最終章 青い果実 その三

 常人の知覚を超えた精霊成りの瞳は、その飛翔物を捉えていた。

 朝の蒼い光の差し込む森の中で立ち尽くす紬の左胸を目指し、小さな鉛の塊が迫ってくる。

 鉛は、すずから貰った小袖の生地を引き千切り、皮膚を突き破った。堪えがたい熱が体内へ忍び込み、命を守る最後の砦である肋骨が粉微塵に砕け、破片が肉と内臓を痛め付ける。熱は一切の慈悲もなく、肉を裂きながら進み、そして心臓を食い破った。

 脱力した肉体が吸い込まれるように地面に倒れ伏す。立ち上がろうにも指先一つ微動だにしてくれない。

 翡翠色の双眸と銃口に渦巻く深淵が、横たわる紬を寂しそうに見下ろしていた。

 紬は思い知らされる。逃れられない運命を。これが生命の終わる瞬間だと――。


 ――これが死?


「いやあああああ!」


 悲鳴を上げながら紬は上体を起こし、周囲の様子を窺った。

 傍らには、火の消えた囲炉裏がある。自在鍵に掛けられている鍋の底にはシチューの汁が数滴と野菜のくずが僅かに残されていた。

 小屋の中には紬以外誰もおらず、一人きりだ。

 何故こんな場所に?

 ヒスイは、どこに?

 そんな疑問を自らに投げかけた。


「そっか……私は……逃げたんだ」


 返ってきた答えに落胆する。昨夜起きた全てが夢であれば、どれほどよかったか。

 この大和のどこを探しても紬の安全が保障されている場所はない。

 昨日は故郷の村に帰りたい一心であったが、帰った所でどうするのか?

 妙の言うように、両親に事情を話して一緒に逃げてもらう?

 真実を知ったら迷わずにそうしてくれる両親だ。けれどそれは両親がヒスイに狩られる対象になることを意味している。

 両親が狩られるのも、ヒスイに両親を狩らせることもしたくない。


 おまけにこの森は蛇時雨に近すぎる。ハルは安全な場所だと言っていたが、長く潜伏していれば、いずれヒスイに見つかる可能性は高い。

 犠牲を最小限に抑えるためには、誰にも頼らず逃げ続けなければならないが、誰かに頼らず生きた経験はなかった。

 故郷では両親に。旅ではヒスイに。今もハルに。料理の一つすら満足に作れず、金を稼ぐ手段だって持っていない。


 子供の紬にできることはあまりに少なく、今ですら空になった鍋を見て、昨日もっとシチューを食べておけばよかった、などと後悔している始末だ。食べ物すら誰かから与えて貰わずには生きてゆけない。そして尚も減り続ける腹具合が紬に宿命を突き付けた。

 せめて腹さえ空かないようになれば、今すぐにでもヒスイの元に帰れるのに。


「私、帰りたいんだ。ヒスイ様のところへ……」


 結局考えているのは、誰かに頼って生きる道ばかりだ。

 それならヒスイに運命を委ね、死を甘んじて受け入れるのか?

 否、それすらできない。

 死ぬのは怖いけど、誰かに頼らずに生きていけない。

 死にたくないけど、願望を最大限に叶えたい。

 自分が子供であることが恨めしく思えた。

 無力な子供にできるのは、ハルに迷惑をかけないようにするぐらいだろう。幸い彼は、外に出ているようだ。引き止められたらきっと決心が鈍ってしまう。

 今の内に出て行こうと、紬が立ち上がった瞬間、玄関の引き戸を開けてハルが小屋に入ってきた。背中には竹籠を背負っており、紬を見つけると唇にうっすらと笑みを灯した。


「おはよう。身体は痛くないかい?」

「身体?」

「布団敷かずに寝ちゃったからね。起こそうかとも思ったんだけど、疲れているみたいだったから」

「あの……ヒスイ様は?」

「ここへは来ていないよ。僕たちが生きているのがその証拠さ」


 ハルは背負っていた竹籠を土間に下すと、右手を中に突っ込んで何かを一つ掴んだ。


「朝ごはん採ってきたんだ」


 革靴を脱いで居間に上がり、手にしていたモノを見せてくる。

 それは楕円状の果実であった。

 大きさは大人の男の手に少し余る程。覚めるような青い果皮には、白く細かい毛が生えており、少々金臭い香りが漂ってくる。


 ――この色、遅れ米に……似てる?


 近辺で採れる果実であろうか?

