(三)他所の国と北部街道

 東世ではどんな魂も、死後にまた生まれ変わると信じられている。幸福な人生を送ったものは再び東世へ生まれるが、罪を犯した者と悲しみばかりの人生だった者は、冥裏郷に生まれ落ちてしまう。


 冥裏郷には人間を慈しむ神がいない。だからそこでは悲しみと苦痛にまみれた人生を送らなくてはならないが、それでも幸せになろうと努力し、すべての魂を尊ぶことで、次こそ東世へ生まれくるのだという。

 古から現在まで語り継がれているこの伝承は、東世の人々の血肉や骨にまで、深く深く染みこんでいる。


「本当にここ最近なんですけど、また冥裏郷に行きたいって言い始めたんです、ユノン先生。あんなに怖がってたのに大丈夫かな」


「行くなら急いだほうがいいな。できれば第三月のうちにお連れしたいが」


「ユノン先生が前に渡ったのは五月頃だったかな? 夏でもないのに妙に暑い日だったんですけど」


「そうだったと思う。あのときは、もう雨期だからと安易に連れて行ってしまった我々が悪かったなぁ」


「こんどはもっと我慢して、絶対すぐには帰らないって言ってて、なんだかやる気満々なんです」


 メルとシューランが寛いでいたのは迎賓舎の一階、主に研究士が寝泊まりするための客室である。

 部屋の数が少ないこともあり、エルメとメルは同室を利用することが多い。エルメが部屋で着替えている間、メルはシューランの部屋へ行き、一緒に食事をしてそのまま入り浸っていた。


 エルメがシューランの部屋を訪れたとき、ちょうどメルは、小さなエルメが顔を真っ赤にして「ユノン先生みたいになっちゃうからみんな絶対に冥裏郷へは行くな」と珍しく泣き喚いていた、という話を披露していた。


「何の話?」

「んー、がゲロ吐いた話とか、色々」


 メルは笑いながら誤魔化したが、エルメはさほど気にならなかったようで、あぁ、と短く応える。


「それより、上でフィオロン先生が呼んでる。法師も来てください。メルは服を直してからだ、襟元を着崩しても格好良いのはこの世でジュゼ法師だけだ」



  * * *



 二階へ上がると、姉弟はフィオロンと向かい合う形で長椅子に座らされた。フィオロンの隣にシューランが腰を掛け、ジュゼとソンテは床に座り、ややいびつな車座となる。

 甘い香りの花茶が入った器を手に取りながら、フィオロンは早速本題に入った。


「ユノン先生からのお便りで、おまえたちが研究士として推薦されたお話は聞きました。ユノン先生はエルメが研究士になることには賛成のようですね」


「そうはっきり言われたことはないんだけどな」


 訝しいのか照れ隠しなのか、エルメはしかめっ面をして見せたが、フィオロンはそれはそうだ、とばかりに肩をすくめる。


「エルメは良いけれどメルはダメなんて言ったら可哀想ですからね」

「えー? なんでおれはダメなの」


 たいして傷ついたふうでもなく、メルは率直に不満を漏らした。フィオロンは諭すような口調で「ですが」と続ける。


「ダメというのは、反対するという意味ではありませんよ。ただ、特別大変なお仕事ですからね。魂を弱らせてすぐに辞めてしまう人がとても多いですから、メルの魂のことも心配なのです。ねえ法師」


 ちらりとシューランのほうへ顔を向けたものの、フィオロンはわざと誰の名前も呼ばなかった。ジュゼとソンテは黙り込んでいたが、その意図は汲んでいるようで、好き勝手な方向を眺めていた視線を一瞬交わし合う。


 東世にとって『異世界』である西世せいぜと貿易をする白の国の船乗りは、魂を患いやすいという。かつて、西世へ渡った経験のある研究士は「冥裏郷では立っているだけで魂を蝕まれる。その恐ろしさは西世の比ではない」と言い残して職を辞し、寺院を去ったと言われている。


 何よりも魂を大切にする東世の魔法使いからすれば、冥裏郷などには極力近づきたくないというのが本心だ。多少の『土地勘』があるとはいえ、若干十五歳のメルに研究士の職は荷が重いのではないか、と東世の者が頭を悩ますのも当然だろう。加えて、メルが冥裏郷にいたのはたった五歳までで、本人にはあちらの記憶があまりない。


