(二)藤京式と化粧


 姉のエルメが一歳か二歳の頃のことまでよく覚えているのに比べると、メルの持つ古い記憶は非常に曖昧である。

 誰かに貰った砂糖菓子を夢中で舐めていたことや、いつか出かけた時にユノンが着ていた着物の柄などを断片的に覚えているくらいで、寝物語や会話の類はほぼ忘れたと言ってもいい。


 唯一、幼い頃の記憶で明確に覚えていることがある。なぜかそのときのことだけは、エルメの表情もユノンの声も、不思議と鮮明に思い出すことができた。


「もうメルのお姉ちゃんやるのやだ」


 どうしてそうなったのかは忘れたが、ともかく、小さなエルメが泣きながらユノンの元へ駆けていく姿はありありと覚えている。


「メルが泣くとエルメが怒られるんだもん」


 泣いているときのエルメの声はいつも少し震えている。幼いメルにはその声がひどく怒っているように聞こえて、少し怖い。

 おそらくメルたちは、追いかけっこか何かをして遊んでいたはずだった。それでなぜエルメが泣いて抗議する羽目になったのか、それも忘れたが、とにかくユノンはエルメを抱き上げながら鷹揚に笑い、こともなげに告げたのである。


「ぼくはそんなことでエルメを怒ったりしないよ。でも、どっちが『オニ』をやるかはメルが決めてね」


「どうして?」


 か細い声でエルメがそう尋ねると、ユノンはそれが東世の習わしだからだと答えた。大人数で何かを決定するときは、伝統的に、最も年若い者に決断させる。子ども同士の遊びのときでもそうすることが多いのだという。


 ユノンの話をおとなしく聞きながら、エルメはずっと俯いて涙をこぼしていた。弟がいる限り、自分の希望が通ることはこの先一度もない、と宣告されたも同然で、もしかすると静かに絶望していたのかもしれない。


 一方メルもまたユノンの言葉に動揺していた。これからはエルメに、そう理解すると、徐々に得体の知れない不安がもやもやとこみ上げてきた。


 メルの記憶が鮮明なのはここまでである。

 おそらくそのとき、メルは声を上げて激しく泣いただろう。その様子はきっとエルメを苛つかせたに違いない。


 泣きたいのはエルメのほうなのに。

 メルはいつもエルメの気持ちを取っちゃう。

 エルメが泣きたいときにメルが泣くと、エルメは泣きたくても我慢しないといけない。

 二人で泣いたらお母さんが怒るから。

 でもお母さんが怒るのはいつもいつもメルのせい。

 ずっとずっと大嫌いな、悪い弟。


 ひとつ、メルにとって不可思議なことがあった。この記憶を取り出すとき、なぜか必ず海と砂浜の光景、舞台の上で伸びやかに踊るエルメ、そして霧が立ち込める森の匂いがともに蘇ることである。メルの記憶に付随するのはそれだけで、悲しく辛い気持ちを伴うわけでもなければ、歓喜や安らかな気持ちが沸き起こるわけでもなかった。


 髪を上げて踊るエルメは、かつて生まれ故郷で見た姿だろう。しかしそれ以外は、一体何の景色なのだろう。

 頭の中のことを聞く相手もいないので、メルはずっとそれがわからずにいる。



  * * *



 青の国の東の果て、藤京区の伝統的な衣服は「藤京式」と呼ばれ、他と区別されることが多い。薄い着物を何枚も重ねるため、他の地域のものと比べて嵩張り、形はゆったりとしている。藤京式の由来は不明であるが、少なくとも九百年以上前から存在しているという。

 東世の子どもはどこの国でも丸々と厚着させられるものだが、藤京式を着用すると、冬は大人も子どもも揃って着膨れる。


 藤京学院が定めた教師の制服も古典的な藤京式であった。薄い衣服を何枚も重ね、腹には四本の帯を巻くため、これを着ると実際よりも身体が厚く見える。


 フィオロンはかつて、まだ幼かったメルから「大きいひと」と言われたことがあった。隣でメルの手を握って立っているユノンのほうが明らかに長身であるのに、なぜかフィオロンを指して繰り返しそう言う。


「わたしは着ているお着物が大きくて厚いので、本当の身体よりも少し大きく見えるのですよ」


 そう説明したものの、メルはなかなか納得しなかった。どうやらフィオロンの着ていた藤京式が、当時のメルにはあまりに見慣れぬ『奇妙な衣服』だったため、ユノンや自分の着物とは比べものにならないほど分厚いということがわからなかったらしい。


 メルは危険なものとそうでないものの区別がつかないから目が離せない、とユノンは言った。


 いかにも幼い子どもらしい、と笑って頷いたが、よくよく考えてみれば、メルは東世に来て間もないのだから、ユノンを困惑させているのは子どもらしさとはまた別の無知のためかもしれない。

 もし、フィオロンが幼い時分にたった一人きりで冥裏郷を放浪することになっていたら、つまらない間違いであっけなく命を落としただろうか。そうかもしれない。とてもではないが、笑って相槌を打っている場合ではないだろう。と、なぜか落ち着かない気分になった。


 東世では『異質』ともいえるこの子らが、果たしてこの先どのように成長するのか。他の子とは似ても似つかぬ者になるのか、それとも東世の子として他の子どもと何ら変わらぬ者となるのか。果たしてどちらが彼らにとってのだろう、と、フィオロンはほんのひととき思考を巡らせたが、すぐにそれを止めて口を開いた。


「この姉弟が栄秋えいしゅうになるまでは、わたしにもできる限りのことをさせてください。これも巡り合わせです。せいぜい十二年程度ですからねぇ。この際ですから、労も金銭も惜しまないことにしましょう」


 と、ユノンへ申し出たのである。

 あまり深くは考えなかった。植物の苗を与えられたとて、好みの花を咲かせようなどという努力はしない。

 生きるものにとって『良いこと』とは、自然な成長を可能な限り阻まれないことだ。大雑把に言ってしまえばそれに尽きる、とフィオロンは思う。


 知狎は彼らを東世の人間として扱うという。ならば、彼らのありのままの魂を健やかに育まなくてはならない。もともとフィオロンは信心深いのだ。どんな魂も神に創られたとうといものである。ゆえに人はすべての魂を尊び大切にしようと努めるのが良い、と説かれて育った。


 以来、理天ではユノンが、藤京へ滞在する際はフィオロンが、それぞれ姉弟の教師役を務めている。


 あれほど小さかったメルも、第二月を迎えてようやく若秋となった。が、フィオロンの目にはメルもエルメも未熟な子どもに映る。彼らをつぶさに観察している理天学院の教師らも、フィオロンと同じように感じていることだろう。


 ただ、研究士たちがあの姉弟をどのように見ているのか、フィオロンにはほとんど想像がつかなかった。彼らにとってエルメとメルは理天育ちのただの若者ではない。是非にでも傍へ置いておきたい特別な存在であるはずだ。


 フィオロンは歩きながら袖の中に手を差し入れる。ユノンから届いた書簡があることを今一度確かめると、学院の西端、各国の研究士が休養するためにあつらえた『迎賓舎』へ向けて、静かに歩を早めた。



  * * *



「あー、フィオロン先生、お久しぶりです」


 迎賓舎の前で裸足で伸びをしていたソンテは、そう言いながら佇まいを正し、顎の前で自らの両手を重ねた。

 親指以外の四指を閉じ、指の腹は自分のほうへ向ける。そして最後に相手の方へ少し手を倒す。


 東世の基本の礼は元来この型であるが、現在は両頬に手を当てたり、両腕を広げる仕草のほうが人々に好まれているため、寺院の外ではあまり使う機会がない。ただ若秋の頃より北苑の神僧を務めるソンテの場合、自然と手が顔の前に出てしまうらしい。


 フィオロンもソンテに倣って一礼する。フィオロンは幼少期のほとんどを寺院で過ごした。今ではほとんどしないこの型も苦手ではない。


「言われてみれば、少しお久しぶりですねぇ。また神様が離してくれずに北苑から出られなかったのですか」

「逆ですよ。ずっと向こうへ行ったきりだったんです。はー、さすがに疲れました」

「ずっと、とは? 法師と最後にお会いしたのは先月だったような気がしますが……あれきり、一度も戻っていなかったのですか?」


 フィオロンは思わず空を仰ぎ、両手の指で日にちを数えた。朝を迎え、今日は第二月二十日だ。


「確か、先生と酔っぱらって吹雪の中駆け回ったのが一月三十日で、おれが冥裏郷へ渡ったのが二月一日ですね」

「ああ、そう、雪が多かったですからね、今年はねぇ、雪が、たくさん降りましたからねぇ……」

「まったくです。雪があんなに降るからいけない」


 ソンテは周囲に投げっぱなしにしていた靴を拾うと、フィオロンに迎賓舎の中へ入るよう促した。それはいいが、とフィオロンは少々顔をしかめる。


「法師。いつものことですがね、お酒を飲んだときのお話は内緒ですよ」

「心得てます。おれは嘘と隠しごとは得意なほうですよ」


 顔色ひとつ変えず、ソンテはけろりとそう言いのける。まあ頼もしい、と呟きながら、フィオロンはわずかに背を丸めて俯いた。


 藤京学院内の端にひっそりと佇むこの迎賓舎は、数年前に建てられたばかりである。

 ただし、当初は「迎賓館」という立派な名であった。内装は客人が快適に過ごせるよう整えてあったし、二階の大広間に至っては壁紙や調度品などで美しく飾っている。が、建物自体がこじんまりしているためか、ここで寝泊まりをする研究士の間で「迎賓舎」の呼称が広まってしまい、そのまま今日に至ってしまった。

 もはやフィオロンも「迎賓舎」と呼ぶことに少しも抵抗がない。


「そういうわけでよォ、力任せに引きちぎったんだ。あのとき初めて血溜まりってもんを見たぜ。おれもまぁ頭が悪かったからなァ」


 ソンテとフィオロンが二階の大広間へ入ると、奥の方からジュゼの掠れた低い声が聞こえてきた。話し相手はエルメだったようで、窓のそばで壁にもたれながら、あぐらをかいて二人並んでいる。


「物騒な話してませんでした?」

「うるせえ黒坊主。てめぇ茶ァ淹れてこい」


 ジュゼの声はいつも小さく囁くようであったが、なぜかどこにいてもよく聞こえる。ソンテは最初からジュゼの話にさして興味がなかったようで、命じられるがまま自分好みの茶器を棚から選び始めた。


「エルメ。お化粧を落としますよ」


 フィオロンの言葉に無言のまま頷き、エルメは顔を伏せて目を瞑る。フィオロンは小さな瓶をどこからともなく取り出すと、エルメの頭上にかざしてそれを軽く振った。瓶からは明るい金色のもやがじわじわと溢れる。しかし霧や冷気のように下へ下へとは落ちてはいかなかった。まるでエルメの様子を確認するように渦を巻き、その両頬を撫でるような動きをしてから、パッパッと弾けて、眩く光る。まるで火花のようだった。


 あらかたの火花が消え落ちてから顔を上げたのは、フィオロンらが見慣れたいつものエルメである。エルメは懐から手鏡を取り出すと、傍にいるジュゼに鏡面が向かないよう、少し傾けて自分の顔や髪を確認した。

 魔力の強い魔法使いほど鏡を苦手とするが、エルメの魔力は弱い部類のようで、幸か不幸か、昔から鏡を見るのに不便はない。


 ありがとう、と言いながら手鏡を懐の中へ入れてから、エルメは思いついたようにフィオロンの名を呼んだ。


「今度、化粧をしないで行ってみようかと思って」


 どう思う、と問いたいのか、エルメはどこか渋い表情でフィオロンを見上げた。


「エルメが良いと思うならそうしてみなさい……と、言いたいところですが、わたしにはそれがどのくらい危険なことかがわかりませんからねえ。どうなんです?」


 誰へともなくフィオロンは問いかけたが、間髪を入れずそれに答えたのはジュゼだった。


「おれがいるときは何にも必要ねえよ。それ以外のときのことは知らねえ」


「あまり大胆なことをしなければ大丈夫では? 向こうのことはおれもよくわかりませんが、メルは滅多に化粧をしないじゃないですか」


 茶の準備を整えながら、ソンテが少し離れたところから口を挟むと、ジュゼも同意見なのか「おう」と短く応えた。


「化粧が必要なのはおれがいないときに『学校』に紛れようってときだ。おれも何度か中を見てるが、全員見分けがつかねェくらい姿かたちを統一してるところもある」


「はあ。なんでです? 子どもがわらわらいるっていうのに、見分けがつきづらいと不便じゃないですか」


 エルメは素知らぬふりをしてソンテの疑問には答えなかったが、もぞもぞと膝を立てて座り直すと、いつもフィオロンと話す際と同じように、少し小さな声でぽつぽつと話し始めた。


