第三章 燻りの森 その二

 小屋の引き戸を開けると、敷居に積もった灰が舞い上がる。ヒスイは、手で灰を払い除けながら中の様子を窺った。

 土間には小さな竃があるだけで、畳六畳分の居間の真ん中にある小振りな囲炉裏で炭が燻っている。障子や窓はなく、ただでさえ灰で薄まった弱々しい日光が玄関の戸口からしか差し込んでいない。戸を閉めてしまうと部屋は夜のように真っ暗になるだろう。

 囲炉裏の近くに竹で編まれた籠が一つ置かれており、赤ん坊の泣き声はそこから響いている。


 土足のままヒスイは居間に上がり、籠の中を覗き込むと眉をひそめた。彼が感情をむき出しにするのは珍しい。

 その反応が気がかりで紬も土足で居間に上がり、籠を覗き込んで息を飲んだ。

 赤ん坊は、肌も髪も瞳も翡翠色であった。

 爪や生え始めたばかりの歯に至るまで冴えるような翡翠色に染まっている。染料の溜まった池に落として、引き上げたばかりのようだった。


「この色、ヒスイ様と」

「そうか……やはりこれは、そういうことさね」


 愕然とするヒスイの面差しが、ヒスイとこの赤ん坊の共通点を示している。彼もこの赤ん坊と同じような境遇にあったのだろう。

 どうして赤ん坊の身体は鮮やかな翡翠色に染まってしまったのか?

 それを知るのは、ヒスイの生い立ちを知るのと同義だ。


「誰!?」


 紬の考察を断ち切るように悲鳴が轟いた。玄関を見やると、男のような短髪とはだけた濃紺の小袖が印象的な女が一人、荒い呼吸でヒスイと彼の手にある小銃を交互に見つめていた。

