第四章 精霊成り その四

 瞼を開くと、翡翠色の瞳に狂気的な月の輝きが飛び込んできた。

 ヒスイが眩しさに目をこすりながら身じろぐと鈍い頭痛に支配される。

 仰向けの体勢のまま視線だけ動かして周囲を窺う。

 まず左を見る。道らしい道はなく、紫色をした針状の花を咲かせる大樹の若木で覆われていた。宿部屋から外に運び出されたらしい。地面には何かを引きずったような跡が一つだけ残されている。恐らくヒスイをここまで連れてきた時に付いたのだろう。

 右に視線を振ると妙が立っていた。ヒスイの小銃を構え、十歩程度の距離を取っている。


「お目覚め?」


 ヒスイを見下ろす両の目に、銀よりも冷たい光を宿していた。


「ああ……気分は、最悪だがね」


 全身を縛り付ける気怠さに抗いながら上体を起こすと、妙は一歩踏み出して銃口の照準を額に合わせてくる。


「動かないで」

「……紬は?」


 問うた瞬間、妙の口元に勝利の喜びと人狩りへの嘲笑が浮かび上がった。


「逃がしたわ。真実を伝えてね」

「そうかい」


 内心に浮かんだ焦燥を表に出さぬようヒスイは努めた。

 冷静を装うのは成功したらしく、妙は恨めしそうにヒスイを睨みつけた。


「あの子は、精霊化の見込みなしということ?」

「そうさね。腹の減りは、人の頃と変わらない。身体の方も出会った頃以上の変化が見られん。まぁ精霊化はこれ以上進まんだろうね」


 ヒスイがとつとつと語っていると、次第に妙の浮かべる感情が漉(こ)されていく。

 罪悪感。

 後悔。

 畏怖。

 憐憫。

 焦燥。

 残されたのは、清々しい程の殺意と憎悪だった。


「だからあの子を殺すの?」

「……それが理だ」

「聞き飽きたよ!」


 妙の小刻みに震える指が引き金にかかる。


「我が子の死を、理なんて一言だけで納得できるわけがない!」

「あんたも自分の子を狩られたか?」


 確信を突かれたのか、妙は唇を噛み締めながら一歩退いた。

 対照的にヒスイの舌は、畳みかけるように躍る。


「ここ数年、人狩りが殺される事件が起きていた。犠牲者は四人。足取りを追うと、全員が蛇時雨を訪れていた。最初の一人は岩で頭を殴り潰され、次からは小銃で撃ち殺されている」


 子供のように無邪気に破顔して、妙は鼻を鳴らした。


「どいつもこいつも命乞いをする様は、滑稽だったわ。人を狩ってきたくせに、いざ自分の立場になると怯えた小鳥のように喚いた。浅ましい連中だ。理のお題目で人を狩り、金子を得て飯を食う」

「言う通りさね。否定はせんよ」

「悪党ならともかく私の娘は……いい子だった。あんないい子を躊躇なく!」

「きっと、躊躇はあったろうさ」


 ――そう、俺だって……。


 不意に揺れそうになる信念を律するため、頭上に輝く月を仰いだ。

 今宵の月が放つ朧な光は、紬の髪の色によく似ている。


「俺も紬を狩りたくないさね。あの子が完全な精霊に成ることを願っていた」

「でも狩るんでしょう?」


 妙の瞳に浮かぶのは、憎悪でも嫌悪でもなく、眼前の人狩りに対して抱く憐みだった。

 理に縛られ、思考を放棄したモノ。同族の命を狩り、日々の糧を得る浅ましいモノ。その自覚は十二分にある。


 ――だとしても……。


「それが理さね」

「だから! 聞き飽いたと言ってるでしょ!」

「あんたが飽こうが飽くまいが――」


 理――。

 理――。

 理――。

 自分自身に言い聞かせる。

 どれだけ便利で卑怯な言い訳かを知りながら、砕けそうになった信念のひび割れに理を詰めていく。


「俺は、やるだけさね」


 立ち上がろうと地面に左手を付くと、妙の表情に殺意が戻ってきた。


「しびれ薬も飲ませてる。素早くは動けないわよ」


 絶対的な死を突き付けられる。今まで自分がしてきた行いを返されている状況だが、死への恐怖はない。

 日常的に触れ続けているせいで、生死の感覚が麻痺している。

 人を人足らしめる感情が欠落した存在は、人と呼べるのか?

