血塗れ伯爵夫人

第1話

 1:


「一騎君!」


 愛していると言えるような時間をすごしたわけではない、だけど確かにそうはっきりと想える。初恋の人。名前の方を呼ぶだけでも勇気が必要だった、初めて恋をした相手。


 高行一騎が銀の刀で心臓を貫かれ、何をされたのか分からなかった様子の彼がはっとなって、苦悶の表情に。


 そして、刃の一閃で頭が首から離れて飛んで行った。


 ハンドガンの発砲音。空中で弾丸に穿たれる頭、顔、額。


 砂で作った人形のように、人の形が崩れ、砂利よりも砂よりも細かく崩れて、消えてしまう。高行一騎――初恋の人。


「一騎君!」


 無駄と分かっていても、一騎の元へ駆け寄りたい衝動が、襲い掛かってくる人狼に押さえつけられる。声が彼に届かない。


「希美……いえ、希美の体に巣食うヴァンパイア」


 高行一騎を殺した者がこちらに向いた。銀の刀とハンドガンを下げて。


「これ以上、希美の体を弄ばせはしない。妹の体を返してもらうわ」


 巳代珠枝――実の姉。


「違う!」


 人狼が首に噛み付くのを空振った隙に、身をよじって人狼の横腹を蹴って逃げる。人狼がすぐさま起き上がるが、珠枝の手で制された。


 すぐに高行一騎の元へ駆け寄る。


 彼はもうとっくに、塵よりも細かいただの小山に成り果てた姿になっていた。手で掴み、掬い取っても、指の間からさらさらと零れ落ちて行く。衣服の混じった細かい塵。涙をこぼしながら探ると、絆創膏があった。


「一騎君。いっき……くん」


 輪っかの形になっている絆創膏。もう巻いていた指は無くなっている。

 高行一騎という初恋の男の子は消えてしまった。


「……殺すなんて」


 ふつふつと湧き上がる感情があった。


 彼への想いが――想いだったものが煮え始まって、激情に色を変えて行く。


「私は……私は希美よ! まだ生きてる! ここにいるわ! 一騎君もそうだった!」


 そう、私は確かに吸血鬼……ヴァンパイアになった。

 振り返って叫ぶ。全力で投げるように。


「一騎君は生きていたのよ! まだ私も、生きているのよ! お姉ちゃんの方が人殺しじゃない!」


 しん、叫び声の余韻が痛むほどの静寂になる。


 ただまっすぐにこちらを見返す姉の視線。感情があるのか分からないほど冷えた眼差し。


 私を見る哀れみの眼。


 数秒か十秒ほどか、珠枝がポツリと口を開いた。


「違うわ」


 皮の手袋が締まる音。そして、銀の刀が小さくカチリと硬く鳴る音がして、珠枝は素直に、静かに肯定した。


「父さんも母さんも、あなたも失った。みんなヴァンパイアの下僕。屍奴隷(グール)にされた」


 珠枝の表情の陰って表情が分からなくなる。だが、決意が灯る眼差しが、すぐに返ってきた。


「私は、あなた達をヴァンパイアに変えた奴を許さない……そして」


 珠枝は希美へハンドガンの銃口を向けた。


「父さん母さん希美を、吸血鬼の呪縛から開放する。そのために〈シルバニアン〉に入ったの。ただの被害者のままで、泣き崩れるだけの生き方なんてできない……復讐でもいい、足掻いているだけでもいい。ただこのまま一方的に奪われたままだなんて、それこそ出来ない!」


 実の姉の眼差しを受けて、心が寂しく冷たくなった。


「……違う」


 首を振って、否定する。


「私は希美よ……今でもお姉ちゃんの妹だよ」


 記憶もある、思い出もある、心もある。


 そしてまだ自分自身がここに存在している。


 自分の胸に手を当てて、はっきりと分かる。


「私はまだ、ここにいるの!」

「…………」


 無表情のままの珠枝。


 それでも叫んだ。


「私は確かにヴァンパイアになった! だけどそれで私が死んだなんて思わないで。私は体が吸血鬼化して、屍奴隷になって、上位の吸血鬼に逆らえないけど……それでも、それでも私の心も意思も、記憶もあるのよ。それでも生きているのよ、まだ……生きてるの! 吸血鬼になったのなら、されたのなら、そうして生きて行くしかないじゃない!」


 コンクリートと寂れた壁面と屋根の中で、短く木霊する自分の叫び。

 頭に響くほど叫んで、砕け散った後のような静寂が広がり――


 突然屋根が爆ぜた。


 壊れた建築材と汚い煙が降り注いできて、辺りが一度暗くなる。


 すぐ後ろに気配。


 瞬間の隙を狙われたと思ったが、それは違った。


「巳代希美。主がお呼びだ」

「ヴィヴァリー様」


 屋根を破って背後に現れた女性。名を呼ぶと同時に、正面から発砲音がした。


 すかさず、現れた女性――ヴィヴァリーが背中の翼を盾にして、珠枝が撃った弾丸を防いだ。


 傲慢にも見える毅然とした声で、ヴィヴァリーが珠枝へ視線を向ける。


 途端、風が重苦しく引き裂かれる音がして視界が歪んだ。


 衝突音。珠枝とその隣にいた人狼が、不可視の強い圧力で吹き飛ばされ、建物の壁際まで転がっていく。


「主は大変お暇を持て余しておられる。早急にその憂鬱を払わねばならない……命拾いしたな、ドラクラハンター」


 それだけ珠枝に告げると、腰に手を回してヴィヴァリーがこちらを抱いて来た。


「また会おう」


 強い上昇感を自覚する頃には、すでに建物の天井を越え、夜闇と光点が見える街下が広がっていた。


 初恋の男の子を殺した……ヴァンパイアハンターになった姉はもう、見えなくなった。

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