最終章 青い果実 その二

 ハルに手を引かれるまま、とっぷりと夜に沈んだ森を走っていく。

 素直についていくのも打算あってのことだ。

 紬には土地勘というものが決定的に欠けている。ヒスイが追いかけてきたとして、彼のことだから、この周辺の地形についても詳しいだろう。

 ならば闇雲に動くより、同じ人狩りであるハルの案内に従った方が賢明だ。

 もう一つは、ハルの存在そのものが大きい。小銃を扱う人狩りに対抗しうるのは、同じ人狩りだ。いざという時の盾にするには好都合である。

 もちろんハル自身の素性が知れず、危険人物という可能性もあるが、ヒスイに追いつかれ、狩られる可能性と天秤にかけるなら前者の方が分のいい賭けと言えよう。

 それに時間は稼げるなら稼げるだけいい。紬に秘められている精霊の力は、既にヒスイが危険視する程高まっているはず。そうでなければ、狩るという判断は下さない。

 我霊を操るシュウですら、ヒスイに切り札の一つを使わせた。もしも精霊成りがより強い力を振るえるようになるのなら、ヒスイから逃げ続けることも可能かもしれない。


「紬ちゃん」


 紬の思案に割り込むように、ハルから声が上がった。


「僕の家は、森をさらに北に行った奥の方にある。そこまで行けば安全だ」

「すいません。あなたを危険に巻き込んでしまいました」

「気にしないで。もう少しで着くから」


 そんなやり取りを最後に会話も途切れ、言葉を交わさずに森を駆け抜けると、次第に木々の生い茂る密度が濃くなってくる。

 やがて鬱蒼とした巨木の群れに埋もれるようにして建つ小屋の影が一つ、紬の瞳に映った。


「あれが、あなたの?」

「ここから分かるのか。よく見えるね。そうだよ」


 近付いてくると、さらにはっきりと小屋の姿が明らかになる。質素な木造の小屋で、屋根や壁板は古びているが腐っておらず、しっかりとしたものに見える。

 ハルは息を整えながら引き戸を開き、まず自分が入ってから紬を手招きした。

 小屋の中央に囲炉裏があり、奥には押入れがある。土間には竈が二つあって、取っ手の付いた鉄鍋が一つ火にかけられており、くつくつと煮立っていた。

 燻りの森で輪廻草の密売をしていたエリの住んでいた小屋の間取りによく似ている。

 ハルは右手に鉄鍋の取っ手、左手に木匙と漆塗りの椀を二つずつ持ち、靴を脱いで居間に上がると囲炉裏の自在鍵に鍋の取っ手をかけた。


「さぁさぁ。何もないけど、どうぞ上がって」

「で、でもゆっくりしてたらヒスイ様が……」

「大丈夫。彼はここへは来られない」

「まさかヒスイ様を殺したんですか!? 蜜鳥で!?」


 自分の命を狙っている相手なのに、もしも死んでしまっていたらと考えただけで胸が張り裂けそうになる。理からすれば間違っているのは紬であってヒスイではない。

 自らが罪人だと自覚しているからこそ、ヒスイには無事であってほしいと願ってしまう。


「彼は人狩りだから蜜鳥の対処法も心得ているよ。あれはあくまで時間稼ぎのため」


 狩られたくないけど、殺したくない。解決できない自己矛盾をハルの声が溶かしてくれる。


「だけど安心して。彼はここへ来られない。そういう風にこの場所はできているんだ」

「来られないって、どうやって?」

「その説明をすると長くなるから、まぁ上がってゆっくりしてよ」


 そう言って囲炉裏の前に胡坐をかいて手招きしてくる。

 紬はブーツを脱いで居間に上がると、ハルと向かい合う形で囲炉裏の前に正座した。


「大したもてなしもできないけど、よかったらこれでも食べないかい?」


 鉄鍋の中では、白くて粘性の強い汁が煮立っている。芋や人参、桜鱒の切り身が入っており、表面の泡が弾ける度、乳の匂いが鼻腔をくすぐった。

 確か洋風の料理でシチューというものに見える。以前本で読んだ時、一度は食べてみたいと思った料理の一つだ。結局夕食の卵焼きは、殆ど食べていない。昼を食べたのが、最後の食事と言ってもいいだろう。

 しかしヒスイと妙の言葉を思い出し、紬は食欲を抑え込んだ。

 精霊は基本的に腹が減らないのだと。


「いえ。私は結構です」

「いらないのかい?」


 何も言わずに頷くと、ハルは笑顔でシチューの入った鍋を覗き込んだ。


「おなかが空いてるんだと思っていたよ。ここへ来たのは妙さんの紹介じゃないかい?」


 やはりそうだ。彼が妙の言っていた信頼できる人なのだろう。だけどまだ完全に信用はできない。ヒスイで失敗したのだから、今度は慎重に見極めなくては。


「妙さんとはどういうお知り合いですか?」

「彼女とは個人的な付き合いがあってね。彼女が初めて人狩りを殺した時、僕が彼女の犯行だと突き止めた」


 ハルは、人差し指で眼鏡を直して昔を懐かしむように天井を仰いだ。


「けど、事情を聞いたら狩る気にはなれなかった」


 娘を狩られた母親の怒りは、きっと炎よりも激しく、雷よりも荒々しく、暴風よりも猛々しい。自らの意思で止めることは叶わない。誰かに止められなければ、きっと止まれない。


