第3話 やつあたり

 帝都ロンディニウムの東側にある港湾地区は、西側にある貴族街とはあまりにも対照的だった。


 偉大なる皇帝陛下のお膝元、強大な帝国の象徴たる帝都ではあるが、大都市であるが故に帝国の威光が届かない場所も存在する。港湾地区は海上交易の要であると同時に、職にあぶれた貧困層や後ろ暗い経歴の持ち主が集まる場所にもなっていた。


 特に港として利用できない岸壁付近の土地には貧民窟スラムが形成され、犯罪の温床ともなっている。帝国の治安を預かる憲兵ですら迂闊に踏み入らない危険地帯。だがだからこそ、行き場を失った者が身を置くにはうってつけの場所と言える。


 そんな港湾地区の外れ、繁華街の端と貧民窟を曖昧に隔てる境界線付近に、一軒の小さな酒場があった。


 この酒場で提供されるのはたった一種類の得体の知れない酒と、つまみ代わりの塩だけ。酒は安くて強い以外に何の取り得もないもので、一口目が不味く、のど越しも不味く、後味もまた不味く、悪酔いしやすく、二日酔いしやすいという、これで金を取っていいのかと言いたくなる代物だ。


 当然こんな酒をわざわざ呑む者が裕福なわけもなく、酒場の客層は底辺としか言いようがない。金を稼げず、今後も稼げなさそうな者こそがこの店の常連なのだ。


 そのためこの酒場には破落戸ゴロツキの類すらいない。彼らは他人に寄生したり暴力で奪ったりすることで稼ぐ能力がある。そうやって稼いだ金があるならわざわざこんな酒に手を出しはしない。


 この酒場にいるのはこんな酒しか手にできない負け犬やごく潰しであり、人生の落伍者ともうすぐ落伍者になる者しかいないと言われていた。




 その酒場の一角を、周囲にいる者たちよりさらに一段と昏い顔で占拠する者がいた。それも、二人。


 一人は黒髪に紫の瞳を持つ、くたびれ切った様子の人間の男。目の前に置かれたコップをただ虚ろに睨むだけで、まるで石化したかのように動かない。このまま放っておけば朝までには立派な石像になっていそうである。


 そしてもう一人は一見12歳程度の少女に見える、妖精族の一種であるハーフリングの女。コップを両手で握り締めながら、掠れて聞き取りづらい声で何事かを呟き続けている。原因は不明だが、追い詰められているということは嫌というほど伝わってきた。


 一般的にハーフリングは陽気で快楽的で刹那的な性格をしている者が多い。だがこの女からはそういった要素が全く感じられなかった。虚ろで光を反射しない碧の瞳。肩にかかる緑の髪は潮風に晒されて枝毛だらけ。最後に手入れをしたのはいったいどれほど前なのか。手足は痩せ細り頬がこけ健康状態もまともでないのは一目でわかる。肌の艶にいたってはむしろ老人のようだ。


 こんな二人がなんの偶然か隣り合った席に座っているのだ。ただでさえ昏い店内は普段以上に重苦しい雰囲気に包まれていた。


「ウチ、いつまでこのままなんやろ。いつまで経っても一人前になられへんし、そのせいで給料も上がれへんし、借金は減るどころか増える一方やし。明日もまた休みのはずやのに仕事やし。なんでこんなに働いてんのに借金増えるんやろ」


 ハーフリングは手元の酒を呷りながら、まるで呪詛のような呟きを垂れ流し続けている。同じような内容を何度も繰り返していて、そのうち邪神でも降臨させそうな勢いだ。もっとも今は周囲から他の客が離れていく効果しかなかったが。例外は隣に座る石像だけ。


「……」


「ウチは金を貯めるために帝都に来たんや。やのになんで段々借金が増えるねん。ウチがなんか悪いことした言うんか。もうどないしたらええねん」


 誰にともなく問いかけるハーフリングの言葉を、受け止める者は誰もいない。おそらくここで愚痴を吐き出すだけ吐きだしたら、また元の日常に戻るしかないのだろう。心か身体が擦り切れるその日まで。それがこの酒場に流れ着く者の末路だ。


 本来で、あれば。


 ハーフリングの隣に座る石像男ことノエルは、延々と垂れ流されるハーフリングの愚痴と、そこに紛れた来歴を聞くともなく聞いていた。


 田舎から一旗揚げようと帝都にやってきて、ハーフリングの種族適性を活かした職である航海士の見習いとして雇われる。だがほどなく大きな失敗で借金を作ってしまい、雇用主の厚意で返済は待ってもらえたものの、見習いの給料では利子を返すのが精一杯。航海士としての技量はなかなか認められず、給料が上がる見通しもない。そのうちまた失敗によって借金が増え、利子の返済すら満足にできなくなる。後は時間と共に借金が膨れ上がるだけだ。


 不幸な話と言えばそうだし、珍しくもない話とも言える。当事者以外にはどうでもいい話であろう。そしてノエルにとっては、


「……くっ」


 滑稽な話、だったのである。


 ノエルは今日までとても低い確率ではあるものの、ガードナー伯爵家を継ぎ近衛師団長に就任する可能性があった。そのため軍学校に入る12歳までに身につけた学問には、近衛師団隷下の憲兵隊を運用するために一通りの法律知識も含まれていたのだ。


 当然ながら民間の商業や雇用に関する法律も網羅しており、その内容に照らし合わせればこのハーフリングの置かれた状況には不自然なところが多数思い当たった。


 早い話がこのハーフリングは騙されているのだ。おそらくは雇い主によって。


「くくっ」


 だがノエルが笑ったのはこのハーフリングの境遇ではない。こんなそっくりさんを突き付けられても、まだ自分が騙されたと認めようとしない希代の大馬鹿者を笑ったのだ。


 そう、騙されていたのだ。生まれた時からずっと騙されていた。頑張っていればいつか報われるだなんて幻想に、いつまでも騙されていたのだ。これが笑わずにいられるか。


「ふははっ」


 よく言うではないか。騙される奴が愚かなのだと。なら騙されて落ちるところまで落ちた自分は、底抜けの愚者である。一歩手前で踏みとどまっているこのハーフリングのほうがよほどマシだ。少なくともまだやり直せる余地がある。


「あんた、なに笑てんねん」


 ハーフリングが剣呑な目でノエルを睨む。だが顔立ちも声も可愛らしいせいで、荒んだ表情をしていてもあまり迫力がない。少なくともノエルにとってハーフリングが睨んできたことは、話のきっかけにしかならなかった。


「騙されてますよ、貴女」


 ノエルの口から親切めかした言葉が出る。もちろん嘘ではない。このハーフリングは確かに騙されている。それを指摘し、対策を教えてやるのは間違いなく親切であろう。


 別にこのハーフリングを哀れに思ったわけではないし、助けてやる義理もない。虚しさも消えずに胸に居座っているし、助けた後どうするという展望があるわけでもなかった。


 ただ、騙される側でいることに飽きただけ。最期に一度くらい、八つ当たりしてもいいかと思っただけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る