最終章 青い果実

最終章 青い果実 その一

 紬は、雲間から注ぐ微かな月明かりを頼りに森の草木をかき分け、北に進んでいた。

 自らの命を繋ぐには、どの方角に行けばいいのか、直感的に理解できる。人としての力ではない。恐らくは精霊化した部分から生じる直感の類。

 人ならざる己が力を思い知らされる。だからヒスイは、紬を狩るのだろう。

 我欲のままに、精霊の力を行使する悪辣さは、シュウの一件で思い知らされた。あるいは思い知らせるために、あの仕事に同行させたのか。

 お前は理に反した危険な存在だと。だから死なねばならないのだと。

 妙は、どうなってしまったのだろう?

 ヒスイは、手練れの人狩りだ。薬を盛られたとしても簡単には殺されない。きっと生きている。そんな直感があるのだ。もしも紬の予感が的中しているなら妙は――。


「妙さん……」


 妙のことを振り払い、獣や精霊たちの言葉を思い出す。

 過酷だと口々にしていた彼らの言葉は、紬の運命に向けられていたのではない。ヒスイに向けられていたのだ。

 事実、獣も精霊たちも、紬を見て憐れと言ったことはない。皆の瞳はヒスイを見つめていた。ヒスイの運命を案じ、憐れんでいたのだ。

 ヒスイは獣や精霊たちに気に入られている。だから彼らに助けを求めた所で意味はない。ヒスイに差し出されるのがオチだ。頼れるのは、自分以外にいない。

 今はとにかく少しでも遠くへ。北の森へ逃げればどうにかなると妙が言っていた。そして叶うならば故郷に戻り、両親の元へ帰りたい。

 逸る気持ちが身体を前へ前へと押し出すが、怯えと困惑に震える足は空転してしまい、体勢を崩して顔から地面に突っ込んだ。

 立ち上がりつつ、顔と身体に着いた土を払い落とす。しこたま顔をすり剥いた割に出血はなかったが、鼻先にこびり付くひりひりとした痛みが前進する意志を苛んだ。


 ――なんでこんな目に合わなくちゃいけないの?


 好き好んで精霊成りになったわけではない。望んで精霊化が止まったわけでもない。

 ならば、この苦境もまた理なのか?

 何故理不尽に屈しなければならないのか?

 狩られなければならないのだろうか?


 一刻も早く逃げなければと理解していても、やはり考えてしまい、その度に足が止まってしまう。

 もしも逃げ出さずに話し合えたら、ヒスイは紬を殺さなかったのか?

 あるいは、もう少し猶予を設けてくれたのだろうか?

 きっと、それはあり得ない。理への忠義を尽くすのが人狩りの役目。ましてそれがヒスイならば、私情を殺して職責を全うするだろう。


 ヒスイが大切に思ってくれていること。情を抱いてくれていることは理解している。愛情深く接してくれた彼と過ごした旅の日々がその事実を教えてくれる。

 できるなら狩りたくないと考えているはずだ。けれどヒスイの心の在り様は関係ない。自分の心を無視できるからこそ、ヒスイは精霊たちや獣から重宝される人狩りなのだ。

 我を殺して理に従えるからこそ、ヒスイは優秀な人狩りであり、彼のそうした姿勢を紬は間近で見てきた。

 生き残る術は、ヒスイの元から逃れる以外にない。

 これで幾度目になるかも分からない決意をして、紬が北に向かって進もうとすると――。


「紬」


 ヒスイの声が紬の意識を凍えさせた。


「ヒスイ様……」


 岩のように硬直した身体を強引に動かして恐る恐る振り返った。

 ヒスイは感情の一切を浮かべずに翡翠色の眼で紬を見つめ、その両手にはしっかりと小銃を握っている。

 銃口から硝煙の匂いが漂い、鼻腔をくすぐった。撃ったばかりだ。

 では誰を?