 各々が雑然とした思考に耽る中、沈黙を破ったのはシューランだった。


「メルがいてくれると心強い。冥裏郷では本当に世話になっている」

 

語りかけるように、普段よりも幾分ゆっくりとした口調でそう言う。


「ことわざで『博秋が人生で三つのことを知るとしたら、知狎は八千のことを既に知っている』というのがある。おれたちとエルメの違いはそれに似ていると思うのだ。おれが「三つ」でエルメが「三つと少し」だ。「三つ」の中身もおれとエルメではまったく違うかもしれん。


 しかしその例えで言うと、メルは「三つ」の中身がおれのものと似ているのではないかと思う。もちろん比べるまでもなく、おれたちよりメルのほうが冥裏郷のことをよく知っている。だがおれは、メルは東世で生まれた子のようだなと思うことがある。うちの息子とほとんど違わないような」


「違わないですか? 七歳の子と比べて?」

「来月で六歳だ。だが親の目から見たら案外そんなもんだぞ」


 悪気なく歯を見せて笑うシューランに、メルは何も言い返せずただ唇をを曲げた。


「おれは、メルがどうこうというより、エルメとメルでは冥裏郷への関心のようなものが違うように見えますね」


 こんどはソンテが口を開いた。鏡に向かって話しかけるようなどこか曖昧な響きを含みつつ、彼は腕を組みながら話を続ける。


「エルメは、冥裏郷を生まれ育った場所と認識しているようだが、これまでの様子を思い返してみると、メルにはがあまりない。よく見知っているが『執着がない場所』のような。


 エルメにとって冥裏郷は魂と切っても切り離せない場所かもしれないが、メルは切ろうと思えば切り離せそうに見える。

 おれにとってもそうだ。あれはもともと『死者の国』で、厭な場所だが、おとぎ話の世界のようでもある。

 例え話になるが、おれは幼い頃からずっと『ソンテハイ』だった。今のところ『ソンテハヤ』と名乗る予定はない。もちろん『ソンテ』になる気もない。おれはそれほどの縁をあそこに感じていない」


 ソンテは茶器のふちを指でいじりながら、記憶を辿るときのように軽くまぶたを閉じた。


「さっき、シューラン法師がいらっしゃらないときに聞いたが、エルメはもう腹の中に、あれもこれも受けて立つという気概があるらしい。だがメルにそういう決意があるのかは知らない。だから『立っているだけで魂を病むかもしれない』と、先生方はそれが気がかりなんだろう」


 メルはでも、と小さく呟いた。何かを伝えたいが、しかしうまく言葉が見つからないらしい。腕を組んでみたり、顎に手を当てたりと落ち着かぬ様子で少しの間頭をひねっていたが、ようやく何かに思い当たったのか「あっ」と間の抜けた声を上げた。


「わかった。そりゃそうだよ。おれは自分の故郷ってイギリスだと思ってるから。冥裏郷って言葉に騙されてたんだな。は、おれにとっても『他所の国』なんだ。おれがエルメと違うのは多分それだよ」


 文字通りの力説だった。自分でもようやく腑に落ちて気が晴れたのか、メルは満足げな表情を浮かべている。フィオロンらは軽く首を傾げているが、エルメだけはぽかんと口を開けていた。


 確かに姉弟はかつてイギリスに住んでいたが、エルメはメルと、母国がどこかという話は一度もしたことがない。エルメは「外国と日本を行ったり来たりしていた」と感じていたが、メルの感覚は姉と大きく異なる。


 幼稚園に小学校、塾、稽古事などへ行き、いつも忙しくしていたエルメは、日本語を使う機会が多かった。今やほとんど読み書きに不便のないアルカディア語や英語より、いまだに日本語のほうが母国語らしく感じてしまう。

 一方、エルメよりも家にいる時間が長かったメルにとって、日本語は英語のおまけのようなものだった。母に注意されなければわざわざ使うこともない。

 幼いながらに、日本は「他所の国」であり「自分の国」はイギリスだと感じていたのだ。


 すっかり東世の生活に馴染んでしまい、メル本人も忘れかけていたが、その感覚は今も確かに生きている。馴染みのある場所という認識ではいるが、メルには日本も東京も最初からずっと、ただの通りすがりの街に過ぎない。


