第3話

 3:


「こいつがぁ、あのドラクラハンターの妹かぁ」


 下男のフィルコ。小柄で猫背の吸血鬼の男が、自分の古ぼけた顎を撫でながら見下ろしてくる。


「幼ねえなぁ」


 横に回ってきたのを機に、覗き込んでくるフィルコの顔を横目で見る。たれ目がちの目には、死んだ魚のような瞳が覗いていた。


「俺ぁもっと肉のついた女ぁをイカせてえなぁ」


 気の狂った蛙が鳴くような笑い声を付け足して、こちらから離れるフィルコ。


「フィルコ、宴のために連れてきたわけではない」


 女執事のヴィヴァリーが、体ごと自分とフィルコの間に入ってきた。


「こりゃぁ失礼しましたぁ」


 気味の悪い笑い声が遠ざかって行く。


「気にするな希美」


 膝を床につけて首を垂れる私の耳元で、ヴィヴァリーが囁いた。


「離れよ、フィルコ」


 まだ付近で物珍しそうに眺めていたのか、ヴィヴァリーがフィルコへ言い放った。


 しばらくの静寂の後――フィルコが十分に離れたのだろう。それから、ヴィヴァリーが前面へ向かって――吸血鬼の主、エリザベート・バートリーへ言った。


「この者が、この付近にいるドラクラハンター……その妹のグール、巳代希美という者でございます」


 静寂。


 わずかに衣擦れの音がして、


「そうか」


 エリザベート・バートリーが口を開いた。


「巳代希美、と言ったな。顔を上げても良いぞ」

「はい」


 私が顔を上げると、黄金の玉座に足を組んで座るエリザベートがいた。


 エリザベートの左右には――向かって左側にエリザベートの乳母であるイローナ・ジョー。右側には人間であった頃から魔術師と呼ばれた女ドロテナ・ツンネスが並んでいる。


 執事のヨハネ・ヴィヴァリーは私のすぐ横に。


 あの気持ち悪い吸血鬼の男フィルコは、エリザベートの座る椅子よりも自分たちよりも離れた場所に、一人で下卑た笑みを見せている。


 エリザベートの下僕は五人。


 執事ヴィヴァリー。乳母のイローナに女魔術師のドロテナ。下男のフィルコ。そして巫女のダルヴァリーが……居たはずだったのだが。その巫女のダルヴァリーは見当たらなかった。


「お前があの、〈シルバニアン〉の、ハンターの妹であることは確かか?」


「はい」


 エリザベートの問いに、姿勢を崩さず答えた。


「なぜそのような事となった、申してみよ」


 別段、エリザベートは興味津々と言った面持ちで聞いてきているわけではない。まるで退屈な執務を、頬杖を付いて受け答えているような、気だるそうな声音だった。


「はい、私たち家族は、エリザベート様がこの地に来られたばかりの頃、そのグールの手によって、父母共々、吸血鬼の下位となりました。しかし私の姉、巳代珠枝だけは難を逃れ、〈シルバニアン〉のドラクラハンターによって保護され……姉はどうやらそのまま、ドラクラハンターとなった様子でございます」


 長い説明を気持ち半ばで聞いていたのか、答え終わった後でのエリザベートの反応には数秒を要した。


「……ふむ」


 小さい相づち。


 吸血鬼は自分たちを吸血鬼と呼んでも、自分たちをヴァンパイアとは呼ばない。


 あくまで吸血鬼とは日本語。ヴァンパイア達がドラクラと呼ぶ理由は、『串刺し王』と呼ばれたヴラド・ツェペシュが――吸血鬼の王の父親がヴラド・ドラクルという名前であり、ヴラド・ツェペシュ自身は自らをドラクルの子、ドラクラと呼んだ事に由来する――吸血鬼は自分たちは自分たちをヴァンパイアと言わず、吸血鬼(ドラクラ)と呼んでいた。


 もう一度エリザベートが口を開く。


「続けよ」


 どうやら本当に、曖昧に聞いていただけらしい。


「私と姉との、現在に至る関係は、以上でございます」

「……そうか」


 緩慢な動作で、手に持った扇子を揺らしているエリザベート。

 硬い空気が静かに流れる。


「エリザベート様」


 沈黙を破ったのは、私の隣にいたヴィヴァリーだった。


「申してみよ」


 ヴィヴァリーはエリザベートへ一礼してから進言する。


「この我等の僕となった妹と、ドラクラハンターとなった姉とで、殺し合いをさせてみてはいかがでしょうか?」


 ぴくりと、エリザベートが耳を傾けるような表情をしたのと、私がヴィヴァリーの言葉にはっとなったのは、ほぼ同時だった。


「ほほう」


 もう四百年近くも退屈していた吸血鬼の女は、ようやくまともに動き出したかのように、足を組み直して続きを待った。


「グールになった妹と、生き長らえてドラクラハンターとなった姉は、縁者でありながら存在そのものが敵同士。殺し合い追う追われる関係となっております。ここで、この妹の希美を使い、我らが助力を持って、ヴァンパイアハンターの姉を返り討ちにしてみれば、エリザベート様の永劫にも、少しばかりの刺激となりましょう」


