第二章 輪廻草と大樹の蜜 その三

 ランタンを手にした若い男が一人、へたりこんだ紬を心配そうに見下ろしている。

 黒髪に黒い瞳は、大和に元来住む東方の民である証だ。

 ヒスイと似たような洋装姿であり、左肩から黒く細長い袋を下げている。年の頃も同じであろうか。丸ぶちの眼鏡をかけた温厚そうな顔立ちだ。もう少し歳を取らせたら紬の父である団蔵に似ているかもしれない。


「……大丈夫です」

「立てるかい?」


 男が差し出してきた手を両手で掴んで、支えにしながら紬は立ち上がった。


「あなたは、人……ですか?」

「もちろん。僕はハルだよ。よろしくね」


 人のよさそうな笑顔だ。それに何故だか懐かしい感覚が去来する。初対面のはずなのに、昔どこかで出会っているようなそんな印象を覚えた。

 このハルという男は信用に足るような気がしてくる。精霊成りと化した故、本能的に人の本質を理解できるのだろうか。


「私は、紬と申します。ここで迷ってしまって」


 紬が頷くと、ハルは微笑を浮かべて繋いだままになっていた手を引いてくる。


「おいで。一緒にここを出よう」

「で、でも、一緒に旅をしている方がいるのです。その方を置いていくわけには」

「そっか。じゃあ一緒にその方を探そうか?」

「は、はい」


 ハルの纏う気配は、やはりどこか懐かしい。久方ぶりに親戚に会うような心持だ。隣にいてくれると少し安心できる。

 もしもたった一人でこの闇に居続けたら、雪のように冷たくて痛い恐れに耐えられず、心にひびが入ってしまっていただろう。


「本当に助かりました。一人で不安だったので」

「君たち精霊の目には、ここは夜の闇にしか映らないからね」


 どうやら勘違いをされているらしい。けれど紬は訂正しない。

 あまり言いふらしてよいことではないような気がしたから。


「私が……精霊だと?」

「髪と目を見ればね」

「この闇の中でも、私の姿が見えるのですか?」

「人にとって、ここは日中の世界さ」


 ――あれ?


 ふと疑問が浮かんだ。

 人の眼には闇でないのならハルはどうしてランタンを手にしているのだろうか?


「ハルさんのランタンは? それがなくても見えるのでは?」

「ああ……これは君に必要だと思ってね」


 実際ランタンの灯りのおかげで、ある程度近くにあるものなら見えるようになっている。

 精霊にとっては闇でありながら、人にとっては日中の世界。どのような原理でそうなっているのか定かではないが、ヒスイの忠告通り誠に厄介な場所である。

 おまけに輪廻草まであるのだから始末に負えない。土竜は危険なものだと言っていたが、具体的にどのように危険なのかまでは教えてもらっていなかった。


「そうだハルさん。輪廻草をご存じですか? ここにもたくさん咲いているのですが」

「知っているけど……闇の中なのに、赤い花だけが見えたのかい?」


 大層驚いている風だった。


「……はい」


 恐る恐る頷くとランタンに照らされるハルの表情は訝しげだ。


「この場に咲く輪廻草は精霊には見えないはずだけど……」


 しばし考え込んでから、ふと思い立ったようにハルが言った。


「君は精霊成りか」


 紬は答えることも頷くこともしなかった。

 やはり言いふらしてよいことではない気がしたから。


「なるほど……」


 ぽつりと呟くと、ハルの足が止まった。右脇に木造の簡素な造りの古い小屋が一つある。家というよりは物置であり、人が住んでいるようには見えない。


「……まずいな」


 ハルの目付きが蛇のように細くなり鈍く輝いた。彼の視線の先を辿ると、ランタンの灯りを浴びながら年輩の男が一人歩み寄ってきている。藍色の着流しをだらしなく着崩しており、顔のそこかしこに潰れたニキビの痕が刻まれていた。


「おい、あんちゃん。そりゃ精霊成りか?」


 ハルは答えない。

 紬も沈黙を貫いた。


「まぁいい。せっかくだから三人で楽しむか」


 着流しの男は、ペタペタと草履を鳴らして紬とハルの目の前で止まると、木造の小屋の引き戸を開けた。中には四畳の畳が敷かれ、その中央にボロの外観とは不釣り合いな分厚く真新しい布団が敷かれている。それ以外には、これと言って目立つものは置かれていない。