 エルメはふと不安になった。

 もしかすると今までずっと、エルメはメルに関してをしていたのかもしれない。だとしたら、かつて弟を理不尽に叩いたときと同じだ。もしかしたらあのときの――


 突如、無意識ながらびくりと身体が跳ねたことで、エルメの思考は遮られた。ジュゼが床を拳で叩いたのである。常の通り粗雑な仕草だったにも関わらず、広間には不思議と高く澄んだような音が響いた。


「ばかやろうども。全部メルに決めさせろ、メルに。おれたちに似てるんなら尚更そうだろうが。駄目だと思ったら他のやつらみてェにすぐ辞めちまえばいいんだ。今までおれは誰がいなくなろうが文句は言ってねェぜ」


「はあ」

 ソンテは後ろ手を付きながら背を丸め、姿勢を崩しながらジュゼに応える。


「先生方はメルが若秋だから気になるんじゃないですか。まだ十五歳ですよ。法師、十五歳の頃何してました?」


「……乳房引きちぎってぶっ倒れてた」


 ジュゼは「そうか、まだばかだな」とぶつぶつ呟きながらソンテから視線を逸らしたが、ここでシューランが「いやいや」と声を張った。


「間違えることに年齢は関係ない。年少者を心配しすぎて余計な干渉をしてしまうのにも、年齢は関係ない。

 たとえ幼子同然と思っていても、おれはもうメルのことを若秋として扱わなくてはいけなかった。言われてみれば、ジュゼ法師の言い分が道理だ。なに、冥裏郷がどうこうというのは関係ない。メルが個人的なことを決めるというだけの話だった」


シューランはそう言って、ソンテのほうを振り返る。


「『若秋として扱う』ですか……まあ、それはそれか。わかりました、じゃあおれもそれでいいです」


 軽く片手を上げてソンテが了承の意を示すと、これまでの場の空気がやや変わった。

 問題の当事者である姉弟を除くと、ここに集まる栄秋の中で最も年若いのは二十三歳のソンテである。ゆえに東世の慣習に従うと、この場で最終的な決定、つまり姉弟を巡る処遇に判断を下すのは彼の役割となるのだ。


 フィオロンはまだ温かさの残る茶器に口を付けてから、安堵したようにふう、と柔らかくため息をついた。


「では、わたしも文句を言うのはやめましょう。メルの気持ちはもう決まっていそうですしね」


「もちろん。ユノン先生やハイデからも考えなしみたいに思われてるみたいだけど、おれだって逃げ時くらいはわかるし、そんなに心配しないでほしいよ。

 おれはエルメほど字も読めないし、あまり役に立たないかもしれないけど、かといっておれがこれから東世の別の場所で働くとしても、たちがあっちで困ってないか、ちゃんとやってるかって気になっちゃって、全然仕事が手につかないと思うよ」


 あながち冗談でもないのか、メルは深刻そうに顔を歪めて唸っている。フィオロンはもう一度、こんどは咳払いのような、浅く短いため息をついた。


「今更言うのも変ですが、二人とも、何であれお仕事をするというのは大変なことです。くれぐれも身体に気を付けるのですよ。自分の替わりに休んでくれる人はいないのですからね。

 さて、ジュゼ法師が提出した嘆願書と知狎書は、既にわたしがユノン先生から預かっているのですが。お返事をお渡しするのは誰がいいのでしょうね」


 フィオロンは、どこか肩の荷が下りたような穏やかな表情で、三人の研究士を見渡した。



  * * *



 魔法使いが使う魔法には、珠法じゅほうと呼ばれ区別されるものがある。誰に習うわけでもなく、生まれつき使える魔法をそう呼ぶ。他の魔法使いにはとても真似できないような魔法を扱える者も多い。そのため珠法は、神が特別に授けた宝と考えられている。


 珠法の難点は、生まれつき使える魔法であるため、どうやったらそのようなことができるのか、誰も説明ができないというところだった。


 ソンテも珍しい珠法を使う。彼はたった一歩で、思い描いた場所へ移動することができる。知り合いがどこへいるのか見当をつけ、その人物のもとへ行くこともできた。


 彼の珠法はまさに研究士にうってつけで、メルと同じように、幼い頃から漠然と研究士になろうと思っていた。結果的に研究士にはなったが、研究士に志願するより先に神僧に選ばれてしまったのは想定外だった。

