第二章 輪廻草と大樹の蜜 その二
身体の芯までまとわりつく気だるさを懸命に殺し、紬は瞼を開いた。だが日差しは差し込まず、見えるのは瞼を閉じていた頃と大差のない闇だけ。
上体を起こして周囲を見回しても、立ち上がって頭上を仰いでも、同じ光景が広がっていた。
柔々と流れる風が小袖と袴に触れる。
ブーツの底から足裏に伝わる地面の感触はいたって普通の土のようだ。
これらを併せて考えると、ここは屋外でどこかに閉じ込められているわけではなさそうだ。
「夜?」
いや、夜ならば必ず聞こえてくる虫の声や頬を撫でる夜気の寒々しい感触がない。
つむじで感じる暖かさは、陽光が天から降り注いでいることを証明している。きっと蔦に絡め捕られてから大して時間は経っていない。
明らかな矛盾だが、ここは一面の闇でありながら野外の日中である。
ヒスイならば、この奇怪な状況を説明してくれるはずだが、近くに人の気配はない。はぐれてしまったようだ。
探さなくては、と足を踏み出した瞬間、右肩の上にふかふかとした重みがのしかかった。
『お嬢さん』
いつの間にか、紬の肩に土竜がもたれかかっていた。
「土竜さん! 大丈夫ですか?」
土竜は返事をせず、濃い闇が横たわる空を見上げている。
「土竜さん?」
再度呼びかけると、ようやく土竜は紬に顔を向けた。
『お前さん、今が昼か夜か分かるかね?』
土竜は土の中で暮らしているから目が弱い。昔読んだ本に書いてあった記述を紬は思い出していた。
「えっと、日差しの温かさは感じるのですが、真っ暗に見えます。まるで夜のように真っ暗です」
『なるほど、夜か』
頷きながら土竜は、またも空を仰いだ。
『僅かでも、こちら側に来とるようだな。
紬には、土竜の言葉の意が分からない。
こちら側とは?
何が僥倖なのか?
「それはどういう……」
吐き出しかけた問い掛けを紬は飲み込んだ。
土竜の意図が気にはなるが、今置かれている状況を脱することが先決だし、何よりヒスイの行方が気がかりだ。
「土竜さん。ヒスイ様を見かけませんでしたか?」
『人狩り殿を?』
土竜は周囲を見回してから訝しんだ顔をした。元来土竜に表情はない。その上、闇の中であるにも拘らずそうと認識できるのは、精霊成りと化した蒼い瞳のおかげだろう。
『知らんのう。わしは、お嬢さんと一緒にいたのだ。人狩り殿については、よう知らぬ』
土竜を助けたいという思いからの行動だったが、ヒスイの言いつけを破った結果がこの有様だ。もしもこのせいでヒスイの身に何かあったら、自分自身を許せない。
「どこに行ってしまわれたんだろう? 早く探さなくちゃ!」
紬が歩き出そうとした直後、土竜の険しい声音が鼓膜を揺すった。
『闇雲に歩くではないぞ』
「でも、ヒスイ様を探さないと」
『ここは人の世だが、精霊には夜の都よ。故に歩くでない』
――人の世?
