第四章 精霊成り その二
紬とヒスイの入った定食屋は木造の四階建て。定食屋にしては珍しい造りである。
年季の入ったテーブルが二十脚程あり、そのほとんどが人で埋まっていた。
紫電樹の町の定食屋と違って電灯はない。
昼は太陽の光、夜は蝋燭に頼るらしく、屋内は全体的に薄暗かった。
反面活気の面では紫電樹の定食屋の上を置き、人々の談笑と美味への歓喜が電灯よりも明るく店内を照らしている。
「いらっしゃい。女将の
物腰の柔らかい
年の頃は三十の半ばに見える。相応に整った面立ちをしているが、女らしい色はあまり香ってこない。その穏やかな笑みと物腰は万人に安堵を与えるだろう。
ヒスイと紬は、妙に窓際の席へ案内された。
「ご注文は?」
妙が鈴のような声で尋ねながら、品書きをテーブルの上に置いた。
ヒスイは品書きを手に取り、はらはらとめくると、すぐ紬に手渡してくる。
「俺は、アユの塩焼きを」
早々の注文に負けじと品書きに目を通していく。
ヒスイに紬を急かす意図がなかったのは重々承知していたが、やはり待たせてしまうのは申し訳ない。そんな焦燥と反比例するように、蠱惑的な料理の数々が紬の食欲を戸惑わせた。
この定食屋にも、天ぷら定食がある。道中天ぷらのことを考えていたから、もう一度味わいたい欲求もあるが、紫電樹で食べ損ねた卵焼きも捨てがたい。
卵焼きに心惹かれるのは、女将の妙が丁度母親のすずと同じ年頃に見えるからだろうか。故郷を離れてしばらく経ち、母お得意のごちそうの味を舌が求めている。
「うーん。どっちにしよう」
「紬。ゆっくりでいいぞ?」
ヒスイを待たせるのも悪いが、それ以上に空っぽの腹に早く何か入れたかった。
「いえ。大丈夫です。卵焼きの定食をください」
「かしこまりました」
妙は陽だまりのような笑みを湛え、藍色の暖簾を潜って奥の厨房へ引っ込んだ。
「楽しみですね、ヒスイ様」
「そうさね」
呟きながらヒスイは、外套の内ポケットから小袋を取り出し、茶色い粒を取り出して口に放った。この茶色い粒をヒスイは定期的に食べている。
「それって、あの苦い粒ですか?」
「ああ。そうさね」
背筋も凍る苦味を思い出し、紬の口内に唾液が充満していく。
「あんなもの……ヒスイ様は、よく食べられますね」
「まぁ大人の味って奴さね。甘い卵焼きが好きな舌じゃ分からんだろうさ」
「あ! またいじわるを言って!」
最近のヒスイは、紬の扱いが雑になってきている。
出会った頃に比べると、互いに遠慮が無くなってきた証拠だ。
関係が深まることは嬉しいが、最初の頃の気遣いを求めてしまうのも人情である。
「ヒスイ様は、私がお嫌いですか?」
少しでも困らせてやりたいが、きっと適当なことを言って煙に巻かれてしまう。そんな紬の考えとは裏腹に、ヒスイは凍えたように顔を強張らせ、嘆息を漏らして沈黙してしまった。
「ヒスイ様?」
今まで見せたことのない反応を訝しんでいると、ヒスイは一転笑顔を咲かせた。
「嫌いじゃないさね。当たり前だ」
そう告げたヒスイはぎゅっと唇を結んで、憂い気に窓から外を眺めた。
どうにも声をかけづらい雰囲気だ。二人の会話は途切れて、長い沈黙が訪れる。
今日のヒスイは様子がおかしい。紬には理由が思い当たらなかったが、あのヒスイが感情をかき乱しているなら相当の何かがあるに違いない。
子供が悩む大人にしてやれることは少ない。幼い知恵や助言が役立つ方が稀である。そう自覚しながらも紬は、ヒスイの気がかりに対する好奇心を捨てられなかった。
「ヒスイ様――」
「お待ちどうさま」
ようやく発した紬の声を断ち切るように、妙が定食の乗った盆二つをテーブルに置いた。
紬の前に置かれた盆の中央で、卵焼きの分厚い黄色が輝いている。母親のすずが作ったものよりも焦げの割合が薄く、妙の料理人としての手際を窺わせる。
大ぶりな茶碗に盛られた白米の他には、わかめと豆腐の味噌汁と、胡瓜とかぶの浅漬けがあり、主役の卵焼きに彩りを添えている。
ヒスイの盆にはよく肥った鮎が二尾、塩を振って焼いてあり、他は紬の定食と同様のモノが乗っている。
「頂こうかね」
ヒスイは盆に置かれた箸を素早く手に取って、鮎の身をほじった。
きっと、これ以上詮索されたくないのだろう。
何も聞かないことに決めて、紬も卵焼きに箸を付けた。柔い弾力を箸先に残しながら、卵焼きが裂けていく。一切れの半分を口に入れると、程良い甘味と滑らかな舌触りが紬の不安と不満を溶かしていった。
米はふっくらと炊けており、おかずがなくとも一膳平らげられてしまいそうである。