 一部の研究士が冥裏郷と東世を行き来していることは、実は僧尽の間でもあまり知られていない。神から直々に冥裏郷へ渡るよう命じられ、素直に喜べぬまま研究士となったらしい。


 ジュゼはソンテよりさらに珍しい珠法を使うが、東世でその力を使ったことはほとんどない。彼女の珠法は他人に干渉し、操作する性質のものだからである。


 東世では他者の精神、つまり魂を軽んじ、弄ぶ行為は禁忌に近い。そのためジュゼは自らの中に珠法の存在を感じながら、長らくそれを燻ぶらせていた。

 ジュゼが他人の精神を我が物のように扱えると知る者は、ほとんどが冥裏郷へ渡る研究士であり、ごく僅かしか存在しない。フィオロンにさえ誰も具体的なことを伝え聞かせてはいなかった。

 しかし、奇しくも冥裏郷へ渡る研究士という「厭な仕事」を引き受けたことから、窮屈な思いを強いられていたジュゼの魂と魔力は解放されたのである。


 一方、シューランは取り立てて珍しい珠法を使えるわけではない。魔力は多少強いかもしれないが、ジュゼのような桁違いの強さというわけでもない。

 彼はただ健康で体力があるだけだった。しかし「珠法を使えば魂が疲れるだろう」と言って、自分より年若いジュゼとソンテをいつも労わる。どんなときも他人の魂を尊ぶ、情け深さがあった。


 東世へ戻れば、細々とした研究士としての仕事は大抵シューランが買って出る。冥裏郷では若い二人ほど働けないからその代わりに、ということらしい。


 そのようないつもの流れで、理天東鹿寺院りてんとうかじいんへの遣い役にも当然シューランが名乗りを上げた。


「おまえたち、理天まで一緒に行くか? 休んでから帰りたいならおれだけ先に行くが」


 シューランは今日中に理天へ到着したいのか、出かける準備を既に整えているようだった。エルメは最初からそのつもりだったので、帰り支度もあらかた済ませてある。一方、メルはここでもっと休みたいい言い、シューランの申し出を断った。


 フィオロンが用意してくれた弁当代わりの餅をいくつか携えて、エルメとシューランは昼前に藤京学院を出た。

 藤京学院は理天学院より更に古い歴史を持つ。紫錦区を西から東へ横断し、山麓を貫いて藤京学院に至る道を北部街道と呼ぶ。街道の終点である藤京学院の周辺は常に人通りが多く、辻馬車も見つけやすい。

 藤京学院と反対側の終点、あるいは始点だが、そちらは理天区中央あたりの宿場町となっている。理天学院及び東鹿寺院まで至るには、そこからしばし山歩きを楽しまなくてはならない。


 運良く天馬や迅犬じんけんが牽く車に乗れれば明るいうちに理天へ着くが、この日はちょうど目の前に停まっていた馬牽きの車に乗った。


 馬車の中で、エルメはフィオロンに持たされた餅を二つ平らげた。彼が作る餅は滑らかで、程よい硬さがあり歯触りも良い。仄かに甘いそれは極上の味わいであったが、さらに特徴的なのはその大きさだ。食べても食べてもなくならないのである。さらに、なぜかいつまでも温かい。「あれには魔法が四つか五つは使われている」などと、フィオロンの餅にまつわる噂は絶えない。


を二つも食べたのか」

 シューランは信じられない、と目を丸くして叫んだが、エルメはけろりとしている。

「今日はお腹が空いてて。少し疲れてるのかも」


 少し前、ガレアを連れて死に物狂いで幽霊雲から逃げようと山を走った後、エルメはしばらく体調を崩して寝込んだ。二晩ほど休んだ後はすっかり調子を取り戻したが、それ以来、妙に腹が減る。

