第四章 精霊成り その三

 蛇時雨に注ぐ夕日を反射して水滴の群れが踊っている。月が昇るのを今か今かと待ち侘びているようだった。

 やがて夜の帳が下りて月光の銀色が姿を見せると、水滴たちは満足したのか、眠るような安らかさで揺蕩っている。


「失礼します」


 ふすまを開く音に紬が振り返ると、妙が品書きを抱えて部屋に入ってくる。横になっていたヒスイは上体を起こし、品書きを受け取った。


「俺は鯖と酒でも貰おうか。米はいらんよ」

「はい。お嬢さんは?」


 外の景色に見惚れてしまって、夕飯のことが完全に頭の中から抜け落ちていた。


「えっと……」


 戸惑う様を見かねたのか、ヒスイが品書きを差し出してくる。だが今から色々と選んでいると妙を待たせてしまって申し訳ない。


「た、卵焼き定食で!」

「お昼と同じでいいの?」

「ぜひお願いします」

「はい。本当に気に入ってくれたみたいね」


 妙はくすりと笑みを零して頷き、部屋を後にした。

 ヒスイは妙を見送ると、視線を紬に移して呆れ顔を向けてくる。


「紬いいのか? 昼と同じので」

「はい。おいしかったですから」

「まぁ、お前がいいならいいがね」


 注文から二十分程待つと、妙が二つ重ねたお膳を持って戻ってきた。


「はい。お兄さんには、鯖と酒」


 ヒスイのお膳には鯖の乗った皿が一つ。皮の下で油が泡立っており、香ばしい匂いが漂ってくる。

 あとは陶器の白いぐい飲みと徳利が一つずつと、箸休めの浅漬け。浅漬けは昼間食べたモノと同じだ。

 妙は胡坐をかいているヒスイの前に、これらの乗ったお膳を置いた。


「おお。こりゃうまそうさね」


 言いながらヒスイは、ズボンのポケットから小袋を取り出し、茶色い粒を齧った。

 あんな苦いものを食べて味が分からなくなってしまわないのか?


「お嬢さんには、卵焼き」


 妙はヒスイと向かい合う形で正座している紬の前にもお膳を置いた。

 お膳の上には紬が昼間食べた卵焼き定食とまったく同じモノが乗せられている。


「本当に昼間と同じだけどいいの?」

「はい。すごくおいしかったですから」

「喜んでもらえて光栄だわ。たくさん召し上がれ」

「はい!」


 妙との会話は、すずと話しているような心持にさせられて、懐かしさと気恥ずかしさ、そして寂しさを覚える。


 ――もう二度と会えないのかな?


