第4話 かどわかす

 ヴェラがその酒場で出会ったのは、控えめに言って失礼な男だった。


 いつもながら予定通り終わらなかった仕事をなんとか終え、毎日毎日酒に誘ってくる水夫長に見つからないように勤め先であるレアード海運をこっそり出たのが十一の鐘(22時)。まっすぐ部屋に帰ろうかとも思ったが、溜まりに溜まったストレスを解消しようと酒場へ足を運ぶことにした。


 とはいえ水夫長や取り巻きの水夫たちに見つかるのは避けたいし、手持ちもかなり心もとない。なので気は進まないが知っている中で最も安い酒場に行くことにした。ここなら見栄っ張りの水夫長は来ないし、財布にも優しい。あと酒が不味いおかげで荒くれがめったに来ないという利点もある。その分、酒は本当に不味いが。


 だが狭い店内でやっと席を確保し、一杯目の酒にありついたところで嫌なモノを見た。何か大きなしくじりでもしたのだろう、抜け殻のようになった人間の男だ。


 見た目は20歳前後といったところか。首が項垂れているせで、黒髪の向こうの瞳の色はわからない。このあたりの住人としては体つきがしっかりしているし、服装もこざっぱりしている。おそらく堕ちてきたばかりなのだろう。


 こういうのをあまり見ていると、自分の気分まで引きずり込まれる。そのためヴェラはなるべくその男を意識しないようにしていた。


 それが良くなかったのかも知れない。ヴェラは男から目をそらすために、自分の内面に意識を向けてしまった。その結果として先の見えない借金生活のことを直視してしまい、とんでもない負の螺旋にはまったのだ。


 口をついて出る愚痴と後悔と恨み言と呪詛。だが出せば出すだけさらに自分の気分が沈んでいく。この酒場で出される酒が、安いわりに酒精だけは滅法強いということを思い出した時にはもう遅かった。


「くっ」


 よりにもよって、原因になった抜け殻男に笑われたのだ。


「くくっ……ふははっ」


「あんた、なに笑てんねん」


 思わず半眼になって文句をつけたが、男は気にした様子もない。明らかに舐められている。なんと失礼な男か。ヴェラはその容姿から舐められることに慣れてはいるが、別に寛容なわけではない。むしろ気は短いほうだ。


「騙されてますよ、貴女」


 だというのに、男はさらにヴェラを小馬鹿にするようなことを言い出した。ああ、本当に気に入らない。


「何がやねん。ウチが誰に騙されてる言うんや」


「雇い主です。心当たりがありますよね?」


 苛立たし気に問い質すものの、紫の瞳に確信を込めて返答されてしまう。そうなると今の境遇に対する不満も手伝って、自分の中の信頼がわずかに揺らいだ。


「船長は……そないなお人やない……」


「何故そう言えるのです?」


「え……?」


 ヴェラの返答を否定するのではなく、男は根拠を聞いてきた。だが人が人を信じるのに、根拠は必ずしも存在しない。いやむしろ確たる理由があって信用する相手というのはなかなかいないだろう。


 返答に詰まるヴェラに対して、男は1つの事実を告げる。


「帝国雇用法第12条4項、従業員の過失によって生じた損害は、故意または重大な過失が認められた場合に限り本人へ請求できるものとする」


「な、なんや急に」


「従業員の失敗で発生した損害は、わざとやったかとんでもない失敗の結果でない限り、雇用主が負担しなければいけないという法律です。貴女の借金は、本来ならあるはずがないものなんですよ」


