最終章 青い果実 その五

 闇の中で甘美な匂いが香っている。匂いを辿って紬は歩いていた。

 眠っていたはずなのに、気付けば森の中を歩いている。ブーツを履き忘れて裸足であったが、夜の土の冷たさも、足が汚れることも構わなかった。

 この匂いを追いかけなければならない。そんな衝動に突き動かされていた。

 木々の枝葉の切れ間から注ぐ青い月明かりを縫って進んでいくと、視界いっぱいを赤色が埋め尽くす。


「輪廻草?」


 輪廻草が生い茂る中心に、一本の木が佇んでいた。人の背丈程の小さな木だ。幹は大人の男の腕程の太さで、捩じれながら伸びている。枝には葉が一枚も付いておらず、水気のない白い樹皮も相まって傍目には枯れ木に見えた。


「甘い匂い……ここから……」


 呼吸する度、甘美な芳香が鼻腔を焦らし、胸が締め付けられる。

 切なくて、恋しくて、しょうがない。紬が人生で初めて覚えた飢餓感であった。


「この木……どうして私は……」


 枯れ木に一歩、また一歩と近付いた。香りが強くなっていく。嗅ぎ覚えのある香りだ。


「これは……あの時の?」


 青い果実の香り。けれど青い果実は、やたらに金臭かったはず。枯れ木から濃い金気の匂いと何かが腐った匂いが漂う。周囲にあるのはそういう匂いだけで、甘い匂いなんて欠片も存在していない。だが紬は、それらを甘美な匂いだと感じていたのだ。

 枯れ木の根元から匂いが強く香っている。

 紬は膝をついて、地面を掘り返した。掌で土を掘る度に、香りが強くなっていく。やがて指に何かが絡み付いた。碧色の着物の切れ端である。土で汚れているばかりでなく、赤黒い染みがついている。鼻に近づけてみると、一層強く金臭さと腐臭を感じた。


「この匂い……なんだっけ……」

「思い出してごらん」


 振り返ると、ぼんやりとした人影が立っていた。ハルである。


「ハルさん……この匂いはなんでしょうか? 私はこれを知っていたはずなんです」

「よく思い出してごらん」


 ハルに言われるまま、考えてみる。

 嗅ぎ覚えのある香り。普通の果実ではありえない香り。青い果実が何かの香りに似ているのだ。着物の切れ端。そこについている赤黒い染み。この匂いと同じ香り。


「血の……匂い?」


 ようやく気付かされる。

 一体何を食べさせられたのか。

 一体何を食べてしまったのか。

 どうしてハルの父親が人狩りに狩られたのか。


「ハルさん……私が食べた青い果実のあの味は……」

「ああ、そうだよ。あれは人の肉の味だ」


 胃の中に残っていたものが喉まで込み上げてくる。

 咄嗟に両手で口元を覆った。吐き出したい衝動を上回る感情に支配されていたから。


 ――もったいない。あんなにおいしかったのに。


 自分が何を考えているのか、理解し、絶望する。だけど抗えなかった。どうしても吐き出せない。吐き出したくない。

 あんなに食べ物をおいしいと思ったのは、人生で初めての経験だった。

 天ぷらや卵焼きでも、あの果実の美味の前では足元にも及ばない。

 人の肉の味を絶世の美味と感じてしまっている。


「紬」


 ハルは、蛭のように下卑た笑みを浮かべて紬の頭を撫でてくる。


「君はもうこれなしでは生きていけないよ。僕もそうだった。一度食べてしまうとね。もうダメなんだ」


 ハルの手を払いのけて、紬は大きく一歩退いた。


「これは……人を養分に育つのですね」

「そうだよ。父さんが狩られた後、僕が引き継いだんだよ。この青い果実の生る木をね」


 穏やかな声だった。ひとかけらの罪悪感も紛れていない。


「私も、この木の……肥料にする気だったんですか? 私だけじゃない……妙さんや彼女が助けた精霊成りも騙していたんですね!」


 首を左右に振りながらハルは、惚れた女を愛でるように青い果実の生る木を見つめた。


「この木に精霊成りを与えても実はつかないよ。だけど、その代わりにとても木が元気になるんだ。だから妙さんが預けた精霊成りは皆肥料にした。君も肥料にするつもりだった。でもそんなことはもうできない」