(――外道共め)


 喉まで出かかった言葉を飲み込む。


 元より、私の好きだった一騎君を殺した姉に、どうにかしてやりたいと思っていたが、こうもはっきり演じろと言われると、いくら復讐心でも冷めてしまいそうになる。


(だけど、これは……この状況は。チャンスだ)


 頭の中で、かちりと小気味良く歯車が重なる感覚がした。


「エリザベート様」


 ヴィヴァリーとエリザベートの会話の腰を折って、ヴィヴァリーがきつい目尻を向けてきたが、黙ったままエリザベートの返答を待つ。


「良いぞ、申してみよ」


 隣でヴィヴァリーがこほんと咳払いをしたが、エリザベートの許可が下りて発言する。


「私は……私自身は下位の吸血鬼、グールでございます。対して姉はドラクラハンターであり、仲間もいるでしょう。他の者の助力を頂けたとしましても、私自身が下位のままでは……弱いままでは、返り討ちに合うのは私の方でございます」


 言い終えると、再び沈黙が広がった。


(これは賭け)


 エリザベートの興が乗らなければできないが――


 姉が今まで屠ってきた雑魚と変わらない私だ。このままの状態でまた姉と出会ったのならば、私は雑魚の一つとして簡単に倒されるだろう。


(あの姉に並ぶ力が要る。そして、私の最初の狙いにも近づく)


 即興だが、自由を得るための、賭けだ。


 黙ったまま、エリザベートの答えを待つ。


 人間の頃より『血塗れ伯爵夫人』と呼ばれた、現吸血鬼の主は、


「ふむ、はっきり申してみよ」


 乗ってきた。


 チャンスを得た胸の内を押し殺したまま、声音を変えずに返す。


「はい、私を今より上位のグールにさせていただきたく思います……この中におられる、どなたかの血を、いただきとうございます」


 エリザベートを除いたこの場の、四人の下僕たちが一様に反応する。一瞬だけ緊張が走り、誰もが黙ったままでいた。


 この中で動いたただ一人――緩慢とした動作で、首を前に出したエリザベートが言ってくる。


 もうエリザベートに退屈な空気は無く、その瞳は見開かれていた。


「お前のような、たかだか十五程度の小娘が、私の退屈を満たすためだけに、下僕たちの血が欲しいと言うか?」


 その声は嬉々としていても、眺められる側はぞっとするほどの、凄みがある声だった。


 心臓が握りつぶされそうな感覚。体が小刻みに震え始める。


 これは吸血鬼の本能。


 吸血鬼はその存在そのものが『血』だと言っても、過言ではない。


「……はい」


 震える体からなんとか声を出す。


 自分は今、自分より破格の上位吸血鬼に進言している。


 自分より上位の吸血鬼に進言するだけでも本能は震え上がり、止まらない警鐘を鳴らす。腹を空かした肉食獣と向き合っているような、そんな危険域。いやおそらくそれを超えるほどの、恐れかもしれない。


(ここで物怖じはできない、返さなきゃ)


 それでも身を乗り出している吸血鬼の主へ、逸らす事のできない視線を真っ向から受けながら、進言する。


「……相対した時、姉はまず私を狙うでしょう……相手が縁者でなくとも、まず弱いものから、倒して行くのが上策でもあります」


「ふむ」


 エリザベートの相づち。しかし今度ははっきりと返してきた。興味をくすぐられていると分かる。


「ここにおられるエリザベート様の配下方に、助力いただいたとしても、まず私は、姉を相手に何もできないでしょう。真に相対するには、少なくとも、今よりもさらに、上位のヴァンパイアに……理想としましては、配下の方の血を分けていただける事が、エリザベート様を、よりいっそう……御退屈より、解き放てる事となりましょう」


 言葉も切れ切れで、自分でも何を言っているのか、言ったそばから忘れていってしまう。


 まくし立てる必死さを押し殺しながら、言葉をつなげるだけで精一杯だった。


 エリザベートの爛々とした眼、見開かれている瞳が、体を激しく揺さぶられるほどに恐ろしかった。


 まじまじと、面白そうな玩具を見たようなエリザベートの視線を、十分以上浴びせられ、


「いいだろう」


 エリザベートの許可が下りた。


「ヴィヴァリー、お前の血を分けてやるがいい」


「はっ。仰せのままに」


 一礼するヴィヴァリー。


 たまたま近くにいたからだろう。得られるのは執事のヴィヴァリーの血になった。


 あの気持ち悪いフィルコの血だったかもしれないと思うと、女執事のヴィヴァリーからならば上々だ。


「――だが」


 エリザベートが再び口を開いた。


「ドラクラハンターの姉を殺す事ができなかった時も考え、その時お前がおめおめ生き残っていたとしたら……その時は分かっておるな?」


「…………」


 答えられずに黙ってしまっていると、『血塗れ伯爵夫人』エリザベートは念押しで言ってきた。


「よく覚えておけ」


「……はい」


 エリザベートバートリー、人間の頃より『血塗れ伯爵夫人』の異名を持つ吸血鬼。


 人間であった頃の彼女は数々の拷問器具を使って、集めた女性の血を絞り取っていた。

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