土竜の言葉を鵜呑みにはできなかった。
新月の夜より深い闇は尋常で巡り合える光景ではない。精霊成りと化した眼(まなこ)ですら三歩先しか見えぬ世界。そうでありながらきっと時刻は夜でない。日中でありながらこの場は闇に侵されている。大樹の影響か。精霊の業か。
――どっちでもいい。
紬はわざと思考を止めて一歩を踏み出した。
『ちょい、お嬢さん! 話を聞かんか!』
立ち止まっているのは性に合わないし、どのような状況に置かれたとしても紬の欲求は変わらない。
精霊のように闇を恐れず歩き、人のように己が願望を叶えたい。相容れない矛盾を孕んでいるのは理解している。それでも紬はそうありたいと願った。
ヒスイを探したい。もう一度顔を見たい。
出会ったばかりだけれど、あの人を失いたくないと思った。
願いを糧に足並みを速めていくと、靴底の踏み締める感触が変じた。土の固さではなくサクサクとした柔い感覚。草を踏みつけているらしいが、地面にも闇が広がるばかりだ。
怪訝に思いながら顔を上げると、突如視界に満たされていた黒が薄らぎ、それと入れ替わるように赤が咲き誇った。
想定していなかった色の暴力に目が眩む。思わず瞼を閉じると、果実のような甘ったるい香りが鼻腔を撫でた。
「お花?」
色の正体は十三の菱形の赤く小さな花弁であり、ちょうど紬の目線の高さにある。花の大きさは小指の爪程で、支える茎も人の背丈程の高さがある割に針金のように細い。葉は一枚もなく、小さな赤い花が先端に咲いているだけ。
これまで一度も目にしたことのない花が、紬を取り囲むように咲き乱れていた。
――怖い。
紬の本能が花を恐れている。精霊としてか。それとも人としてか。あるいは両方か。
『怖いのも無理はない。これが名は輪廻草よ』
「輪廻草? どのようなモノなのですか?」
土竜の小さな瞳が輪廻草の深紅を映した。
『大樹より生じた異質な花よ。精霊と同じ場所から生まれた異質』
「とても綺麗だけど、何故こんなに怖く感じるのでしょう」
『お嬢さんの精霊としての部分が忌避させるのじゃ』
「この花は、精霊と同じ大樹から生まれたのに?」
『人とて、人を恐れるだろうよ。迂闊に触れぬことじゃ。厄介だぞ』
紬は右手を袖の中に隠して、輪廻草をかき分けた。花を押しのける度、咽そうに甘い香りが立ち上り、鼻で呼吸するのが躊躇われる。左手で口元を覆って走り、群生地から抜け出すと視界は再び漆黒に塗り潰された。
「ヒスイ様はどこに……土竜さん、どこへ行けばいいんでしょう?」
『だから知らぬよ』
「土竜様はお冷たい……」
『辛辣じゃのう……』
見当もつかず、立ち尽くすしかできなかった。
しばらくそうやって呆然としていると、
おおん――。
背後から、獣が呻くような声が木霊した。
おおう――。
今度は左側から同じような声がする。厳密にはまったく同じ声ではなく、少々声音が異なっている。
「この声は?」
『耳を貸さぬことじゃ』
おうおう――。
おーお――。
おう、おお――。
尚も声は止まない。止まないどころか四方から絶え間なく声が聞こえ出す始末だ。
人か。獣か。あるいは精霊か。
得体の知れぬ声は、混ざり合い重なり合って大気を震わせていく。音の増幅に比例して紬の中で燻っていた恐怖の念が火の粉を上げ始めた。
肩で休んでいる土竜はヒスイ程頼りになりそうにない。何か起これば頼れるのは自分だけ。
おおおおお――。
一際大きな声が轟いた瞬間、紬の理性は真っ白に塗り潰され、肉体の反射に任せて駆け出した。
『お嬢さん! 落ち着け!』
土竜の制止も耳に届かない。足を止めたらどうかなってしまいそうに思えたのだ。
『パーニクになるなら、わしをここで下してくれ!』
耳元で叫ぶ土竜の言葉を受け入れることを拒絶し、両足を全速力で回し続けていたが、突如足先がもつれて体勢を崩してしまう。
『巻き込まんで――』
体勢を立て直すことは叶わずに、紬は引力に身を任せるしかなかった。
『くれー!』
土竜の悲鳴がどんどん遠くなっていく。
「土竜さん!」
肩に土竜の姿はない。転んだ拍子にどこかへ飛んでいってしまったのだ。
足や身体に痛みはない。土竜を探しに行くために立ち上がろうとしたが、何故か身体全体に力が入らなかった。疲れているわけではない。右足左足と触れてみるが、やはり痛みはなかった。
畏れが紬の行動を縛り付けているのだ。闇に対して。孤独に対して。未知に対して。人が心の深淵に抱える根源的なそれは、理性が生み出した後付けの恐怖の概念とは違う。もっと原始的な存在であった頃から抱いていた感情は容易く拭いされない。
紬を蝕むのは、そういう畏れであった。
「どうしよう……」
話し相手以上にはならないが、近くにいるはずの土竜を探すか。
どこにいるか分からないが、状況を打開できそうなヒスイを探すか。
あるいは、どちらかが来てくれると信じてここで待つか。
どの選択肢が最善なのか?
「大丈夫かい?」
紬の思案を遮るように声と光が降り注ぎ、咄嗟に顔を上げた。
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