「そしたら彼女は、さらに三人の人狩りを殺した」


 淡々と事実を列挙するように、ハルは言葉を紡いでいく。


「全員精霊成りを連れて地還しの大樹を目指していたんだよ。三人殺した後でも僕は彼女に同情した。狩られてほしくなかった。だから、遺体の処理をしようと持ち掛けたけど断られたんだ」


 何故、と問うより早くハルは答えた。


「見せしめだそうだよ」


 そうされるのが当然であるとでも言いたげに、ハルは破顔していた。


「人狩りの使ってきた小銃で人狩りを殺すこと。遺体はあえて隠さない。そうすることで人狩りに自分の罪と浅ましさを思い出させる、とね」


 優しい人であればあるほど、激情を発露する瞬間の熱量は増していく。怨敵を焼き尽くす灼熱の感情は、自らの魂をも焼いて壊してしまう。けれど妙の心は、猛火に包まれながらも灰にはなっていなかった。精霊成りを救わんとする良心が残っていた。


「ハルさん、人狩りが連れていた精霊成りはどうなったんですか?」

「彼女に頼まれて僕が保護したよ」


 この小屋には人気がない。保護した精霊成りがここに居ないことだけは確かである。


「どこにいるんですか?」

「ああ、今はいないよ。ここは安全な場所だけど、さすがに一つの場所に複数の精霊成りがいるとまずい。人狩りや獣、精霊なんかに見つからないよう各地を転々とさせているんだ」


 結局精霊成りは一つ所に根を下せない。狩られる恐怖に怯えながら命尽きる時まで旅歩く日々がこの先も続いていく。過酷な旅だ。

 それでも妙は、紬が生き残る可能性に自らの命を賭してくれた。紬を生かすために自らを贄としてくれた。

 理に背き、人狩りを殺した彼女は大罪人かもしれない。だけど紬にとっての妙は、故郷の母を思い出させる心優しい人でもあった。


「妙さん……」

「彼女がヒスイさんに狩られたことは仕方がない」


 ハルは、木匙で鍋の中身をゆったりと回し始める。


「覚悟していたはずだよ。君が生き残れたのならほっとしているはずだよ」


 囲炉裏の炭火に炙られて一層香り立つ匂いは、官能的ですらあった。


「とにかくゆっくりと身体を休めなさい。シチューでも食べて」

「シチュー……」


 これを一匙すくって飲んでしまえたら――。

 空想を巡らせた途端、紬の腹の虫が空腹を訴えてきた。

 咄嗟に腹を押えてハルを見やると、彼はしばし呆けていたが、すぐさま微笑みを取り戻して鍋のシチューを漆の椀にすくい取った。


「ぜひ食べてみて。一人用には、多く作りすぎてしまったんだ」


 ハルが差し出してきたシチューの入った椀から、紬は視線を逸らした。


「いえ! いりません。お腹は空いていませんので」

「お腹の虫は、正直だよ」


 認めたくない。

 自分が精霊にはなれない存在だと。

 狩られるのを待つばかりの身であると。


「あれは違います! お腹の虫ではありません。もっと別の何かです!」

「別のって、例えば?」

「えっと……例えば、お腹がいっぱいの時に鳴るお腹の虫のような……」

「いるの? そんなのが?」

「そ、そうそう! 精霊成りには、結構多いんですよ! 寄生されてるんです!」

「いやいや。さすがに聞いたことがないよ。やっぱりお腹が空いているんじゃ――」


 ――なんでそんなにしつこいの!?


「違います! やめてください! 空いてないって言ってるでしょ!?」


 思わず声を荒げると、ハルは椀を引っ込めてがっくりと項垂れた。


「ごめん。無理に勧めてしまって」

「あの……ハルさん、違うんです!」


 疑うばかりで、親切を踏みにじってしまったのではないか。

 物事の裏ばかりを見て誰も信じずに牙を剥き、自ら敵を作ってしまってはしょうがない。それに折角の気遣いを無為にしてしまうのが心苦しかった。

 紬はハルの手から椀と木匙を取り、シチューを口に運ぶ。牛乳の濃厚な風味と野菜の出汁が広がり、ざらざらとさかむけた気分をなだめてくれる。


「あったかい……おいしい」


 両親と過ごした村での安寧な日々。

 ヒスイと過ごした過酷なれど、学びの多い豊かな旅路。

 だけど彼との再会は紬の死を意味する。


 ――私、もう二度とヒスイ様には会えないんだ。


 取り戻せない大切な思い出ばかりが蘇り、頬を涙が伝い落ちていく。


「ごめんなさい……私は――」

「ヒスイさんに、精霊にはなれないと判断されたんだよね」


 もう疲れてしまった。死を恐れることも。嘘を貫くことも。いっそどちらも捨ててしまえば楽になれる気がした。


「……はい、そうです」


 紬が頷くと、ハルは右手を伸ばして囲炉裏越しに優しく頭を撫でてくれた。一緒に旅をしていた頃のヒスイのように。


「何も心配いらないからね。大丈夫」


 掌の温もりがもう一度、誰かを信じたいと思わせてくれる。

 燻っていた不安が蕩けて消えていく。


「今日は、もう休むといい」


 ハルに言われるまま瞼を閉じ、板の間に横になった。

 囲炉裏の炭の弾ける音と温度が微睡を誘ってくる。


「明日のことは、明日考えればいいんだよ」


 これから先、死を迎えるまで苦難が続く。せめて今だけは、何も考えずに何も感じずに、くたびれきった身体を休めておきたかった。

 母親のすずから貰った遅れ米の入った小さな巾着袋を握りしめて、紬は睡魔に身を委ねた。

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