 ふと湧き上がる子供っぽい不安を誤魔化すように、紬は卵焼きを頬張った。


「やっぱりおいしいです!」

「よかった。お兄さん、酒はどうですか?」


 ヒスイは箸で鯖の身をほぐして口に運ぶと、ぐい飲みを一気にあおった。

 珍しく頬を蕩けさせ、少し赤みが差している。


「うまいね。梅の酒かね?」

「ええ。うちで漬けたものです。男の方にも飲みやすいように少し甘味を抑えているのですが……」

「ああ。甘過ぎなくてちょうどいいさね。うまいよ」

「そうですか。ゆっくりと味わってください」


 穏やかだった妙の声音が突如冷めていった。


「人狩り殿の末期の酒ですからね」


 突如ヒスイは糸が切れたように脱力し、お膳に乗った鯖や酒をまき散らしながら倒れ伏した。


「ヒスイ様?」


 紬が声をかけても微動だにしない。

 あまりに唐突な事態に紬の理解は追いつかず、反射的に再度ヒスイの名を叫んだ。


「ヒスイ様!?」


 やはり呼び声に答えてくれない。

 すぐさまヒスイに駆け寄ろうとしたが、それを阻むように妙が紬を抱きしめてくる。


「よくお聞き。精霊成りのお嬢さん」


 妙は紬の耳に氷のような声を注ぎ込んでくる。先程までの母と話しているような温かみは消え失せており、鼓膜を揺らす残響はひたすらに不愉快であった。


「ヒスイ様に何をしたんですか!?」


 体調不良で倒れたわけでないのは明白だ。

 末期の酒という先程の言葉も考慮するなら、妙が酒に薬か何かを盛ったのである。

 このままでは自分も何をされるか分からない。

 必死に妙を振り解こうとするが、妙は女のものと思えない力を両腕に込めて紬を抱き続けている。


「お嬢さん」

「放して!」


 腕を振り解き、ようやく解放された紬は――。


「あなた、あの男に殺されるわよ」


 妙の声に再び拘束された。


「え?」


 足が動かない。


「何を?」


 声が震える。


「あなたは、何を言ってるんですか……」


 彼女の声音に嘘の気配を感じない。

 その表情も真摯であり、紬の身を案じているのが伝わってくる。

 目の前にいるのが別人の顔に変わったすずだと言われたら信じてしまう程、妙が浮かべているのは純粋無垢な母性であった。


「さっき話したでしょ。人狩りが精霊成りを連れて、この辺りを通るって」


 聞く価値はある。

 むしろ聞くべきだ。

 紬の警戒心がそう訴えてくる。話を聞くなでも、言葉を信じるなでもない。どうしてか分からないが、妙の話を聞かなければならないという気にさせられる。

 ヒスイはピクリとも動かないが、静かな呼気が畳を撫でる音が聞こえてくる。今すぐに死んでしまうことはないだろうと踏み、妙と向き直った。


「妙さん。どういうことですか?」

「彼らの目的地が地還しの大樹と呼ばれているのは知っているわね?」

「はい。そこで私がいても自然の均衡を崩さない相性のいい土地を教えてもらえるって……」

「それは嘘。そこはね、精霊成りの墓場なの」

「……墓場?」

「人狩りは、そこに精霊成りを連れて行き――」


 ――そんなはずがない。


「違う!」


 ――ありえない。


「ヒスイ様は」


 ――絶対にそんなことしないはず。


「お優しい方です!」

「そうよ」


 妙は頷き、床に伏したままのヒスイを見やった。


「人狩りなんて進んで汚れ仕事を引き受けるような人間よ。けれどね、迷いもなく引き金を引けるかしら? お金のためだけに? 何の痛手も感じずに?」


 ヒスイですら、狩りの最中は感情をなくしたかのように冷酷な振る舞いを見せるが、仕事を終えてしまえば背負った重荷を依頼者にも背負わせている。

 命を奪うとは、たとえヒスイと言えど、一個の人間に背負い切れぬ重荷なのだ。


「あの人らも、苦しい生き方をして、辿り着いたのでしょうね」


 妙の瞳には、人狩りへの憎悪と尊敬が混ざり合っている。


「だから人は、人狩りに畏怖を抱きながら尊敬もする。彼らがいないと世は、混迷に陥ってしまう。理を守る者がいなくなってしまう」

「それなら、なんでヒスイ様を!」