さらに味噌汁のわかめから漂う磯の芳醇な香りと、浅漬けの爽やかな塩味が卵焼きを飽きさせない工夫になっていた。
盆の上の全てを迷わず美味と断言できたが、特に浅漬けは絶品だ。すずの作ってくれたものの上を行くかもしれない。絶妙な塩加減は米と卵焼きの甘さを引き立て、さらに味噌汁の塩味を邪魔しないため、浅漬けとみそ汁を交互に食べても喉が乾かない。
あまりの美味の応酬に堪え切れず、紬の頬がだらしなく緩んでいく。
そんな紬の様子を見つめる妙は、我が子を見つめる母のように微笑ましげだ。
「あらあら。おいしいかしら?」
「すっごくおいしいです!」
「ならよかったわ。たくさん食べてくださいな……にしてもあなた珍しい髪の色ね。あと瞳も」
首を傾げながら妙は、紬の髪を一撫でする。
唐突な指摘に、紬の思考が凍り付いた。
精霊成りとは、自然の理から生じたこと。こうなってしまったからと言って、やましい訳ではない。だが面と向かって尋ねられると、どう話せばいいのか答えに窮してしまった。
まだ精霊成りとなってしまった事実を受け止めきれないのか。もしくは別の要因があるのか。紬自身にも分からなかったが、何故だか正直に話すのがはばかられる。
「北方の血筋が混じっているの?」
「いえ。私は、その……」
「もしかして精霊成りなの?」
勘の冴えた女性だ。こうなってしまっては仕方なく、紬は頷いた。
「あの……はい」
妙の顔に驚きは微塵も浮かんでいない。心底納得しているようだった。
「時折この宿場町には、人狩りに連れられて精霊成りの子供たちがくるのよ」
「そうなんですか?」
自分と同じ境遇の子供がいる。彼らと会ってみたい衝動が紬を支配した。親元を離れる寂しさや、人狩りと共にある旅の楽しさと苦労を分かち合えたら、どれほど素晴らしいだろう。
「ヒスイ様。やはりみなさん、精霊成りを連れて地還しの大樹へ?」
紬はヒスイに尋ねたが、眉間に皺を寄せて小さな嘆息を漏らした。
「ヒスイ様?」
「ん? そうさねぇ。そのはずだ」
ヒスイは紬と視線を合わせず鮎の身を箸でほじっている。
やはり今日のヒスイは少し様子がおかしい。
卵焼きはとてもおいしいけれど、紫電樹の時と違ってあまり楽しい食事とは思えなかった。
紬とヒスイの会話が弾まないのを見かねたのか、明朗な声で妙がヒスイに言った。
「女の子連れの旅は、男の方には大変でしょう?」
「いや。むしろよく助けてくれているよ」
鮎を一匹食べ終えると、ヒスイは妙に視線を向けた。
「女将、話は変わるが、近くにおすすめの宿はあるかね?」
「なら、うちですね」
「お食事処ではないのですか?」
紬が問うと、妙は天井を指差しながら破顔した。
「二階を宿にしているの。食事の味は保証つきでしょう?」
卵焼きはもちろん、浅漬けも紬が人生で食した中でも最上級だった。
すずは、おいしい漬物を作れる人が本当の料理上手なのだと教えてくれた。母の言葉通りなら妙は紬の知る中で一番の料理人ということになる。
蛇時雨にここを上回る料理があるという保証はない。ならば一泊して、もう一度美食を味わうのが得策ではないか?
紬の熱の籠った視線に、ヒスイは苦笑しつつ妙を見やった。
「世話になっていいかね?」
「もちろん。ゆっくりとしていってくださいな。夕食もお好きなものを仰ってくださいね。腕によりをかけますから」
紬とヒスイが食事を終えると、早速妙は二人を二階の宿部屋に案内した。
宿部屋と言っても豪勢なものではなく、八畳一間である。
布団をしまうための押入れが入口から見て右にあり、左には小さな座卓と灯油ランプが一つ、入口と向かい合うように障子窓があった。
質素を絵に描いたような部屋であったが、紬の感情は旅先で初めて宿に泊まる興奮に飲み込まれている。
部屋を一しきり見回してから、紬は障子を開いて眼下の景色を眺めた。町行く人の群れを見下ろすのは、何故か征服感と優越感をくすぐられる。
時折吸の作った水滴が躍りながら二階まで上って来て、紬の目を楽しませた。
「ヒスイ様! これが宿なのですね! お泊りなのですね!」
「そうさね」
「私すっごく楽しいです! ヒスイ様と旅をできて本当に良かったです!」
「……そうさね」
初めて宿に泊まる興奮と期待感に支配された紬は、こちらを見つめる翡翠色の瞳に差し込む陰りにはまったく気が付かなかった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます