二章

(一)東京と藤京

「あのーすみません、もしかしてモンブラコさんですか?」


 唐突に見知らぬ男性から声をかけられ、阿部修介あべしゅうすけは瞬いた。


「いや。おれは阿部だが」


 果たしてこの回答で合っているのか、少なからず不安だったが、他に何と言えばいいやら思いつかない。


「あっ、失礼しました」

 そう言って笑顔のまま四、五回頭を下げると、男は雑踏に紛れてそそくさと去ってしまった。顔はもう修介のほうを向いてはいないが、背を丸めて歩を進めながら、まだ小刻みに頭を下げている。行儀の良い男だな、とその背中を見送りながら、修介はジャケットのポケットに入れていた右手を外に出す。


 しかし、冷気を帯びた強風のせいですぐに指先がビリビリと冷えてしまう。出したばかりの手を再びポケットへしまいながら、修介はなんとなく道路の端を見た。歩道にも車道にも、黒い汚れがついた雪がわずかに残っている。


 東京では、二月でもさほど雪が降らないものと思っていたが、昨晩はかなり冷え込んだのか、珍しく積もったようだ。

 修介が都内へ到着したのは昼頃であったから、電車の遅延に巻き込まれずに済んだと考えれば運が良かったかもしれない。


「修介さん、お久しぶりです」

「おお、メル。心細かったぞ。来てくれてありがとう」


 修介は愛想良く笑いながら、メルに向かって両手を広げる仕草をした。


「おれ、遅かったですか?」

 メルは黒い帽子のつばを触りながら首を傾げる。長い髪を丸めて詰め込んでいるのが窮屈なようで、すっかり帽子をいじるのが癖になってしまっているようだった。


「いや、そうじゃないんだが。たった今人違いに遭って、少しひやりとした」

「へー、修介さんに似てる人なんているんだ。やっぱり池袋は都会なのかね」


 阿部修介は高身長ではないが、筋骨隆々という言葉がふさわしい恵まれた体躯の持ち主である。短く刈り込んだ髪の色は明るく、眼鏡の奥に隠した瞳は茶より金に近い。


 常ならば、メルは修介を「シューラン法師」と呼ぶ。シューランは東世とうぜの南に位置するしゅの国、朱雀すざくの寺院に属する僧尽そうじんである。


 東世と冥裏郷めいりきょうを行き来する研究士は数少ない。

 元来、東世の人間が思い描く冥裏郷は、神の加護が及ばぬ、苦しみと悲しみに満ちた死者の国だ。好き好んで行きたがる者自体が少ない。

 その上、冥裏郷で過ごすことを苦痛と感じる者は多く、研究士として二年以上務めることができる魔法使いは、ほんの一握りしかいないという。


 おそらくではあるが、修介は歴代で最も長くこの任に就いている研究士だと言われている。


 彼が初めて冥裏郷へ降り立ったのは八年前だった。たった八年、冥裏郷へ渡ることを続けられる者がいなかったということになる。

シューランは人並外れて魔法が巧みなわけでもなければ、勉学に励んだ経験もない。ただ体力と根気強さのみを買われて冥裏郷へ誘われたようなものだ。だが、そういう者も一人か二人はいたほうがよいだろう、と、今は思う。


「向こうの用事はつつがなく済んだのか?」

「はい。いつも通りに」

「そうか。わざわざすまんな。どうせまた、おまえにとっては呆れるようなことだったのだろう?」

「謝ることないですよ。おれたちだって、小さい頃は鹿と馬の区別もつかなくて、何から何まで、文字通り手取り足取り教えてもらってきたんです」


 そうか、と修介が小さく呟くと、そうですよ、と軽い調子でメルも返す。歩道なのか車道なのかよくわからない通りを歩きながら、メルは相変わらずうっとおしそうに帽子を弄っていたが、やがて諦めたように長い髪を引き出して被りなおした。


「この帽子って子供用なんじゃないかな。十歳頃からずっと使ってるし」

「窮屈か」

「髪を入れてると頭が痛くなります。おれが帽子に慣れてないだけかもしれないけど」


 メルが最後まで言い終える前に、修介のすぐ隣で誰かがつまずいた。

「おっと。大丈夫か」

「失礼、どうも」


 雑踏の中、たまたまぶつかりそうになっただけだ、という顔をしながら、何事もなかったかのような顔をして、彼はメルの少し後ろを歩いた。あたかも最初から三人で歩いていたかのように、である。


 メルの後ろを歩く彼は、茶色っぽい短髪をきちんと整えた、いかにも物静かな学生風の青年だった。体格は良いが所作のせいもあってか、修介ほどは目立たない。

 彼の場合、髪形と一重まぶたが辛うじて日本的な印象を与えているものの、学生やフリーターというにはどこか胡散臭いのだが、それでも自分は日本人だ、アジア人だと押し通そうとするのだから、メルから見ればなんともふてぶてしく、頼もしい。


悠磨はるまさん、例の女子大生とはどうなったんですか」

「ついさっきまで会ってた。高田馬場で」

「ちゃんと仲良くなれたんですか?」

「無理無理。留学生のふりはもう駄目だな。いつきさんかエルメの手助けがなければ誤魔化せない。はぐれたふりをしてさっさと退散してきた」

「そうですよねえ。外国人のふりも日本人のふりも、どっちも難しいんだよなぁ」


 眉尻を下げてため息をつくメルと悠磨を見比べて、修介は首を傾げた。

 メルは幼い頃、少しの間だが東京に住んでいたと聞いている。実際、読み書きは少々苦手のようだが、日本語の会話にはほとんど困らない。なのに、メルは「巧く日本人を装うことができない」と言うのだ。それはこの数年ずっと、修介にとってわかりかねる感覚なのである。


 さらに不思議なのは、メルの姉のエルメだった。彼女は読み書きにもほとんど不自由しないほど日本語が巧みであるし、世の道理にも明るく、機械の類も扱える。日本人として東京で暮らしていくことは難しくないだろうに、エルメは冥裏郷にいる間、必ず『化粧』を施すのだ。それがなければとして認知されない、とエルメは言う。


「わたしもメルも、日本語が堪能な外国人の子どもに見えるんです。遊びに行くならいいけど、研究士の手助けをするとなると、日本人だと思ってもらえないのは少し不便です。シューラン法師も、冥裏郷にいるとき、どこの国から来た人なのかと聞かれたら面倒でしょう。わたしたちも同じです」


 そう言われたものの、修介シューランにとってはエルメとメルの姉弟こそが『日本人』なのだ。確かに、日本人とそうでない者の違いについて、修介にはわかりかねる点がある。かといって、エルメとメルに何か妙なところがあるとは思えない。

 かつてこの地で育った、そのままの彼らが、なぜ『不便』というものを強いられなければならぬのか。


 完全には納得しかねたが、エルメがそう言って終いにするなら仕方ない。もともと、この地では修介の理解が及ばぬことなど、星の数よりも多くあるのだから。



  * * *



 ブレザーの制服を着た学生たちで賑わっている校舎の二階の廊下を、エルメは縫うように歩いていた。


 校内にいるときのエルメは亡霊のようなものだ。誰もエルメを気に留めず、話しかけられることもない。

 万が一身体がぶつかったり、声を出してしまったとしても、相手は都合良くをしてくれて、学生でもないエルメが校内にいるという違和感に気づかない。おかげでエルメはあちこちの教室へ出入りし、好きな授業を選んで聴講することができた。


「先生、プリント足りませーん」

「えー、また? ごめん、あとで刷って来るから、とりあえず隣の子に見せてもらってくださーい」


 授業のプリントをくすねるとは、我ながら大胆になってきたな、と、エルメは独り苦笑いする。


 エルメが手に入れたのは「土佐日記」に関する三枚綴りの解説プリントだった。何をコピーしたものなのかはわからないが、本文も掲載されている。

 今は日本史の授業のはずだが、プリントには「一年総まとめ! 日本の古典シリーズ」と書かれているし、書物が書かれた時代と世相を紐づけて覚えるためのものなのだろう。


 当初エルメは古典の授業を敬遠していた。理由は単純で、彼女には古文の類が難解すぎたのである。

 しかしあるとき、たまたま学生が落とした漢文のプリントを手に入れた。エルメにはそれを読むことは難しかったが、理天学院へ帰り、それをユノンに見せたところ、彼はエルメより子細に「論語」を読むことができた。


 彼が使ったのは「指読しどく」と呼ばれる魔法である。紙面を、あるいは文字そのものを指で触り、したためた者の意図や理念、感情を探って文章を推測するというものだ。


 試しにユノンの真似をしようとしても、エルメには到底叶わなかった。深く広大な地中から細い細い水脈をすべて掘り当てるような、途方もない作業に思われたためである。あとから聞けば、指読を使える魔法使いは東世でもごく少数らしい。


 しかし、宇宙や電気、宗教的概念やレイシズムなど、東世になく、ユノンの理解が及ばないものついては、指読をもってしても読み解くことはできない。だから必ず、エルメやメルがユノンを補佐しなければならなかった。


 エルメが歴史を学び、言葉や漢字を覚えて説明することができれば、ユノンの指読の精度が上がる。そのためにエルメはことにした。独りで「古事記」や「史記」を完璧に解読できるようになる必要はない。あくまで誰かの補佐になれればよいのだから。


 教室の後ろで教師の解説を聞きながらプリントを眺めていると、廊下をゆっくりと歩く人影が見えた。足音はない。こちらもエルメと同じで、さながら校舎内を彷徨う亡霊である。

 エルメはプリントを折りたたんで首の後ろに仕舞うと、静かに立ち上がった。


「いつきさん」


 教室の扉のわずかな隙間から囁くように呼びかけると、不自然なまでに特徴のない、つなぎを着た見知らぬ男と目が合った。光沢のないヘルメットを被っていて、まるで電気か水道の様子を見に来た作業員のように見える。が、エルメの姿をみとめてにやりと笑っているのだから、やはりいつきに間違いない。


「帰るぞ。悪ぃな、昨日からほったらかしにしちまって」


 言いながら、いつきはエルメの手を取って外へ出た。


 校庭を少し早足で突っ切りながら、いつきは銀色のスプーンを取り出し、腹の前で何かをかき混ぜるようにくるくると回す。


「ハヤ、ハヤ、ハヤ……」


 呪号を繰り返す声は掠れていて低く、ほとんど吐息のようだった。エルメは黙ったままその隣を歩く。傍目では何をしているのかわからないが、大切な、あるいは、必要なことをしているのは間違いない。


 いつきの使う魔法は、エルメには少々不可思議に見える。感覚的というのか、理屈がよくわからない。東世の他の魔法使いもエルメと同じように感じるようで、説明を受けても理解しかねることが多々あった。

 ただ、いつきは説明することがそもそもあまり得意ではない。今ではいちいち何をしているのかと、エルメも他の研究士たちも、あまり尋ねなくなった。


 いつきがスプーンを腰のあたりへしまう頃には、エルメの目にはもう、作業員の見知らぬ男の姿ではなく、本来の彼女の姿がはっきりと映るようになっていた。

 発光するような波打った金髪に、大きな傷跡の目立つ顔、さらには見上げるほどの長身の持ち主なのだから、どこをとってもいつきは目立つ。

 しかし彼女は『他人の目』を支配することができた。都合良くをさせ、勝手に納得させる。だから誰も、いつきに気を留めないし、彼女のことが記憶に残ることもない。


 エルメやメル、そして他の研究士たちは、冥裏郷へ渡る際に服装や髪形をあらためる。慣れないジーンズやトレーナーを身に着け、靴は安価なスニーカーなどを履いた。

 だがいつきにはそれが不要だった。見る者や話す相手が、その場にふさわしい服装や髪形を、勝手に想像し、いつきがそのような『普通の姿』であると思い込んでくれるからだ。


 いつきの魔法は他の研究士らにも与えることができる。ただし無限に、というわけにはいかない。研究士らは協議し、結果、いつきの魔法は優先的にエルメへと注がれることになった。

 それほど、彼らのエルメへの期待は大きいのである。東世にはない知識を、歴史を、何かしらの新しい知恵を、喉から手が出るほど、研究士たちは欲していた。


 一体何が知りたいのか、どこで何を学べばいいのかは、誰にもわからない。東世の神である知狎ちこうでさえそうだった。


 ただ、この三十余年の間、東世の人々と大地を蝕むあの悪霊がどこから来たのか。どうすればあれを消し去ることができるのか。その答えに繋がるかもしれない糸は、すべて掴みたい。


 そのために、メルの知恵を借りて街の様々な場所に出入りし、新聞や本などの細々としたものを手に入れることはどうしても必要だった。

 そして、これまで東世の人間には到底理解しえなかった事象について学ぶため、日本語の読み書きに不自由せず知識も持つエルメを、冥裏郷ここと、研究士らは決めたのである。



  * * *



 大山駅からさほど離れていない路地で、エルメといつきは探し物をしていた。

 本来なら、商店街があるような人の多い場所でそれを探すことはない。こういうときも、人目を気にしなくて済むという点でいつきの魔法はありがたかった。


「あっ、すごい悠磨さん。ほんとにエルメがいた」


 エルメが振り向くと、メルがけたけたと笑いながら立っていた。悪目立ちするから長い髪を見せるなとエルメは言っているのだが、窮屈だと言ってすぐに帽子から引っ張り出してしまう。東世では雨の日くらいしか帽子を被る習慣がないので、居心地が悪いのだろう。それほどメルの感覚や考え方は東世の人に近い。


 言っても仕方ない、と諦めて以来、メルが着る服は大きめのシャツやくるぶしが出る短い丈のパンツなどに変えるよう口出しをした。そうすれば、まじまじと見たり、話でもしない限りは女性のように見えるはずだ。男性でさえなければ「長い髪」も奇異なものではなくなる。


 女性用の服を着せられたメルが、どのように感じているのかはわからない。それでもエルメなりに、これで少しばかりは弟を守っているつもりなのだ。変な守りかただな、とは折に触れて思うのだが。


 メルとともに現れた修介と悠磨は、いつきと何やら早口で話をしている。厳密にここで待ち合わせたわけではないが、メルの話によると、悠磨の勘を頼りに池袋から大山まで歩いてきたという。


 エルメは先ほどのいつきの魔法を思い返す。彼女の魔法は、冥裏郷の人間に限らず、東世の魔法使いに干渉することもできる。悠磨はもともと人探しが得意な魔法使いだが、もしかすると、悠磨が自分たちを見つけるようにいつきが働きかけたのかもしれない。彼女ならばそれくらいのことはできそうだ、とエルメは推察した。


「すまん、話がついた。さあ、帰るぞ」


 修介に促され、メルとエルメは飲料の自動販売機の前に立つ。エルメたちが先ほど探していたのはこれだ。

 いつきが目立たぬように、何かしら魔法をかけてくれているはずだが、悠磨と修介もスプーンを片手に姉弟を隠すように立っている。


 最初に、メルが自販機の取り出し口に手を突っ込んだ。暗い取り出し口の中から、音もなく、ぬっと出てきた真っ白な別の手に引っ張られ、メルの身体は一瞬で暗い穴の中へ引きずり込まれる。


 次はエルメの番だ。最初に右手、そして左手を取り出し口に突っ込む。と、細く白い手が伸びてきて、エルメの手をぎゅっと握った。エルメの手首を掴んだその手には体温がない。しかし握る強さから、はっきりと人の手だとわかる。エルメがしっかりとその白い手を握り返すと、暗い取り出し口の中へいっきに引きこまれた。身体がぐるりと反転するのを感じ、一瞬くらりと酔って、思わず目を瞑る。


 わずかに眩暈がした。しかし、足が地に着いている感触はある。エルメがゆっくりと目を開けると、すぐ隣で人が動く気配がした。メルが立ち上がったのだ、と、見なくともわかる。


「ここ」は冥裏郷と東世の狭間だ。まさか本当に自販機の中ではないはずだが「ここ」が一体何であるのか、それは誰も知らない。昔は民家の軒下を潜っていたが、軒先のある民家が減ったため近年は自販機を使うようになった、と以前シューランは説明した。軒先にしろ自販機にしろ「ここ」へ通じるのには変わりない、とも言う。


「ここ」は暗いのに、なぜか目が見える。見えるというより、何が起きているのかが判る、というほうが正確かもしれない。

 この場所が狭いのか広いのかもわからないが、少し奥へ進むと、上へ上へと延びる坂道がある。その坂を登り切ってようやく、東世へ至るのだ。


 エルメのあとに修介、悠磨、いつきが「ここ」にたどり着いた。「ここ」には名前がない。なぜかはわからないが、名前をつけてはいけないのだそうだ。


「これほど大人数で坂を登るのは珍しいからなぁ。最後まで手を放さずにいられるか、少しばかり自信がないな」

「おれもです。試しに手をくっつけてみますか」

「やっとけやっとけ。あっちで待ちぼうけを食らったらめんどくせえからな」


 冥裏郷では人目を憚って、杖の代わりにスプーンを使う。だが「ここ」には人がいないから、気にする必要はない。


 見えない縄で縛るようにして、それぞれの手が離れぬよう固定した。

 この坂を上りきると、光の漏れる組子障子くみこしょうじが見えてくる。細かな木工細工が施された障子が一対だけ佇んでいるのだ。それを開くと、青の国、ひいては東世最東の地である藤京区、藤京学院内の一室に出ることができた。


 二人程度なら問題ないのだが、三人以上でこの坂を登ろうとすると、なぜか途中で誰かが手を離してしまう。さらに、手を繋いだ者同士は同時に藤京学院へ到着するのだが、手を離してしまうと、必ずばらばらの時間に帰り着いてしまうのだった。

 修介によると、たとえ同時に坂を登っていても、手を離したばかりに半日以上前後して到着することもあるという。


 魔法を使って手が離れないようにしたものの、坂を歩いている最中、全員が少なからずそれを振りほどきたいという衝動に駆られた。

 無理やり駆け上がって障子までたどり着くことはできたものの、なんとも言えない気持ち悪さにあてられて、皆ひどく疲弊し、呼吸が荒くなっていた。


 障子を開けたのは、先頭を歩いていた修介だった。なかばなだれ込むようにメル、悠磨、エルメ、いつきが藤京の地を踏む。


 エルメが振り返ると、つい先ほど修介が大きく開いたはずの障子は、すでにぴったりと閉まっていた。それどころか、確かにあちら側から見たとき、この入り口は光を通す組子障子であったのに、こちら側から見ると、それは光を通さないただのふすまであった。


 息を整えてから、エルメとメルは互いの唇に杖を向けた。冥裏郷へ渡る前、姉弟は必ず研究士たちの名を呼ぶことを禁ずる魔法をかけ合うので、それを解かなければならない。


 魔法を使ってまでそれを防止するのは、冥裏郷で名を呼ばれた魔法使いは東世へ帰って来られなくなる、という伝承があるためだ。

 だから、東世の魔法使いが冥裏郷へ渡るためには、必ず知狎から「冥名めいみょう」と呼ばれる別名を賜るという決まりがある。


 シューランが賜った冥名は『阿部修介あべしゅうすけ』であったが、彼の東世での名と冥名は響きが少し似ている。エルメは誰もがこのように東世の名に似せた冥名を与えられるのかと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。


長澄悠磨ながすみはるま』という冥名を初めて目にしたとき、エルメは名前を「ゆうま」と読み間違えた。この名を賜ったのは黒の国の研究士であり、北苑の神僧でもあるソンテ法師である。


金剛こんごういつき』の冥名を名乗るのは、青の国の誇りとも呼ばれる天上武王てんじょうぶおうジュゼ法師だ。

 知狎がひらがなの名を与えるのは珍しい。少なくともエルメは、ジュゼの他にそのような冥名の研究士を知らなかった。以前、話の流れでジュゼ本人にそれを説明し伝えたところ

「そりゃあ、おれが知狎から見ても特別すげえ人間だってことだろうが」

 と、笑っていた。


 研究士たちが帰り着いたこの『襖のある部屋』には、やはり名前がない。そして、日時を指し示す鹿時計しかどけいもない。ここに置くとすぐに動かなくなってしまうので、いつからか置かなくなったらしい。空の明るさから早朝だろうか、と目星をつける。


育快改シャンフォータン育快改シャンフォータン


 襖と反対側の戸を開けてエルメらが廊下へ出ると、高らかに呪文を唱える声があちこちに響いて聞こえた。おそらく朝食の前に掃除でもしているのだろう。メルは廊下の奥に向かって声を張り上げた。


「フィオロン先生! みんな帰ってきたよ!」


 メルの声が届いたのか、呪文を唱える声がぴたりと止まる。代わりに、姿のない何者かの声だけが、メルの頭上から注いで浴びせるように降ってきた。


「おかえりなさい、メル。みなさまご苦労様でしたね。朝ご飯を持っていきますから、迎賓舎で休んでおいでなさい。今日はいくつか、おまえたちと大事なお話をしないといけませんからね」

















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