 果実の形状は、不自然な程に均整の取れた楕円だった。熟練の木彫り職人が丹精を込めて磨き上げたような形状はとても自然物とは思えない。

 蛇時雨の大樹が近くにあるから、これも恐らく大樹のなせる業か。

 均整の取れ過ぎた形状と金臭い香りは、お世辞にも食欲をそそるとは言い難いが、わざわざ食料を取って来てくれた心遣いが嬉しく、紬は深くお辞儀した。


「昨日は、ありがとうございました。あと、ごめんなさい。助けてくださったのに、失礼な態度を取ってしまって」

「失礼な態度って?」

「食事の時、怒鳴ってしまって」

「ああ、あれかい。気にしなくていいよ」


 柔和な笑顔を向けられ、決意が揺れてしまう。

 このままハルと一緒にいると、もっと甘えたくなってしまいそうだ。


 ――お礼を言って、今すぐ出て行こう。


 そんな覚悟を打ち消すように紬の腹が音を鳴らし、空腹を強く訴えてくる。はにかんで俯いていると、視界にあの青い果実が割り込んできた。


「よかったら食べて」


 やはりお世辞にもおいしそうには見えない。だが、好意を無下にしてしまうのははばかれる。

 内心では渋々ながら、表面的には笑みを繕って果実を受け取った。

 手触りは赤子の頬のように柔らかい。普通の果実なら腐っていると勘違いしてしまいそうである。

 果実に歯を立てると、手触りに反して弾力があり、犬歯を使って噛み千切った。

 口内に染み出す果汁は、何故だか脂っぽくて金気の香りが強い。味も甘くはなく、強く感じるのは塩味だ。今まで食べたことのある、どの果実とも違う異質。


 だが止まらなかった。


 二口目、三口目、齧るたびに魂が震える。

 弾力のある果肉だが噛んでいる内に、ほろほろと崩れて溶けてしまう。そして噛む度に溢れる果汁は、塩気の裏に芳醇な旨味を隠している。これまで食べたことのある果実の食感やすっきりとした後味とは雲泥の差だ。


 四口目も五口目も自然と手が果実を口まで運び、咀嚼する。

 唇をとろりとした青い汁で汚しながら、まるで知性のない獣(ケダモノ)が獲物を貪るように食べ進め、気付いた頃には紬の手の内から果実は消えていた。


「相当お腹が空いていたんだね」


 確かに空腹ではあったし、果実も極上の美味であった。

 しかし、それだけとは思えない。

 何を食べさせられたのだろう?

 疑問は浮かべど、すぐに消え失せ、去来したのは一つきりの感情。


 ――また食べたい……もっと食べたい。


 食欲以外の一切が思考から抜け落ちる。不安と後悔からも解放され、羽のように心が軽くなった。

 口の中に残る果実の味が薄れると、次第に小さな後悔の火種が火の粉を上げ、やがて激しく燃え盛った。

 やはり紬は食欲に囚われている。その現状は何も変わっていないし、精霊成りの運命にハルを巻き込んでしまった。狩られるべき精霊成りを庇った罪は死に値する。誰かに頼る今までの生き方では関わった人全てを不幸にしてしまう。そんな身勝手を許してはいけない。


「ハルさん、ご迷惑をおかけしました」

「ご迷惑って一体何が?」

「全てです。私は、すぐにここを出て行きます。私のことも忘れてください」

「出て行ってどこへ行くんだい? 行くあてはあるのかい?」


 故郷へは帰れない。きっとヒスイが探しに来るし、紬を匿えば村の者の命も危うい。

 他の場所も同様だ。誰かと繋がりを持ってしまえば、その誰かに危害が及んでしまう。

 だから誰にも頼れないし、一つ所に留まることもしてはいけない。一人で旅歩き、一人で生きていく。生きる限り続く、永遠の孤独が約束されているのだ。

 それでもまだ生きていたい。


「どこへでも行きます。一人で」

「まだヒスイさんは、この近くで君を探しているはずだ。今下手に出歩いてしまうと、あの人と鉢合わせになるよ」

「分かっています。見つかる可能性の方が高いことは」


 生きていたいけど、誰かを巻き添えにしてまで生き延びようとも思わなかった。自分で選んだ以上、もう子供ではいられない。自らの意思で選択をし、行動するなら都合よく子供でいることは許されない。


「ここにいたらあなたまで狩られます。情け容赦のない人です。でも理からすれば、あの人は正しい。私が異質なんです。異物を排除するのは、生き物であれば当然のことなんです。風邪をひいたら治さなくては」


 感服したようにハルが柔和な笑顔を見せた。


「人狩りを世界の医師と呼ぶのは、中々に的を射てるかもしれない。でも僕は、杓子定規に規範を守り、尊厳すら無視するのは嫌いだ」


 紬の頭を撫でながら、ハルは玄関を見やった。


「大丈夫。ヒスイさんはここに来ないだろう」

「もし来たら?」

「上手くやるさ」


 ハルの顔には、確信と自信の色が浮かんでいる。

 絶対に紬を守り抜こうという意思を強く感じさせた。

 出会って間もない精霊成りをここまでかばう理由が分からない。

 ここまで親身になってもらえると却って不気味さが勝ってしまう。


「何でこんなに……危険を冒してまで親切にしてくれるんですか?」

「僕の父は、狩られてしまったんだよ」


 ――それは何故ですか?


 喉元まで出かけた疑問を飲み込んだ。

 聞くまでもない。狩られるに足る浅ましい行いをハルの父はしたのだろう。

 そしてハルはその浅ましい何かを受け継いでいる。

 そうでなければ自分の父が狩られた事実を語りながら、紬の耳に届く程の音を鳴らして両の拳を握り締めたりはしないはずだ。

 ハルは、子供を善意で救う善人などではない。新月の夜空よりも暗い何かを内側に秘めている。その暗部が形をなしたのが、あの青い果実だ。あれは間違いなく尋常の代物ではない。


「僕は、あの時理がひどく理不尽だと知った」


 狩られるに足るものが、ハルの中にも存在している。

 紬の抱いていた重荷は解けてバラバラになった。

 同じように狩られるべき者同士ならば、共にいて最後の時が来たとしても気負わずに済む。狩られるべき者が二つ狩られたにすぎないのだ。


「ここにいたいと思う内は、ずっといてくれて構わない。出ていきたいと思ったら出てゆけばいい」


 ハルが狩られるなら、責は紬を庇ったことではない。青い果実に伴う何かだ。この青年が抱えているのは、人の狂気の中でも最も淀んだ部類であろう。

 ハルと共にあれば狂気に飲まれる。けれど、ここを出てゆけばヒスイに狩られる。

 紬が生き延びる手段は、しばらくここにいる以外残されていなかった。

 それがどれほど愚かしい行為であるかを自覚しながら――。

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