 一人しかいない。


「妙さんを……どうしたんですか?」


 ヒスイは、何も答えない。


「答えてくださいヒスイ様!」


 ヒスイは、表情を変えない。


「……お前の想像通りさね」


 声の調子も平坦だ。


「あの人の事情は……」

「本人の口から聞いた」

「それでも撃ったんですか?」

「それが理さね」


 淡々とヒスイは告げた。

 まるで人形だ。

 理という糸に操られ、ものを考えない人形のようだった。


「理のためなら、あなたは誰でも平気で狩るんですね」

「そうさね」

「私よりも、理を守る方が大事ですか?」


 ヒスイは答える代わりに、銃口と紬の心臓を直線で結んだ。

 月の鈍い明かりを吸い込んで黒く輝く死の象徴がこちらを狙いすましている。

 旅に出たばかりの頃、いつか自分に向けられることもあるのかと考えたけど、彼の優しさに触れ、そんな考えは今日この時まで吹き飛んでいた。

 これまでの旅の日々で人狩りの仕事ぶりを眼に焼き付けてきたから分かる。逃れるなんてできはしない。抗うなんてできはしない。死を受け入れる以外にない。


 ――私……狩られちゃうんだ。


 ヒスイの指が引き金にかかった瞬間、夜を貫くような鮮烈な銃声が轟いた。


 死とは痛いのだろうか?


 苦しみはどれほど続くのだろうか?


 ぎゅっと目をつぶり、その瞬間を待つ――。


 けれど何も訪れない。

 静寂に耐えかねて瞼を開けると、ヒスイが木の陰に隠れてこちらを窺っている。

 続く発砲の音。しかしヒスイの銃からではない。紬の後方から響いた音よりも速く、ヒスイの隠れる木の樹皮が螺旋状にはじけ飛ぶ。

 もう一人、銃を使っている人間がこの場にいる。けれど銃は人狩り以外が持つことを許されないはず。

 いったい誰が?

 これが妙の言っていた助け?

 思考が混濁して動けずにいると、背後から男の声が響いた。


「大丈夫かい!?」


 振り返ると、丸ぶちの眼鏡をかけた黒髪の青年が小銃を構えて立っていた。温厚そうな面立ちと白いシャツに茶のベストとズボンという出で立ち。青年の姿は、紬の記憶にはっきりと刻まれていた。シュウの作った密蜂の闇の中で紬を助けてくれた人である。


「ハ、ハルさん!?」


 何故ここに?

 どうしてヒスイを撃ったのか?

 さすがのヒスイもハルの登場は想定していなかったらしく、木の陰からこちらを窺う顔には困惑が露わになっていた。


「あんたは、この間の……ハルだったか」


 戸惑うヒスイとは対照的に、ハルは眉一つ動かさずに小銃を構えている。


「ヒスイさん。この森は僕の土地だ。勝手は許さない」

「すまんね。しかしその子は――」

「この森での理は僕だ。紬ちゃん、こっちへ!」


 二人の人狩りの睨み合いが続く中で、紬は選択を突きつけられていた。

 ヒスイにこのまま狩られるのか。

 それともハルについていくべきか。

 妙が言っていた信頼できる人は、状況からするにハルだ。

 しかし彼が紬を助ける意図が分からない。理に背き、命を賭してまで救う利益は?

 大抵の人間が精霊に対して好意的に接する。紬自身もそうであった。だがヒスイと共に旅をしてきて、そうではない人間も多く見てきた。精霊を物のように扱う非道な者たちを。

 ハルの目的が分からない以上、迂闊についていくのは危険である。信頼なんて簡単に裏切られるし、甘言に乗せられるべきではない。ヒスイのことで、嫌という程思い知らされた。

 そう理性が訴えてくるも、本音では誰かに縋りたかった。


 ――だって一人は、寂しいから。


 紬は、ヒスイに背を向けてハルを目指して走った。


「紬!」


 引き留めるヒスイの声を銃声が遮った。咄嗟にヒスイが身を隠すと、標的を見失った弾丸が樹皮を抉り、砕け散る破片が花弁のように舞って月光の輝きを身に受ける。

 ハルが槓桿を引き、薬莢を放出した瞬間、狙いすましたようにヒスイは木陰から飛び出し、引き金を絞った。

 人の域を超越した紬の瞳は、弾丸の軌跡を視認させる。弾丸は紬ではなくハルを目指して進んでいく。弾道から推測するに狙いは胸の中央、やや左寄り。心臓だ。ハルを敵と認識して狩ろうとしている。

 直撃まであと紙一枚の間合いに迫った瞬間、ハルの懐から白い影が羽ばたき、弾丸を弾き飛ばした。巨大な鳥を象った紙は全身から蜜を垂れ流し、ヒスイを一瞥する。


「蜜鳥か!?」


 蜜鳥は琥珀色に輝く爪を振るい、ヒスイに飛び掛かった。


「紬ちゃん、今のうちに!」


 ハルが差し出した手をぎゅっと握りしめ――。


「さよなら……ヒスイ様」


 紬は、背後から聞こえる銃声と羽ばたきの音を振り切って、ハルと共に月明りすら届かない闇の中へと走った。

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