 シャートからは「身体が成長したがっているような食欲だから気にしなくていい」と言われたが、ならばもう少し身長が高くなるだろうか。エルメはひそかに期待していた。


 エルメとシューランが辻馬車で紫錦区へ入ると、運良く理天区の方向へ向かう迅犬の車に出逢った。これ幸いとそちらに乗り換え、二人は安堵のため息をつく。


「法師。わたしは紫錦の途中で降ります」

「黒海か?」

 エルメは外に目を向けたまま頷いた。シューランの言う黒海とは紫錦黒海学院しきんこっかいがくいんを指す。


 車は相乗りだったが、途中で青龍から来た客が降り、車内に残ったのはシューランとエルメの二人だけとなった。


 シューランとて、内心は一刻も早く朱の国の家族のもとへと帰りたいだろう。しかしやはり彼は「大層疲れただろう」とエルメを気遣い、御者に黒海学院へ寄るよう掛け合った。

 昔から、シューランには何かと頭が上がらないことが多いエルメだが、果たして積もり積もった恩をどれほど返せるのか、と、疑問に思う。ソンテとジュゼを前に本人は謙遜するが、案外、冥裏郷でのシューランの立ち振る舞いには危なげがないのだ。エルメが彼のために尽力するような機会が、この先一度でもあるのか、はなはだ怪しい。


 馬車を降りてシューランと互いの頬を叩いてから、エルメは黒海学院の正門をくぐった。理天学院や藤京学院の正門よりこざっぱりして見えるのは、比較的新しい学院だからだろう。

 紫錦出身のサンとガレアの話では、黒海学院の歴史はせいぜい二、三十年のはずである。


 エルメは立ち並ぶ学舎には見向きもせず、それらをすり抜けて学院の奥へと走った。

 鶏小屋や厩も通り越すとようやく視界が開け、エルメは足を止めた。

 学院の敷地内にも関わらず、そこは広大な畑となっていた。だが、かなり様子はおかしい。土の色はあちこち不揃いで、植えられているものも様々だ。なかには土とも泥とも言い難い、まるで糞で作ったような畑もある。

 埃っぽくて湿気っていて少し臭い。あまり深く吸い込みたくはないが、エルメはこの匂いがそれほど嫌いではなかった。むしろ、とても懐かしい感じがする。


「おーい、エルメちゃん! 久しぶりー!」


 背後から名を呼ばれ、弾けるように振り向くと、洗ったばかりの農具を担いだ若者がエルメに笑顔を向けていた。少しユノンに風貌が似ていることも手伝って、エルメもメルも、出会ってすぐに素朴で優しい彼のことを気に入った。


「ユッセ先生! 今日は一人?」


「うん、昼からはね。……でもおばけが出るから気を付けて!」


 不自然なほど早口でユッセはそう叫んだ。エルメは意味がわからず一瞬ぽかんとしたが、それとほぼ同時に、エルメの頭上から何か大きなものがドスッと落ちてきた。咄嗟に「うわあ」と悲鳴を上げて一歩後ずさる。

 辛うじて尻もちはつかなかったが、ユッセの楽しそうな笑い声が聞こえて、ようやくエルメは彼らにからかわれたのだと理解した。


「ロッカみたいな悲鳴だったな。しかしエルメのほうが肝が太そうだ。なあ、ユッセ」


 落ちてきたのは、すらりと背の高い若者である。

 ユッセと同じく泥まみれの粗末な服を着ているが、どこにいても目立つ華やかな顔立ちは、一度見たらなかなか忘れられるものではない。長い乳白色の髪は、エルメと同じ形に結い上げてられていた。


「お兄にもこんな悪戯してるのか……ロッカはもう大人なんだから、勘弁してやってくれよ、にいや」

「そうしてやりたいのだが、情けないことにおれも引っ込みがつかなくてな。こんな吾兄ニイニイで申し訳ないと常々思っている」

「鏡を貸すか? 心底楽しそうなにやけ顔だぞ」


エルメはちくりと嫌味を言ってみたが、何と言っても可笑しそうに笑われるだけだった。理天にまで評判が届くほど、やれ働き者の好青年だの、人望があるだのともてはやされているくせに、悪戯と冗談好きは少年時代からまったく変わりないと見える。


 理天育ちのエルメは、紫錦の地にほとんど所縁ゆかりがない。

 しかしこの珍妙な畑の主である二人、ユッセとアサンは、声を揃えて「おかえり!」とエルメに言った。



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