 果実一つのために人の命を奪い去る輩の言葉だ。簡単に信用するべきでないのに、ハルが嘘偽りを口にしているようには見えなかった。


「……どうして?」

「君は特別だよ。あの村の生まれだろう。遅れ米の」


 思いもよらぬ単語がハルの口から飛び出し、紬はさらに一歩後ずさった。


「なんでそれを……」

「僕たちの先祖は同じ血筋だからね」

「同じ血筋?」


 紬とハルが同じ血筋で繋がっている。

 人を食する男と繋がっている。

 こちらの言葉にも嘘偽りの気配を感じない。

 思い出すのは燻りの森でヒスイから聞かされた話だった。

 紬の祖先は故郷を追われ、今の村がある大樹の墓場に辿り着いた。居場所をなくした人々がそこに築き上げたのが、紬の故郷の村なのだと。


「僕たちの祖先は、この青い果実の生る木を崇めていた。大樹ではなくてね。青い果実を食べて育った村の者たちは、普通の人間よりも目がいいんだ」


 ハルは眼鏡を外した。黒い瞳の奥底から青みがかった光が薄ぼんやりと零れ落ちている。


「この眼鏡もそうだ。あまりによく見えすぎてしまうから視力を落とすためにわざとかけているんだよ。僕たちの祖先は優秀な人狩りを多く輩出した。そして狩った者の亡骸をこの木に捧げ、木は実を授けた」


 何故居場所をなくしたのか、理由を知って心底納得させられる。


「だけどいつからか、周囲の村々や他の土地で生まれた人たちが僕らの先祖を目の敵にし始めた。外道の人狩りだと、死肉喰らいと」


 当然だ。居場所を追われてしかるべきだったのだ。


「そして青い果実の生る木は切り倒され、一本の枝を残して焼き尽くされてしまった。さらに残った枝を奪い合って村の者は争った。そして枝を手に入れた僕の祖先と枝を手に入れられなかった君の祖先は分かれたんだ」


 許されるはずがない。許されていい訳がない。


「僕たちは木を守るため、この森の中に人知れず暮らし、君たちの先祖は作物の育たない痩せた土地に追いやられた。しかし君たちの住んだ土地は、大樹の墓場だったんだよ。地下深くに眠る大樹の遺骸から生じる暴走した生命力は、作物の生育を妨げると同時に精霊を呼び寄せる。そして呼び寄せた精霊たちの影響で、遅れ米が君たちの里に実るようになったんだ」


 遅れ米と青い果実。人を犠牲にした実りで命を繋いできた紬の故郷とハルの一族は同じなのかもしれない。住む場所は違えども、命を対価にした実りの庇護の元で暮らしている。


「僕たちは分かたれながら再び出会って一つになる運命なんだよ」


 そんな運命に縛られるのはごめんだ。

 命を犠牲にしなければ得られない実りならば、そんなものなくなってしまえばいい。

 だけどなくなってしまったら故郷の村は?

 大切な両親と村の人たちは?

 あの土地で遅れ米なしに生きていくのは不可能だ。きっと皆飢えてしまう。

 それでは皆が飢えないために、あと何人の命を贄にすれば済むのだろうか?