 かぶりつけば汁が零れるかのような瑞々しい容姿は子を産んだことがあるとは思えない。しかし赤子へ向ける瞳の光は腹を痛めた女のみが醸せる特有の熱を孕んでいる。

 ヒスイはこれを意にも介さず、その場に胡坐をかいた。


「名はなんという? あんたのだ」

「……エリ」

「あんたの子かね?」


 ヒスイの問いに頷き、エリはにじり寄りながら両手を伸ばしてくる。


「返して」


 ヒスイは銃口をエリへと向けた。イバラの棘のように研ぎ澄まされた殺意を前に、エリは居間に上がる寸前で歩みを止める。


「そ……その子は、関係ないの!」


 懇願を受けてもヒスイの信念がぶれることはない。赤ん坊を盾にした圧倒的優位は人道的には褒められないが、有効な手段であることは疑うべくもない。

 エリの縋り付くような視線が紬を貫いた。ヒスイが譲らないことを見抜き、子供の紬がヒスイに頼んでくれればと。

 だけど紬は、最後の希望を無言で打ち砕いた。何も思わないわけではない。ヒスイの行為を酷く悍ましいと思いながらも、黙認する自分がそれ以上の罪人に感じられた。

 それでも紬は動かない。ヒスイの邪魔をしないと約束した。どれほど浅ましい行為でも見つめ続けると誓った。

 紬の覚悟を思い知ったのか、エリはその場に崩れ落ち、好機とばかりにヒスイが口を開いた。


「何故輪廻草の栽培を? 母一人で養い切れぬと?」


 ヒスイの問いにエリは答えない。返答次第では即座に狩られるし、下手な言い訳をしたところで見抜かれるからだろう。


「旦那に先立たれたか? それとも、予期せずできた子供か?」


 やはりエリの沈黙は続いた。エリの頭の中でこの場を切り抜ける策を練り上げては崩れ、崩れては練り上げてを繰り返しているのが紬にも見て取れた。


「どれにせよお前さんは、輪廻草が何に使われるのかを知っていたな」


 白状した所で狩られ、沈黙しても結果は同じ。エリに打てる手は残されていないのだ。人狩りに出会ってしまった時点で彼女の命運は詰んでいる。


「シュウは死んだ。狩られたのさね」

「……あの男のついでに、あたしも狩りに来たと?」


 エリの眉間と頬の強張りが増していき、カミソリのような敵意をヒスイに突き付けた。


「あたしが好きで、こんなことをしていると思うのかい?」


 言い訳がましい語り口に腹が立ったのだろうか。珍しくヒスイの眉が苛立ち任せに跳ねた。


「已むに已まれぬ事情があると言いたげだな」


 ヒスイの声は、ふつふつと煮立った憤怒の念が音の形をして飛び出してきているようだった。


「ならば、多くの人と精霊の命を奪う手伝いをしてよいと?」

「あれをやったのはシュウだ! あたしじゃない! あたしはただ輪廻草を育てて売っただけだ! 買い手が何に使おうが知ったことじゃない!」

「シュウが何をしていたのか知らんとは言わせん。知っていて加担したお前さんも同罪さね」

「あたしは……」


 エリの瞳からぼたぼたと涙が零れ、鼻をすすりながら土間に頭を擦り付けた。


「あたしはいいから、子供は! せめて里子に!」


 如何なる言い訳も通用しない。人狩りからは逃れられぬと思い知らされても尚、母の情は己が命よりも我が子を案じている。

 鉛のような呼気を吐き出しながら、ヒスイは籠の中の赤ん坊の額を撫でた。


「冷たいようだが、こんな赤子を好き好んで育てる者はおらんさね」

「それでも! あたしの罪は、この子に関係ないだろう!?」

「そいつは正論さね。正直なところ、俺もそうしてやりたかった」


 葛藤に震えるヒスイの声は、やがて躊躇の色を含んでいった。


「……あんただけ狩って、子供はどうにか里親にと」


 狩るために子供は利用すれど、意味もなく人の命を奪わないのが人狩りだ。

 ましてやヒスイは、人狩りの理のためなら自我も私欲も殺せる男。そんな彼が感情を表に出している。きっと赤ん坊が自分と同じ翡翠色だから。


「だが、この子はもう無理さね」

「何なの? 何の話! あんたこの子まで!?」


 顔を上げたエリは、獣が如き殺意を纏っている。


「あんた、輪廻草を嗜んでいたな」


 ヒスイの指摘を受けた途端、エリの殺意が急速に萎れていく。


「乾燥させて燃やした輪廻草の煙には、幻覚効果がある。そいつを常用していたな。小屋の中を絶えず輪廻草の煙が充満していたはず。その結果がこの子の翡翠色だ」


 ヒスイが一音一音紡ぐ度、込められる悲憤の量が増していく。

 エリは何か言おうとするたび飲み込んで、鯉みたいに口を開閉させるばかりだ。


「大樹から生じた一部の特別な植物は大人が正しい方法で使うならともかく、まだ生命として曖昧な赤子の頃から常態的に触れていると、人の理を外れていく」

「でも元気だよ! お乳もよく飲むし、よく泣いて、笑って!」

「俺の瞳を見ろ」


 言われるままエリは、ヒスイの瞳を凝視した後、驚愕を飲み込むように口元を手で覆った。


「あ、あんたも?」

「東方の血筋の人間に、この瞳の色はありえん」

「で、でも! あんたは生きてるじゃないか!?」

「瞳だけだからな。だがこの瞳だけですら、昼も夜も変わらずものを見られる。尋常のモノではない。故に俺は、この生き方しかできなかった」


 夜を歩み、闇を渡り、同族を狩る。きっとヒスイには、生き方を選ぶ余地などなかった。理の根幹をなす大樹に近付きすぎて、理を守ることしか許されなくなったのだろう。

 生き方を選べないことは辛い。好き勝手に選べる人間の方が少ないのは確かだ。それでもたった一つしか許されないのは、この世で最も苦痛なことであろう。


「あんたの我欲が、赤ん坊の生き方を選んじまったのさ」

「……ど、どうにも……ならないのかい?」

「選べる中で楽に逝かせてやるのが俺にできる唯一のことさね。この子は、もう元には戻れない。世界に溶けていくだけだ」


 言い終えると同時に銃声が木霊する。

 耳障りな残響が消え失せ、赤ん坊の悲鳴が室内を埋め尽くした。

 うつ伏せになったエリを抱くように血だまりが広がっていく。

 エリの亡骸から視線を逸らしたヒスイは、紬の手から袋をそっと取り、小銃をしまった。


「紬、行こう」


 そう言ってヒスイは、足早に小屋を後にした。


 ――赤ちゃんはどうするの?