 自問しつつも表情には出さない。

 大丈夫、慣れている。いつものように仕事をすればいいだけだ。

 飄々ひょうひょうとした笑みの仮面を被り、妙を見つめる。


「忠告しとこう。銃にもいくつか種類がある。あんた、その型の小銃を扱うのは初めてらしいな」

「何を言っているの?」

「安全装置が外れてないぞ」


 安全装置。小銃が暴発しないように組み込まれる機構の存在は、人狩り以外に知りえない。だが妙は使い方を理解する故、知っているはずだ。

 妙の視線がヒスイから外れ、引き金にかかった指の力が緩む。

 人の知覚からすれば極小の切れ間にヒスイは懐へ手を伸ばした。

 すかさず妙が引き金に指をかけ直すが、それよりも速く銃声が轟き、妙の左胸が穿たれた。咄嗟に小銃を手放して両手で左胸を押さえるも夥しい流血が体外に迸った。全身の力が抜けていくのが見て取れる。足も腰も言うことを聞いていない。立っていることは叶わず、妙はその場に膝を突いた。

 先程までヒスイを見下ろしていた妙は、銃口から硝煙が立ち上る小振りな銃を手にしたヒスイに見下ろされていた。それは外套の懐にしまえる程小さい銃で、短い銃身の後ろに蓮根のような形をした機構が付いている。

 翡翠色の瞳は子を失った母への憐れみと、それを覆い尽くす程の殺意を放ち、妙の背筋を冷気のようになぞった。


「動けるはずないのに……なんで?」

「あんた、人狩りを四人も殺したのに、目を付けられていないとでも? 精霊成りを連れ歩く人狩りを狙い、薬を使う手口も知っていた。だから先手も打てた。毒消しを常に口にしていたんだ。だから動けるのさね」


 ヒスイが紬と旅を始めてから常に口にしていた茶色い粒。あれは毒消しであり、定期的に飲むことで万が一毒を盛られた時、毒の効力を弱めるためのものである。

 しかしいくつもの想定外に見舞われてしまい、計画は大きく狂ってしまった。


 最初の想定外は、ヒスイが偶然入った定食屋の女将が犯人だったこと。

 蛇時雨に潜伏しているという情報は掴んでいたが、人物像についての詳細は分かっておらず、しばらく蛇時雨で調査して正体を暴く予定であった。そのため、犯人と分かっていたら口にしなかった料理をまんまと食べてしまい、一服盛られてしまった。


 二つ目は薬の効力が想定以上であったこと。

 当初の予定では、毒消しで完全に毒を無力化できるはずであったが、あまりに強力で短時間とはいえ動きを封じられてしまった。妙がヒスイを寝ている間に殺そうとしたら抵抗できなかったところである。


 三つ目が一番深刻で、紬が逃げ出してしまったこと。

 精霊成りの紬を連れてくれば犯人を釣れると思っていたが、下手を打ってしまった。


 紬を見極めるよう依頼したのは、彼女の故郷の村の土地に住む微細な精霊たちであった。

 人狩り殺しの一件を追っていたヒスイにとって精霊成りの存在は囮に使えるし、精霊化が進まない場合でも犯人が潜伏しているとみられる蛇時雨は、地還しの大樹への道中であるから好都合だった。

 しかし想定が甘かったことは否めない。

 精霊化が止まり、人の自我を持ったままの精霊成りを逃がしたばかりか、自分まで危うく殺されそうになったのは、どうにも繕いようのない大失態である。

 自身への苛立ちから小さく舌を打ち、小振りな銃を向けたまま妙に近付くと地面に落ちた小銃を拾い上げた。


「こいつは拳銃と言ってね。念のため知人から借り受けたもんだが、役に立ったよ」


 拳銃を懐にしまうと、小銃の安全装置を外して妙に銃口を向けた。


「一つ聞きたい。あんたは紬に北の森へ逃げるように言ったな」

「……聞こえてたのね」

「薄ぼんやりとね。あそこには何がある?」


 半死半生に追い込まれても妙の敵意はいささかも衰えていない。


「言うと思う?」


 力強い覚悟と気迫が全身から立ち上っている。いかなる拷問を受けたとしても口は割らないだろう。


「私も一つ聞きたい。人を殺すのはそんなに楽しい?」


 妙の問いかけは心の底を突き破り、魂にまで達して鋭くえぐってくる。


「何故この道を選んだの? 人を狩り殺し、金子を得るこの道に。親から言われた? 自らの意志ではなく」

「何故分かる?」

「そんな顔をしているわ。分かるの。あなたの瞳を見ていれば」


 ヒスイの生い立ちを言い当てたのは、恐らく推察からだ。

 そして推察とは材料がなければ成立しえない。


「これがどういうモノか分かっているらしいな」

「大樹の蜜で染まった瞳。尋常のモノではない。人狩りに拾われたんでしょう? そして人狩りになるよう育てられた」


 ヒスイのような特別な瞳を持つ人狩りは少ないながら他にもいるが、一般にあまり知られている情報ではない。この手の事情に詳しいのは、やはり同業者だ。


「ずいぶんと詳しいもんさね。お前さん、人狩りと繋がりがあるな? 何故人狩り殺しが人狩りと?」


 妙は沈黙を貫いている。沈黙は認めたのと同義だ。

 あらゆる銃器は人狩りしか持つことを許されず、人狩り以外に使い方が伝授されることもない。そのはずなのに素人にしては、妙の銃捌きは手馴れすぎていた。人狩りから直接手ほどきを受けていると考えるのが自然だろう。