「紬ちゃん。走る準備を」


 小さな声でハルに言われ、紬は首を傾げた。


「おい精霊成り。まずは俺からしてもらおうか」


 着流しの男は帯を解き、下半身を露わにする。男が何をしようとしているのか、紬はようやく理解した。


「さぁ」


 着流しの男の艶めかしい声が紬の背筋を悪寒のように撫でてくる。両の腕を伸ばしてくる着流しの男をハルは片手で突き飛ばし、紬の手を強く握って駆け出した。

 間髪入れずに下品な足音が追いかけてくる。きっと着流しの男だが、紬には振り返って確かめる勇気はなかった。

 とにかく遠くへ。

 あるいは、どこか隠れる場所を。

 願いながら走り続けると、男の足音が遠くなっていく。

 元々紬は足の速さに自信があった。野山を走らせたら男の子にも負けなかったし、大人を含めても村では一番の健脚である。

 追いすがる足音が完全に消えた所で辺りを見回すと、先程の小屋と似たような小屋を一つ見つけた。


「ハルさん、ここで隠れて、やり過ごしましょう!」

「あ、紬ちゃん」


 ハルの制止も聞かず引き戸を開け放つと、煮詰まった汗の臭いが噴き出した。思わず顔を背けてしまう。口元を押さえて眼球だけ動かし、中の様子を窺った。

 小屋には先客が二人おり、中年の男が人とそっくりの身体つきをした猫のような獣に覆いかぶさっている。獣はきっと精霊だ。

 人間と精霊が小屋で何をしているのか、想像するまでもなく答えは一つしかない。

 紬は、戸を開け放ったまま茫然とした二人を残し、ハルの手を引き逃げ出した。


 ヒスイの言う厄介の真の意味を、紬はようやく理解する。

 精霊には闇で人には日中。そして触れてはならないと忠告された輪廻草。ここは精霊を逃がさないための仕掛けが幾重にも張り巡らされた場所である。

 蔦虫というのも、恐らくは精霊を捕まえるためか、客を送迎するための仕掛けの一つだ。ヒスイが蔦虫を褒められない理由で使う人工物と言った意味も理解できる。

 声の正体も分かった。精霊とまぐわい、快楽に溺れる人の声が獣のように聞こえたのだ。

 視線を左右に振ると、いくつもの小屋があり、そこから呻くような声が幾重にも重なって響いてくる。

 精霊はこの場から逃れることは叶わない。容易く抜け出せるようには作られていない。


「追いついた!」


 紬が振り返ると、着流しの男が闇の中でも見て取れる程、頬を恍惚の桜色で染めて迫ってきている。右手には短刀が握られており、切っ先はハルに向けられていた。


「独り占めは許さねぇ!!」

「こ、来ないで!」


 紬の悲鳴に呼応するかのように背後から突風が吹きすさび、着流しの男は紙のようにふわりと舞い上がる。

 この事態に最も驚いたのは紬であった。

 どのような原理でこの状況が生み出されたのかは分からない。しかしこの現象を起こしたのが自分だという自覚がある。人の領域を外れ、不可思議な力を行使できる存在。今まで薄かった精霊成りになった実感が強まっていく。

 しかし突風は瞬く間に勢いを失って凪と化し、着流しの男は尻餅をつく格好で地面に落下する。


「痛って!」


 着流しの男の発する欲望が爛れた情欲から瘴気を孕んだ殺意に移ろいでいく。


「来ないで!」


 もう一度さっきのように叫んだ。だが微風すら起きはしない。


 ――まさか?


 紬はさらに自覚する。今の紬は精霊成りであって精霊ではない。意志のままに力を振るえる程、完成された状態ではないのだ。


「このガキ!」


 短刀を振り上げて着流しの男が迫る。死を予感した紬の意識が真っ白に染められていく――その刹那、鮮烈な破裂音が大気を切り裂き、天へと昇った。

 周囲の闇が突如細切れになり、小さな羽を羽ばたかせながら散り散りになると、蒼い虹彩に白い光が濁流のように流れ込んできた。

 思わず目を細めたが、数瞬の内に光に慣れて周囲の景色が徐々に色づいていく。

 見渡すと、森の中に田んぼ三つ分程の広さが切り開かれており、小屋が十軒程密集している。その周辺を囲むようにして輪廻草が咲いていた。


「紬、大丈夫か?」


 小銃を空に向けたヒスイが微笑みかけてくる。


「ヒスイ様!」


 紬はハルの手を放して今までの人生で一番の俊足を発揮し、ヒスイの胸に飛び込んだ。小銃を手にしていない左手で紬の頭を撫でてから、頭上を舞っている小さな闇の破片を摘まんだ。


「ここを密蜂(みつばち)で隠していたか」


 ヒスイが闇を摘まんだ指に力を込めると、ぴちゅっと湿った音を立てながら押し潰された。指を伝い流れ落ちる闇は次第に琥珀色へと変じていく。

 一体なんなのか?

