人狩り ~精霊成りの少女と遅れ米~

第四章 精霊成り

第四章 精霊成り その一

　黒くくすんだ岩盤のような樹皮を持つ木々が、紫色をした針状の花弁が敷き詰められた道を行く人々を見下ろしている。

　ヒスイ曰く、これも大樹の若木の一種であるらしい。

　枝葉の間を縫い、薄衣のような日の光にしか届かない深い森の中にある街道でありながら人通りは多い。

　紬とヒスイは、忙しなく行き交う人波に流されないように、牛歩で歩んでいた。

　旅に出てから紬は、村の外の気候について思うことがあった。

　故郷はとても雪深く、日蔭であれば雪の塊が初夏に差し掛かる頃まで残っている。だが村の外はいずれも雪が降っておらず、おまけに肌寒さも感じない。

「大樹の近くは、雪が降らないのですね」

「そういうわけでもない。お前の住んでいた村は、大和でも比較的北にあるからさね」

「今は、大和のどの辺りですか？」

「お前さんの故郷からずっと南に向かって歩いて……今はそうさね。ちょうど大和の中央かね」

「大和の中央は暖かいのですね」

「もうすぐ春だからなぁ」

「春ですか」

　故郷の村は、まだ雪に埋もれているのだろうか？

　一足先に春を享受する境遇に大きな罪悪感と僅かな優越感を覚える。

　春は恵みの季節。タラの芽やふきのとう。紬の好物である山菜もこの辺りでは芽吹き始めている頃か。

　山菜の天ぷらは、大変な美味であると本で読んだことがある。香ばしい衣に包まれた春らしい香りと爽やかな苦味は、きっと舌を楽しませてくれるに違いない。

　未だ知らぬ美食への欲求に、紬の腹の虫は正直であった。

「腹が減ったかね？」

「ええ。すごく空きました！　最近食欲は増すばかりです。春だからですかね？」

　紬がヒスイと旅を始めてから一月程が経過している。それもあって、紬は空腹を伝えることに羞恥心を覚えなくなっていた。

「……そうか」

　と、呟きながらヒスイは口元を緩めたが、何故だか寂しげに見える。

「ヒスイ様？」

　――何故そんな顔をするのですか？

　理由を知りたくて尋ねようとした瞬間、遮るようにヒスイが言った。

「もうすぐ宿場町に着く。そこで一泊していこう」

「野宿じゃないんですか！？」

　ヒスイからの珍しい提案に紬は兎のように跳ね上がった。

　思えば旅を始めてから宿らしい宿に泊まったことは一度もない。シュウを狩った紫電樹の時もすぐに町を出てしまい、結局依頼者である秋雨の元へ向かう道中も野宿である。

　故郷の村にいた頃も旅をしたことはなく、宿に泊まるのは紬にとって初めての体験だった。

「本当にいいんですか！　宿泊まっていいんですか！？」

「たまにはいいさね」

「やったぁ！」

　それから紬とヒスイはゆらゆらと歩き続け、大樹の傍らに作られた宿場町の蛇時雨に辿り着いたのは日も傾きかけた頃であった。

　蛇時雨の大樹は、一つの巨大な蔦がうねりながら百メートル程の高さまで伸びており、樹皮が蛇の鱗のように艶めかしく光っていることから蛇樹（だじゅ）と呼ばれている。

　蛇樹の周囲には、拳大から雨粒程まで大小様々な水滴が宙を浮かんでおり、大気の中を泳いでいた。

　蛇樹と呼ばれる大樹と浮かぶ水滴。それら二つが混在することから、この場所は蛇時雨と呼称されている。

　蛇時雨の膝元には計六十もの宿や食事処が軒を連ねており、客を得ようと店の軒先で店員たちが競うように声を張り上げていた。

　蛇時雨は、大和の中央という立地のため、紫電樹などの栄えている町へ向かう中継地点となっている。大抵の人間が蛇時雨で旅の疲れを癒してから、改めて目的地に向かうのだ。

　大和中から集まる旅人の往来によって、土が剥き出しの地面は固く平らに踏み均されており、まるで石を敷き詰めて舗装されているかのようである。

「――と言うわけさね」

　ヒスイは紬に蛇時雨について語り聞かせていたが、地理に疎い紬の興味は宙に浮かぶ水滴に吸い寄せられていた。

「ヒスイ様、あれも大樹の？」

　紬の切り替えの早さに少々機嫌を損ねたのか、ヒスイは数瞬唇を尖らせた。

「……そいつは虫さね」

「虫？」

　虫も大樹に寄り添い、その性質が変じたモノがいる。とは言え、元が獣に比べると下等な存在であるため、人のような知恵や言語を獲得できず、代わりに奇怪な生態を持つ種が多く存在する。

「虫は、水滴の中にいる。お前さんの蒼い目をよく凝らせば、はっきりと姿が見えるはずさね」

　目の高さに浮かぶ拳大の水滴を紬は凝視した。

　一見すると水滴しか確認できないが、よくよく見れば水滴の中心に微かに透明度の違う透けた球体がある。大きさは紬の小指の爪程だろうか。

　さらに目を凝らすと、中央の球体の中に黒い二つの点が躍っているのが見て取れる。

「黒い点……目があるのですか？」

「吸（きゅう）と呼ばれていてな。大樹の葉から養分を吸って生きている。目のついた透明の部分が吸の本体で、水滴は大樹の葉から栄養を吸い取った後の搾りかすさね」

「これが搾りかす？　ただの水じゃないんですね」

「大樹から水を取り出すことができる生き物は人間と吸だけ。しかも大樹を傷付けずにできるのは吸だけさね」

　虫の生態が人の技術を容易く置き去りにしている。

　人の知恵が浅いのか。それとも自然が優れているのか。

「すごいんですね。虫って」

「……ちなみに水滴だがな。絞りかすとは言え、大樹の生命力が浸透した水。かなりの美味と聞く」

「へぇ」

　美味と聞けば俄然興味もわいてくるもので、眼前の水滴に唇を付けて軽く啜った。

　――甘露。

　味覚を支配する蜜のような甘さに、思わず飲み込むのを躊躇った。決して不快な甘さだったわけではない。雑味を感じない純粋な甘味。

　一口目を飲み込んでから、二口目を含む。やはり蜜のように甘い。

　確かに美味。

　一度知ってしまったら蛇時雨に浮いている全ての水滴を飲み干せてしまいそうだ。

　けれど、不思議なことがあった。紬以外に水滴を口にしている者はおらず、しかも水滴を飲む紬を皆が物珍しそうに、あるいは可笑しそうに眺めている。

「とは言え、正確に言えば吸の小便だ。好んで飲むもんじゃ――」

　二口目を飲み込んでから放たれたヒスイの説明に、紬の腹の内で怒りの念が煮立った。

　いくらおいしくとも虫の小便となれば口にする者はいまい。まして嬉々として飲んでいる子供の姿など、滑稽に映って当然だ。

「ヒスイ様！　私が飲み込むのを待ってから言いましたね！」

「お前が手を出すのが早いだけさね」

　紬の顔は真っ赤に染まり、ヒスイと出会ってからこれまでで一番大きな声を張り上げた。

「いじわる！」

　さすがのヒスイも驚いたろうと様子を窺ったが、彼はいつも通りたなびく風のような佇まいをしている。

「さぁ飯にしよう」

「いつか仕返ししますからね！」

「まぁ、やってみるといいさね」

　紬は唇を噛みながらヒスイの背中を追って定食屋へ向かった。