 と、すれば可能性は二つ。

 一つは、一人目の被害者を殺した時、拷問して聞き出した。

 もう一つは、協力者の人狩りがおり、その人物から教えられたか。

 大樹の影響で染まった翡翠色の瞳が人狩りに重宝されることを知っている点を考慮すると、後者の可能性が極めて高い。

 理を犯した人狩りが北の森におり、紬もそこを目指している。

 ならばやるべきことは一つだけ。


「あんたの協力者は北の森にいる。それが分かれば十分さね」


 妙から引き出せる情報はもうないと判断して、ヒスイは照門を覗いた。

 絶対的な死を突き付けられた妙だったが、恐怖の色や生への執着は微塵も見られない。


「結局あんたは、誰でも殺すんだね。紬ちゃんみたいに、あんな可愛い子供でも容赦なく」


 引き金を引こうとした指が戸惑う。


「浅ましい奴ね。親の言いなりに人狩りを生業とし、理を盾に己の心を守っている」


 彼女の言葉は、真理をついている。


「あんたがこの世で一番浅ましいわ。狩りが楽しくてたまらないってやつの方がまだ欲望に忠実な分、可愛げもある。人らしくもある」


 人を狩る時感じるのは、引き金にかけた指先に相手の命運が伸し掛かる優越感でなく、人の命を指一本で容易く奪えてしまう罪悪感だ。


「そうさね。俺にとっても、この世界は不思議なもんさね」


 人を狩っているのに、獣や精霊だけでなく、人からも尊敬の念を受けることが多い。恐れられるよりも頼られる。世の矛盾を思わぬ日はない。

 過去の文明でも人が人を殺す行為は、禁忌であったという。今でも市井の人でなら、それは変わりないが、人狩りという全権を委任された者が同時に存在している。

 何故人狩りが、人を狩ることを許されるのか?

 何故人は、人を狩れるのか?


「人の心も、人の世も、歪に思えて仕方がない」


 人狩りの業を目の当たりにした人々が見せるのは、畏怖ではなく歓喜だ。狩りの対象が悪人と言えど、同種同族が殺される様を娯楽でもあるかのように鑑賞し、狩りを終えた人狩りに称賛の声を浴びせる。

 いつ自らを殺すやもしれないモノを崇める感覚なんて理解できないし、したくもない。

 浴びせるべきは、罵声ではないだろうか?

 抱くべきは、恐怖ではないだろうか?

 では、何故ヒスイは人を狩る?


 ――こういう生き方しかできないから狩ってるんだ。

 

 大樹の浸食を受け、翡翠色に染まった瞳は、誰よりも遠くまで見渡せた。翡翠色の瞳は、その昔から人狩りに重宝され、捨て子のヒスイは人狩りの家系に拾われて育てられた。

 義理の両親は多少なりとも打算はあれど、実の我が子と同じにヒスイを愛し、だからこそヒスイは人狩りになりたくないと言えなかった。

 両親から恩を着せられたことはない。人狩りになるのを強制されたこともない。それでも深い愛情を受けて育った捨て子に、親の期待に応えない選択肢は存在しなかった。

 もう捨てられたくないからと、親の望んだ生き方をしている自分は酷く浅ましい人間だと思った。

 自分本位で人の命を奪う生業を選ぶのは、この上もなく邪悪ではないだろうか?

 自分こそが狩られるべきではないのだろうか?

 仕事に訪れた土地で歓迎されるのも、仕事をこなした後に崇められるのも、自らの矮小さを思い知らせるばかりでしかない。

 心置きなく恨んでくれていい。それがあるべき人の姿だ。

 恨まれた方が楽だから。自分の在り方に目を背けていられるから。

 だから依頼者に薬莢を渡して重荷を分けている。いくらかでも罪を相手に背負わせてしまえば、少しだけ楽になれる気がしたから。


「俺自身、時折反吐が出そうになる。あんたの言う通り、浅ましいんだ。だから恨んでくれ。少しでも心が楽になるなら。俺たちみたいなのを疎むのが、本来のあるべき人の姿だ。それが本来の人だったんだ」


 だからせめて引き金を引く瞬間だけは、躊躇わずに引かねばならない。

 意味もなく、いたずらに命を奪われる恐怖を長引かせてはならない。

 さぁ心を殺せ。引き金を絞れ。浅ましくも悍ましい人という生き物らしく狩れ。


「ねぇ、向こうで娘に会えるかしら……」

「物事は、都合よくできていないもんさね」


 銃声より速く躍り出た鉛の弾頭は妙の心臓を射抜き、瞬く間に生命を奪い去った。


「だけど、会えたらいいなと思っているよ」


 消え入る程小さな声で呟きながら、ヒスイはズボンの左ポケットから胡桃を取り出し、地面に置いた。やがて胡桃の周囲の土が盛り上がり、一匹の土竜が顔を出す。


『人狩り殿。ヒスイ殿。どうやら娘は逃げたかね』

「大将追えるかい?」

『あの子の匂いは、覚えておる。さぁさぁ過酷な狩りの始まりじゃ。微塵の躊躇なく引き金を引けるかね、人狩り殿』


 土竜は声音に悲哀の籠った皮肉を残して土の中に潜ると、土が盛り上がり、北に向かって進んでいく。

 ヒスイは小銃を構え、土竜の作る土の盛り上がりを追って走り出した。

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