれもうまく行かなかった。顔の筋が凍てついたように硬直し、まるで言うことを聞かない。怒った顔も悲しい顔もできず、鋼で鋳造されたかのような無表情以外生み出せなかった。

 夫妻は無言と無表情を貫く紬を訝しげに見つめている。このまま違和感を抱いてハルの手中から逃げ出してほしい。


「妹が失礼を。幼い頃にかかった病の影響か。口がきけないものでして」


 だけどハルがそれを許さない。よく回る口先と愛想のよい笑顔は、夫妻が抱いた猜疑心をたやすく溶かしてしまった。夫の方は紬に深い同情を向け、妻はすまなそうに恐縮している。


「あら、ごめんなさい」

「気にしないでください。さぁどうぞ」


 薄気味悪いぐらい人懐っこい表情でハルは、木匙と漆の椀を四つずつ持って紬の隣に胡坐をかくと、囲炉裏の自在鍵にかかっている鍋を顎先で示した。


「口に合うかは分かりませんが」


 夫婦は遠慮がちに、ハルと紬と向かい合うように並んで座した。夫の方が鍋を覗き込み、中で煮立っているシチューへの好奇心を露わにした。


「こりゃ珍しい。洋風の料理ですか」

「シチューといいまして、妹の得意料理でしてね」


 夫婦は漆の椀と木匙を受け取り、シチューをよそい、口に運んだ。


「おいしいわ。妹さん料理上手なのね」

「こりゃいい奥さんになるよ。うちのにも見習ってほしいよ」

「失礼ね!」


 夫婦のじゃれ合いを嬉々として眺めながらハルは、シチューに口を付けるや眉尻を下げ、不快感に唇を歪めている。


「お二人とも申し訳ない……このシチューの出来はいまいちですよ」

「え? そうかしら? とてもおいしいわよ?」

「僕は、とても気に入りましたよ。妹さんはとても料理が上手です。これはお世辞じゃない」


 訝しむ夫婦を見つめながら、ハルは手にしていた木匙をシチューの入った鍋に投げ捨てた。


「僕には俗世の喰い物が如何にまずいかを知らしめる手段なんです。食とは快楽ですよ」


 突如ハルの纏う気配が変じる。嘘くさい善人の衣を脱ぎ捨て生来の殺意を剥き出しにした。


 ――逃げて!


「に……」


 紬の唇から微かに声が漏れた。


 ――しゃ、喋れる!?


 そればかりではない。手の指先も少しだが曲がる。

 ハルが何をしたのか分からないが、それは長時間持続するようなものではない。


「に……げ……」


 か細く掠れた声は夫妻に届いていない。

 もっと大きく、もっとはっきりと。


 ――お願い……逃げてください!


 抗う紬を嘲笑うように、ハルは懐に手を入れてするりと短剣を取り出した。鏡のように磨かれた銀色の刃に二人の獲物の姿が写り込む。


「真の美味を知れば、人は抗えない」


 夫婦が狂気の存在に気付き、生じた数瞬の怯み。ハルの描いた鋭い鋼の軌跡は、夫婦の喉を一撫でに切り裂いた。噴き出た鮮血がシチューの入った鍋に注ぎ、紅色に彩っていく。

 ハルは短剣を懐にしまい、右手で夫の襟首を掴み、左手で妻の方を同じようにして持った。


「もう喋ってもいいよ」


 ハルが紬に微笑みかけると全身を支配していた硬直が解けた。体中に巻き付いた糸から解き放たれたようだ。すぐさま紬は飛び跳ねる兎のような勢いで立ち上がり、夫妻の亡骸を運び、小屋を出ようとするハルの前に立ちふさがった。


「ハルさん! 私にいったい何を!?」


 腐乱した桃のような愉悦がハルの顔面に張り付いた。


「青い果実の守り人である僕は特別なんだ」

「特別?」

「果実を食した者を統べるんだ。木がある限り、君は僕に逆らえない……」


 一転してハルは、怪訝な顔つきをする。


「そのはずなんだけど君の精霊の部分が邪魔をするらしい。短い間だけ動きを止めたり、この場所に縛り付けるので精いっぱいのようだね」


 確かに最初は微動だにできなかったが、しばらくすると声も少し出せるようになったし、指先ぐらいなら動かせた。

 紬を狩られる対象にした精霊の部分がハルの魔手から遠ざける一助になっているとは随分な皮肉である。


「さて、急がなくては鮮度が落ちてしまう。よかったら付いておいで。実が生る瞬間を見せてあげるよ」


 ハルは、夫妻の亡骸を引きずりながら歩き出した。

 青い果実の生る瞬間なんて見たくもない。

 そう考えながらも紬はハルに付いていく選択をしていた。

 青い果実の洗脳か、それとももっと別の理由か。言い知れぬ予感が背中を押した。

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