 獣が咆哮するかのような雄たけびを上げて、妙の小袖の衿に掴みかかった。


「だけどね」


 紬の手を妙の手が包み込んでくる。

 暖かく、安らぐ、母親にしか醸せない温もりが宿っていた。


「納得がいかないこともあるの。あなただって、好きでそうなったわけじゃないでしょう?」


 何故彼女は、紬の境遇にこれほど親身になってくれるのだろうか。理由を推し測ることはできない。だけどヒスイが紬を狩ろうとしているというのなら――。


「私を納得させてください。ヒスイ様が私を狩ろうとしている理由を!」


 妙は紬の手を衿からそっと外し、屈んで視線を合わせてくる。


「精霊成りのことは、知っているわね」

「ええ」

「二通りあるのは? 多分聞いているはずだけど」

「二通り? 完全に精霊になる人と、ならずに人のままという話ですか」

「ええ。精霊成りには、二通りある。一つは、完全に精霊化してしまう者。もう一つは、精霊の力を持ちながら人の自我を失わない者」

「それが一体どうしたというんですか」

「あの人狩りは、精霊化が進行しない者をどうすると、あなたに説明したの?」


 初めて出会って旅に出た日、ヒスイの語った言葉を思い返した。


『完全な精霊になれば、お前さんは自然と俺の元を離れて生きていく。人に寄れば俺と一緒に旅を続けることになるだろう』


 思い出した言葉をそのまま妙に伝えると、彼女は心底から侮蔑を込めてヒスイを一瞥した。


「ものは言いようね。他には何て説明したの?」


 もしも完全な精霊になれなかった場合は、一生旅歩かねばならないのかと問うた時、ヒスイはこうも言っていた。


『いや。本来自然の異物であるはずの精霊成りと相性の良い土地もある。それを探すため、西にある地還しの大樹に向かうのさね』


 あれから一ヶ月経っているが、精霊成りとなっても自意識の変化は見られない。昔のままの自分であると断言できる。

 体内に住みつく精霊が人間の肉体と混ざり合い、自我が消滅する。けれど人間の側には精神面での変調はない。これをヒスイは、精霊成りにとって自然なことだと言っていた。

 その言葉も、紬の目を真実から逸らすための嘘だったのだろうか?


 仮に妙の語ったことが真実なのだとしたら、人狩りが精霊成りを連れて歩くのは、精霊成りにとっての安住の地を探すためではない。

 完全に精霊化するか、あるいはしないかを見極めるため。

 そして紬はヒスイとの旅を通して、人間の悍ましさと浅ましさを見つめ続けてきた。

 人間の自我を持った精霊成りが我霊と化したシュウ以上に精霊の力を使いこなせるのなら容易く世の理を破壊しうる。そんな存在を危険視するのは当然かもしれない。


 ――だから甘んじて死を受け入れろと?


 理解が追いつかず、どのような感情を抱くべきなのか分からない。

 妙は、放心している紬の両肩に手を置き、我が子を愛でるかのように擦った。

「精霊の奇跡を人の我欲で使い得る。精霊成りとは、そう言うものよ。世の理を壊しかねない異物。だからって、納得して死ねなんて言えるものですか」


 ――大好きな、大好きなヒスイ様に狩られる。


「妙さん……私……精霊にはなれないの?」


 ――そんなの嫌だよ……。


「……あなた、人と同じようにお腹が減るわね」


 ――なんで?


「精霊というのは、人程頻繁にお腹は減らないの。道中、あなたのお腹の減り具合をあそこの人狩りは、とても気にしていなかったかしら?」


 ――どうしてそれを?


 胸の底から吐き気が込み上げてくる。咄嗟に口元を両手で覆って押し殺した。


『腹は、減っていないか?』


 妙の指摘通り、ヒスイは過保護に思える程、紬の腹具合を案じてくれた。単なる親切心だと思っていたが、妙の話を聞き進める度、ヒスイへの疑念が膨らんでいく。


「地還しの大樹に辿り着く前に完全な精霊になってしまうならそれでよし。狩られることはない。けれど人の我のままに、精霊の力ばかりが膨らんでいく場合がある。あなたがそうよ」

「その判断基準がそんなことなんですか? お腹が空きやすいとか、にくいとか」


 腹が減るから殺される?