 母親を失い、泣き喚いている赤ん坊を見捨てることははばかられる。

 戸惑いながら小屋に留まっていた紬だったが、戸口から見えるヒスイの背中が小さくなっていく。観念した紬は、赤ん坊を残して小屋を飛び出した。

 追いかける紬の足音が聞こえたのか、ヒスイは一旦立ち止まると、紬が追いつくのを待ってから再び歩を進めた。


「あの……赤ちゃんは?」


 おずおずと紬が尋ねた途端、ヒスイは小さな嘆息を一つ零した。


「可哀そうに思えるだろうが置いていく」

「でも!」


 紬は、それ以上の言葉を飲み込んだ。嫌われるとか怒られそうとか、些細な理由からではない。

 追いつめるとヒスイを傷付けてしまいそうで、それが怖かった。

 無言のままヒスイの背中を追い、二人が燻りの森を出た途端、背後から熱気の壁が押し寄せてくる。

 燻りの森の木々が次々と猛烈な炎に抱かれて、天を目指すように火の手を伸ばしていく。


「あの子を連れて行くんだ」

「連れて行く?」

「あの子の焼け尽きた灰が、いずれ新たな実りの糧となる」


 炎に包まれた森を眺める翡翠色の双眸は一見すると冷たい。けれど彼の瞳から哀憐の情が滲み出しているのを見逃さなかった。


「ヒスイ様は……いえ、ヒスイ様も大樹の影響で翡翠色の瞳になったのですね」


 紬の問いに、ヒスイは皮肉っぽい笑顔を見せた。まるで自らを嘲笑しているかのようだ。


「赤ん坊の頃、大樹の下に捨てられていたのさね。衰弱した俺を生かすために、大樹が俺に蜜を飲ませた。育ての両親が見つけてくれるまで一ヶ月掛かった」

「育ての親は、もしかして人狩りだったのではないですか?」


 ヒスイは呆然とした後、苦笑して紬を見下ろした。普段滅多に見せない動揺は、紬の指摘が的を射ている証拠である。


「やはり……そうなのですね。夜ですら先を見通せる瞳は、人狩りにとって重宝されるのだと旅の最中に思い知らされました。人狩りとしてこの上もない才覚であるとも」


 昼も夜も見渡せる翡翠色の瞳は、人狩りを生業とするには絶好の代物だ。そういう打算があったからこそ、ヒスイの育ての親は幼少の彼を養ったのだろう。


「ヒスイ様は……こういう生き方しか選べなかったのですね」

「育ての親はいい両親だったよ。人狩りになることを無理強いされはしなかったさね」


 ヒスイの顔色には尊敬が濃く表れている。しかしその裏にかすかな後悔が混じっているのを紬の蒼い瞳は見透かしていた。


「いいご両親だったからこそ、人狩りになる以外を選べなかったのではないですか? 少なくとも私ならそんな気がします。良き人たちの希望だからこそ無下にはできない」


 優しい人に乞われればどんな無茶でも引き受けたくなる。

 良き人々の懇願程、ずるい行いもない。


「ああ。そうかもしれんさね。そうかもしれん」

「……よかったと言ったら、おこがましいでしょうか?」


 ヒスイにとっては、苦痛ばかりの人生だったのかもしれない。けれど、彼の目が翡翠色に染まっていなかったら、紬はヒスイと出会えていなかった。


「ヒスイ様に会えて私はよかったです」

「お前も選ぶことはできん道を歩まされているんだったな。大人の俺が愚痴がましいことを言ってすまん」

「いいえ。私は、選べなくても、たとえそれしか生き方がなくても、その人にとっての最善の生き方っていうこともあるんじゃないかって思っています」

「お前さんは、難しいことを言うさね」

「そうでしょうか?」


 悔しそうに笑いながらヒスイは、紬の頭を一撫でした。


「まったく敵わないよ。恨み言ばかりの大人より、聡く世を見抜いている」

「私は、まだものを知らないだけなんです。だからきっと綺麗事を言えてしまう」

「聡い人間が放つ綺麗事は、存外物事の芯を突いてるもんさね」


 轟々と火花を吐き出しながら燻りの森は猛り狂う。死を間近にして尚、大樹の生命力は莫大な力を秘めているのだ。


「大樹の寿命が尽きる瞬間は滅多に見れるものじゃない。しっかりと眼に焼き付けておくといいさね」


 終末の炎を見つめていると、微かに泣き声を聞き取れた。それはエリの赤ん坊の泣き声であり、けれどすぐさま泣き声は消え失せ、火の粉の爆ぜる音ばかりが残った。


「ヒスイ様」

「ん?」

「私は、何時かここに戻ってきて、種をまこうと思います」

「……そうさね。桜の苗木でも埋めようかね」

「さくら?」

「見たことはないか? 淡い桃色の花が沢山咲く綺麗な木さね」

「そうなんですか! それならいっぱいいっぱい植えましょう!」

「二人で……また来れたらいいさね」

「はい! また来ましょう!」

「いや、分からんぞ。喧嘩別れしてるやもしれん」

「大丈夫ですよ。私は聡いから芯を突いてるんです。私たちはきっと長く一緒にいますよ」

「……かもしれんなぁ」


 紬とヒスイは、一層激しく命を焼く大樹の群れに別れを告げた。

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