「もともとわたしはで生まれたから、姿かたちは少し目立つけど、あり得ないほど変というわけじゃない。それでも今まで化粧をしてもらってたのは、小さい頃に顔や髪のせいで意地悪なことや腹の立つことを言われたのが忘れられなかったからだ。魔法で目立たないようにして、誰にも傷つけられないように隠さなきゃいけないと、ずっと頑なに思っていた。


 でも、学校に忍び込んでるうちにだんだん思い出してきた。実際は、何を隠しても意味がないってことだ。


 例えば女じゃないとジュゼ法師の恋人になれないっていうのは青の国では有名だけど、冥裏郷では同性を好きな気持ちは隠すことが多い。隠さない人は、向こうでは嫌なことを言われると思う。


 フィオロン先生は女の人みたいな顔立ちに見える。冥裏郷では化粧は女のものなんだ。なんとなく、男と女がきっちり分かれてないのを嫌がる人が多いみたいに感じる。男と女の二つしかない箱の中に全部の人間を仕舞わないと、散らかった部屋が片付かない気がするのかもしれない。

 だから男が化粧をしているだけで、向こうでは笑われたりからかわれたりすることがある。


 ソンテ法師は珍しい魔法が使えるけど、冥裏郷の人は極端に珍しい才能なら、優れたものでも恐れることがある。多分、使わないで欲しいと思うことさえある。単純に、目立つ人は嫌われるのかも。変だけど、目立たないようにすることと行儀が良いことは似てるから。


 天上武王でも博秋でも、自分の努力で変えられないことでも関係ない。ほんの些細なことを言いがかりに、意地悪をされたりからかわれたり。


 でも逆に考えれば、意地悪する理由なんかそんな程度でいいんだから、どんな人間にも言いがかりをつけられる。だから私の特に目立ちやすいところを隠しても、わたしに意地悪をしたい人はきっと他の粗探しをする。

 嫌なことをされないように努力するのは、結局無駄だってことに気づいた。


 理天では顔や髪のせいで意地悪をされることがなかったから、わたしは昔出会ったそういう人たちのことをすっかり忘れた。

 嫌な気持ちや悲しかった気持ちが、小さい頃からずっと変わらないままあったけど、もう要らない気持ちだから、いつか消えるのを待って放っておいてた。

 けど、研究士になると決めて、さすがに冥裏郷の人のことを考えることが増えた。そうしたら、むかし嫌だったことへの感じ方が、少し変わった。


 確かに髪や顔のせいで色々と嫌な思いはしたけど、今考えてみたら、べつにわたしは自分の髪に恨みがあるわけじゃない。

 わたしが嫌いなのは自分の顔じゃなくて、わたしのことを笑った奴らのほうだ。


 わたしが必死に隠して見えないようにしたかったのはわたしの身体じゃなくて、わたしを笑った人たちのほうだったのに、わたしは誰よりも自分のことを大切にしてなかったから、他人から傷付けられないためには自分を隠すことが一番だと思ってたし、それしか思いつかなかった。


 もし自分の顔が嫌いで、毎日変わってしまいたいと思っていたら、他人から顔のことを笑われるのはとても耐えられないと思う。だけど優しい兄やも先生たちも散々甘やかしてくれたものだから、今じゃだいぶわたしも図太い。


 わたしは最近、化粧をしたがらないメルの考え方が、ようやく少し、わかるようになった。

 正直に言うと、メルや東世の人がよく言う「自分の魂を大切にする」ってことが、今まではよくわからなくて、わがままと何が違うのか区別がつかなかったんだけど……。


 話が逸れたけど、つまり化粧をやめてみようと思ったのは、誰にとっても必要ないし、重要なことじゃないと思ったから……それだけなんだけど。どう思う」


 エルメは少し困ったような顔をしていたが、あまり緊張感のない声音でそう問うた。フィオロンはほとんど間髪を入れずにピシャリと答える。


「どうも何もありませんよ。エルメのお好きなようになさい。そもそも、今まで冥裏郷へ渡るときにおまえがしていたのは、わたしのように好きで施すお化粧とは全然違います。そのような化粧は、魂のことを思えば本来はしないほうが良いのです。