 不条理に憤りを覚えずにいられない。あるいは不条理に憤るからこそ人であるのか。

 これから精霊化が進まなければ、ずっとヒスイと旅をしていくのだと思っていた。時折怖いこともあるけれど、ヒスイと過ごす居心地の良い日常に終わりはないと考えていた。


「あの人狩りは、あなたが完全な精霊にならないと判断した。だから地還しの大樹に赴き、あなたを狩るのよ」

「私の安住の地って……まさか」

「そうよ。死以外、あなたに安住の場所はない」


 身体が震える。

 真実を受け入れまいと拒絶するように。

 妙の言葉を否定したいけれど、喉も舌も乾いてしまい、声を絞り出せそうにない。

 これまでの日々で築いてきたはずのヒスイへの信頼は今や薄氷に等しく、些細なきっかけ一つで脆く崩れてしまうだろう。


「逃げなさい」


 その一押しを妙がしてくる。


「あの人狩りは、私が何とかしてみせるから。ここから北に行くとある森に逃げ込めばなんとかなる」


 妙には、何かしらの根拠があるようだった。


「あの森には信頼できる人がいるの。きっと紬ちゃんを助けてくれるわ」

「でも!」

「あのね。私の子もね、あなたと同じだったの」

「私と?」


 妙は頷き、紬を抱き寄せた。


「大樹が近い影響か、ここは微細な精霊の気配が濃くてね。娘はあてられ、精霊成りになってしまった。私は、理だからと娘を人狩りに差し出したの」


 妙は、幼子にするように背中を撫でてくれる。

 すずもよくこうしてくれた。

 大切なモノをなくした時。大事な人が亡くなった時。涙が溢れて止まらない時。


「旅をしているのだと思っていた。娘を連れて行った人狩りは、とても人の良さそうな女の人。あの人になら任せていいと思っていたの。しばらくして、その人狩りがまた蛇時雨に来ているという話を知人から聞いたの。娘に会える! そう思って私はすぐに彼女に会いに行った」


 妙の声に後悔と殺意が滲み出し、どろどろとした音色を奏でていく。


「でも、娘はいなかったわ。代わりに別の精霊成りの子を連れていたの。だから最初は娘が完全な精霊になってどこかで暮らしているのだと思った。でも人狩りの顔を見て分かったのよ。私を見る目に宿る隠しきれない罪悪感。何が起きたのか察したわ」


 母親が子を失う痛みを紬は知らないが、紬を送り出したすずの様子を見れば理解はできる。

 紬が理のために、命を捧げるのだとしたら――。


「理なんかどうでもいい。娘を連れて逃げればよかったって」


 きっとすずも、同じことを言うだろう。


「あなたは里に帰りなさい。あなたのお母さんは、きっと真実を知らない」


 すずは、銀色に埋もれたあの村で団蔵と二人、紬の旅路に思いを馳せているはずだ。

 今は何処を歩いているのだろう?

 どんな人と出会い、どんな暮らしをしているだろう?

 ご飯はちゃんと食べているのか?

 風邪をひいていないだろうか?


「殺されるなんて知らないはずよ。精霊成りが長く土地にいると、その土地に精霊が集まりすぎて均衡が崩れる。だから精霊成りは、人狩りと共に旅をする」


 精霊の力によって稀に実り、以後実った村に数十年の安寧を約束する遅れ米。

 旅で得た知識や精霊の力で故郷の村を遅れ米に頼らず暮らしていける土地にしたいと願っていたが、むしろ紬が自分の意志で遅れ米を自在に生み出せるのだとしたら?

 毎年遅れ米を実らせることができるのなら、それは自在に黄金の粒を生み出せるに等しい。人の欲のまま無限に富を生み出せる存在は、理を超越した異質なモノであろう。


「きっとあなたの母親も同じように説き伏せられたの。だからしょうがないと、過酷だけれど仕方がないと」


 妙は紬を抱きしめる手を解き、両手で紬の頬を包んだ。


「真実を知れば、あなたを連れて逃げるはずよ。だから里に帰って真実を伝えてちょうだい。あなたの母親に」


 ――死にたくない。


「母さん――」


 ――会いたい。


「紬ちゃん。お母さんに、もう一度会いたいでしょう?」


 紬は頷き、走り出した。

 去り際、ヒスイには目もくれなかった。

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