「あなたは……今までどれだけの人を……」


 そして――。


「これから、どれだけの人を……」

「これから? ああ、大丈夫。君と僕が食べる青い果実の材料なら心配いらないよ。青い果実の材料には事欠かないさ。君も知っている紫電樹のシュウさんは僕と関係があってね」


 自分の若さを保つため人の顔の皮を剥いでいた我霊のシュウ。

 皮を剥がれて生き残った者は大樹の蜜を使って奴隷にしていたが、死んでしまった者はどうしていたのか。その答えが青い果実の生る木だ。


「シュウさんが皮を剥いだ遺体を蔦虫でここまで運ばせる。君と初めて会ったあの日も商談の帰りでね。彼はとてもいい取引相手だった。輪廻草のエリさんのことも僕がシュウさんに教えたんだ。二人とも狩られてしまって残念だけど、ああいう人はいくらでもいる。我欲で人を殺す者も、輪廻草の栽培者も。だからこの木は今でもここにある。これこそが人の世の象徴だ」


 故郷の村を出て旅をしても結局辿り着いたのは、命を対価に得られる青い実り。

 紬の人生はどう足掻いてもこの運命から逃れられないのか?


「最初は君も肥料にしようとした。でも君が握りしめていた巾着袋の中身が気になってね。寝ている間にこっそり見たんだよ。そうしたら遅れ米が入っていた。これは運命だと思ったよ。今の僕には君を殺すつもりなんてない。一緒に分かち合う人が欲しかった」


 そう語るハルの表情は、狂おしい程に朗らかだった。


「だからね、紬。君にも手伝ってほしいんだ。君のその力は、君が一番望むことに使うべきじゃないかい?」


 紬がそう望むように、果実を喰わせたのだ。罪を共有させ、欲に抗えなくさせるために。


「紬。君には僕しかいない。理を外れた者は、外れた者同士で群れて生きてゆくしかないんだよ。そうやって僕たちは生きてきたんだよ」


 ハルの言う通り、紬は理から外れている。

 だからと言って許されるのか?

 既に一つ外れているから。全てを野放図にしてもいいのか?


 ――そんなわけがない!


「そんなの許されるはずがありません!」

「精霊になれるとしてもかい?」


 ――今なんて?


「紬、この果実は大樹の在り方にとても近い。ヒスイさんから聞いたことはないかい? 精霊とは大樹が生き物の遺骸を再構築し、命を与えたものだと」


 旅を始めた頃、確かにヒスイが似たようなことを言っていた。

 大樹は生き物の亡骸を精霊に変えるのだと。実際に紬も故郷の近くにある大樹の若木たちが狐の亡骸を取り込む場面を目撃している。


「これもそうした性質に近い。大樹そのものではないけれど、この世で最も大樹の在り方に近い存在だよ」


 亡骸を再構築し、まったく新しい何かに変える。青い果実の生る木の在り様は確かに大樹と精霊の関係によく似ている。


「今の君は、精霊化が止まりかけている。半分人間半分精霊という状態だよ。けれど言い方を変えれば半分は精霊なんだ。大樹に近い植物が亡骸を再構築して生み出す果実。精霊と似た性質のこれを食べ続ければ精霊の側へ寄ることができるんだよ」

「私が精霊になれる? 今からでも精霊になれる……私が――」


 もしも精霊になれたらヒスイは許してくれるだろうか?

 もしも精霊になれたら一度だけでも村へ帰れるだろうか?

 もしも精霊になれたらこれ以上遅れ米の犠牲を出さないように村を変えられるだろうか?


「今すぐに答えを出さなくてもいい。でも君は抗えなくなるはずだ。君は、この手を一度とってくれたのだから」


 そう言ってハルは、笑顔で手を差し伸べてきた。

 紬は目をつぶり、拒絶する。その行為がどれほど無意味か知りながらも、そうせずにはいられなかった。

 希望が形をなし、優しい人が寄り添ってくれる。そんな都合のいい話があるはずがない。血で塗り固められた偽りの極楽に屈してはいけない。

 たとえ精霊になれるのだとしても、人の血肉から作られた果実を食べるのは人喰らいに等しい。紬が禁忌を犯したとすれば、ヒスイがどれほど悲しむか分からない。

 理を重んじる優しい人だからこそ、ヒスイは紬を狩ろうとした。袂を分かったのだとしても、これ以上ヒスイを悲しませる行為に身を委ねたくはない。

 けれど帰る場所のない紬は、ハルの元を去る潔さまでは持てなかった。

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