 ですが、もしまた必要だと感じたら、そのときは正直に言って、しっかりお化粧をしてもらうんですよ」


 フィオロンはそう言うと、話は終いとばかりに手を叩き、エルメにメルとシューランを連れてくるよう言って一階へ向かわせた。


「本当に『蓋が開いたよう』でしたね」


 つい独り言が漏れてしまったが、ソンテとジュゼは意味がわからなかったのか、あまり聞いていなかったのか、花茶を口に含んだまま何も言わない。


「大人になった」という言い方は少し合わない気がするが、フィオロンには、エルメが確実に新たな何者かへと変わろうとしているのがわかった。


 東世では「人は同じことを繰り返す」と言われている。だから同じ年頃になると似たような悩みを抱え、同じ頃にそれを忘れるし、境遇の異なる者がそれぞれ同じようなことに気づき、憂い、もがき苦しむことも多々ある。


 誰もが誰のものでもない、自分だけの悩みを抱えて苦しんでいる。


 だが実際のところ、見たことも聞いたこともない困難は少ないのである。自分の悩みは他の誰のものとも違う、それは確かにそうに違いない。

 だが、もしも神のような視点でここ百年の東世の人々を見透かすことができたら、よく似た苦悩、よく似た迷いが百年間、絶えずあちこちで生まれているように見えることだろう。

 だから人は、百年前に書かれた見知らぬ誰かの物語に心を打たれ、共感することさえできる。


 しかし冥裏郷で育ったエルメとメルが抱える苦悩は、なかなか理解してやることが難しい。もしかすると、本質的には、彼らの抱える困難は東世にありふれた困難と似ていて、どのように解決すべきかをフィオロンは既に知っているかもしれないが、冥裏郷と東世の差異はフィオロンの想像を絶する。本人たちでなければその本質というものには気付けない。


 エルメが冥裏郷のことをこれほど子細に語って聞かせてくれることは珍しいが、それよりも、これまでエルメが化粧に固執していた理由や経緯を説明してくれたことにフィオロンは驚いた。

 ほんのわずかな期間で、エルメは自らの内にあったぼんやりとした問題を自覚できるようになったばかりか、既にそれらの本質が何かを紐解こうとしているらしい。


 先日ユノンからフィオロンへ宛てた便りには「最近エルメは蓋が開いたようです」と記してあった。

 エルメは昔から内向的で、自分自身のことを隠したがり、嬉しいからと踊ることもない。それが解消したことを指して「蓋が開いた」と表したのだろうが、若秋はこれほど急速に変わることができるのか、とフィオロンは舌を巻いた。


「成長痛を知る者だけが大きいんですよ。北苑の爺さんが言ってました」


 突然、何かを見透かしたようにぽつりとソンテが言う。フィオロンがそれに何と答えようか迷っていると、彼より先にジュゼがソンテの肩を小突いた。


「そのジジイあれだろ、自分が成長痛でどれだけ痛ェ思いしたかわからせてやるっつって、他のジジイに魔法かけて、知狎に瑕つけられてたジジイだよなァ」

「結構昔の話なのによく知ってますね。あの爺さん、青の国でも有名なんですか?」

「何年か前におれがそのジジイと同じことしようとしたとき、どっかの僧尽が飛んできてそのジジイの話をしたからよぉ、覚えてんだよな」

「なるほど、ろくでもない。人は繰り返すっていうけど本当ですね」

「繰り返してねえよ。繰り返しそうになっただけで。だいたいなァ、おれの成長痛の過酷さをなめんなよ」


 成長痛、という言葉を、フィオロンは口の中で転がしてみた。魂にも成長痛があるのだろうか。フィオロンは自分自身の過去を振り返ってみたが、よくわからない。それらしきものがあったような気もするが、当時無自覚であったものに思いを馳せるのは、案外難しかった。


 ソンテが淹れた花茶は四人分しかなく、器を見ると、どれもからである。フィオロンは茶器を片付け、再び湯を沸かした。


 そろそろエルメが、メルたちを伴って二階へ上がって来る頃合いだ。


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