 そう問おうとした紬であったが、言葉を飲み込んだ。

 翡翠色の瞳が焼けた鉄の如き熱を孕んでいる。紬を追いかけていた着流しの男は、ヒスイの発する濃厚な殺意で釘付けにされ、その場に立ち尽くしていた。


「今すぐ消えるんなら狩らんでおいてやる。次その顔を見かけたら容赦せん」


 銃声のような響きを持ったヒスイの怒声に怯み、着流しの男は無言で走り去った。彼を追いかけるかのように、小屋の中から次々に人の男が飛び出し、どこへともなく散っていく。

 残されたのはハルと精霊たちだ。

 精霊たちは小屋から出ると日の明かりに顔をしかめている。


「なんと、なんと。夜が明けた」

「おう。夜明けだ、夜明けだ」

「助けてくれたのは、人狩り殿か?」


 皆、人に近しい形を持っているが、全身を獣の毛や蛇の鱗で覆われている者。面立ちが犬や猫など獣に似ている者。目や手足の数が人や獣と異なる者もいる。


「礼を言わねば」

「黄金の粒かね」

「白金かね」

「金剛石は、どうかね」


 精霊たちは、次々に礼の言葉を述べながらヒスイを囲んだ。


「いりませんよ。元の住処へお帰りください。ですが、お尋ねしたいことが」

「なんだね?」

「なんでも答えよう」

「人狩り殿、何が聞きたい?」


 群がる精霊たちにヒスイが言った。


「精霊の方々。ここの主の居場所に、見当は?」


 ヒスイの問いに、精霊たちは口々に答える。


「紫電樹の里だ」

「あそこにおるよ」

「シュウという男だ」

「酷く憐れな顔をしている」

「ああ、浅ましい。悍ましい」

「住処へ帰り、酒を飲もう」

「それがいい。それがいい」

「疲れたのう」


 精霊たちは呟きながら霞のように曖昧な像となり、空気の中に溶けていく。

 あとは紬とヒスイとハルの三人がいるばかりだ。紬が転んだ拍子に、どこかへ飛んで行ってしまった土竜の姿はどこにもない。


「ヒスイ様。土竜さんは?」


 気がかりを尋ねると、ヒスイは皮肉っぽく笑んだ。


「地中へ逃げたようだ。女の子一人置いていくなんて臆病な奴さね」

「あれは、私も混乱して走り回ってしまったので……でもヒスイ様は、よく私を見つけられましたね」

「密蜂の中は、人や獣にとって日中と変わらんのさね。闇と見えるのは精霊だけだ。まぁ俺の目にも少々暗く見えたが……」


 うっとうしげなヒスイの物言いに、紬は首を傾げた。


「ヒスイ様?」

「……とにかく無事でよかったさね」


 ヒスイの返答は、それ以上の詮索を拒むようだった。彼の心情を察し、何も聞かないことに決めた。


「あんたにも礼を言う。俺の連れが世話になったさね」


 ヒスイの会釈に、ハルは名前通りの朗らかで温かな微笑を返した。


「いえ。たいして役に立てず。むしろこちらが助けられました」

「あんたはここで何を? 連中とは違って客という風じゃないがね」

「ここの件は噂になっていましたからね。ですが、横取りをしようとするものではありません」


 ハルが左肩から下げた黒く細長い袋を見せると、ヒスイの頬が僅かに張り詰めた。


「なるほど、あんたも同業者かね。あの風はあんたが〝蜜の弾丸〟を? それとも紬が?」

「僕じゃありません。蜜の弾丸なんて貴重品持っていませんよ。その子と手を繋いでいたので、咄嗟のことに小銃を抜くのも間に合わず、ならばと〝蜜鳥(みつどり)〟を使おうか悩んだ矢先、紬ちゃんが風を起こして呆気に取られまして……何もできなくてすいません」

「気にしないでくれ。俺も人狩りだから気持ちは分かる。なるべく蜜鳥は使いたくないさね」


 二人の会話の意味をさっぱり理解できない。いつもなら蜜の弾丸や蜜鳥のことが気になってしまうが、現在紬の関心は自らが起こした風に向けられている。


「ヒスイ様、やっぱりあれは私が?」


 ヒスイは首肯すると、紬の左肩にそっと手を置いた。


「村に出た頃より精霊化が進んでいるんだろう。驚いたかもしれんが悪いことじゃないさね」


 紬とヒスイを微笑ましげに眺めていたハルの目付きだったが、次第に険しくなっていった。


「やはり紬ちゃんはあなたの?」

「そうさね」

「過酷ですね……でもあの風は吉報を運びそうだ。では、僕はこれで」


 緊張していたハルの表情が緩み、背中を見せた。


「あ! ハルさん、助けていただいてありがとうございました!」


 紬が声をかけるとハルは立ち止まって振り返り、微笑みながら会釈すると去っていった。

 ヒスイも紬の頭を撫でながら踵を返した。


「俺たちも行くとするかね」

「はい。ヒスイ様、どちらへ行かれるのですか?」

「ここの一件について依頼を受けていてね。その依頼者さね」


 ヒスイと紬が件の依頼者の元に辿り着いたのは、翌日の昼過ぎになってからであった。

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