「へ? 嘘やろ?」


「嘘だと思うなら明日にでも行政地区に行って、役所なり図書館なりで調べて下さい。法律で嘘ついたって後で確実にバレますよ」


 そう言われれば確かにそうだ。字の読めない者ならともかく、そうでないなら法律を確認することは誰にでもできる。ここで嘘をつく意味はないだろう。


「えと、そしたらウチがその法律のことを船長に言うたら借金無くなるのん?」


「故意または重大な過失に該当しないなら、ですがね。その借金の原因になった失敗を役所や憲兵に届け出て、そこで認定されていれば話は別ですが」


「いやさすがにそんな大事やなかったわ。荷物が納期に間に合わんかったことの違約金やし」


「だったら間違いありません。あと役所に告発すればその船長は捕まることになるでしょうね」


「え? その法律を知らんかっただけかも知れんのに?」


「関係ありません。法律を知らなかったから破って良いなんて理屈、通るわけがないでしょう」


 それはそうだ。例えば殺人罪を知らない者は、人を殺しても罪に問われないなんてことがあるわけがない。知りませんでしたは言い訳にならないだろう。


 とはいえ、ヴェラにとって船長は付き合いの長い相手だ。いきなり官憲に突き出すようなことはやりにくいというか、したくない。


「まあウチとしては借金が消えるだけでありがたい話やから、船長に捕まって欲しいとまでは思わんわ。皆にも迷惑かかるしな」


「そうですか。気前がいいのですね」


 男の突き放すような言い方に妙な引っかかりを感じるヴェラ。おそらくだが、今の言葉には何かの含みがある。


「なにその気前がええいうのは」


「そりゃそうでしょう。今まで貴女が返済してきた分に加えて、慰謝料も取ろうと思えば取れるんですよ。それがいらないというのは気前がいいじゃないですか」


「あ……」


 貧乏暮らしが長すぎたせいか、感覚的に貧乏であることが当たり前になってしまっていた。だがよく考えれば男の言うとおり、今までの返済分は返してもらって当然だ。


「あと、さっきの愚痴からわかったのは借金の件だけですが、もっと詳しく聞けば他にも出てくるかも知れません。ことによるとひと財産になるかもですね」


 そう言われてしまうと、ヴェラとて目的があって帝都に来た身である。目の前の仕事と生活で忘れかけていたが、その金があれば目標に手が届くかも知れない。


「それにあくまでも引き出せるのは、本来なら貴女が受け取っているはずのお金だけです。その額が小さくないのなら、それだけ貴女は迷惑を被っていたという理屈になります」


 これも言われてみればその通りだ。冷静になって考えれば、レアード海運が法律に沿って運営されていないからそういった話になるのである。ならばむしろ同情などするべきではないのかも知れない。


 とはいえ、さすがに初対面の胡散臭い男の口車にあっさり乗るのはいかがなものか。後で何を要求されるかわかったものではないとも思う。この男の目的は全くわからないのだから。


「それをウチが話したとして、あんたに何の得があるのん?」


「人助けと言ったら、納得してくれます?」


「するわけないやろ。まだウチの身体目当て言われたほうが納得いくわ」


 元々ヴェラはハーフリングとしてはかなりの美人であるし、少し特殊な趣味の人間からも誘われることが時々ある。例えば最近は水夫長が鬱陶しいくらいしつこい。そのため身体目当てというのは嬉しくはないが納得はできる。


 とはいえこの男の場合は違うように感じた。あくまでも直感で根拠はないが、もっと別の動機が含まれているような気がしてならない。


 だが男は本心を見通させない笑顔を見せ、あろうことか肯定したのである。


「なら身体目当てってことにしましょう」


「なんやその取ってつけたような言い方は。絶対嘘やろ」


 そう言いつつ、ヴェラはこれ以上の追及が難しいことも感じていた。目的も何もかも、この男は明かすつもりはないのだろう。ならば今わかっていることから推理するしかない。


 先ほどの会話から法律に詳しいというのは確かだと思われる。この時点でこの男の正体は犯罪を取り締まる憲兵、裁判を取り仕切る調停官、裁判で代理人を務める代行士あたりが考えられた。


 だが彼らは基本的に多忙で、頼まれもしないのにレアード海運やましてヴェラ個人のことに関わっている暇などないはずだ。ならばこの男は結局何者なのか。男を信用できる要素は相変わらず何もない。何もないまま、判断を下す必要がある。


 普通に考えればこんな男の手を借りるなど、危なっかしくてできるわけがない。だがヴェラの直感が、頭の片隅で何かを囁いていた。いや、そそのかしていた。


「どうします? このまま何も聞かなかったことにして、それを飲んだら帰りますか? そして明日からも返せそうにない借金に苦しみますか?」


 嫌な追い詰め方をしてくる男に、ヴェラの苛立ちが増す。だが言っていることは間違っていない。可能なら今の生活から抜け出したいのが本音だ。


「仮に頼んだら、具体的には何をどうするん?」


「レアード海運を調停局に訴えることになります。そのための準備も僕が手配しますよ」


 調停局とは民間の揉め事を法に則って裁定する機関だ。帝国民なら誰でも利用できるが、大抵は法律に詳しい人間に頼ることが多い。それを専門に請け負う代行士という職業もある


「そういうんって、謝礼は取り返したお金の何割とかいうのが普通とちゃうん?」


「その方が頼みやすいならそれでもいいですよ。その場合、報酬は一割で」


 ヴェラはしばし考え込む。こういった時の相場など知らないので、損なのか得なのかはわからない。だが許容できないほどの額でもなかった。


「ほな成功報酬のみでええんやったら手ぇ借りるわ。どない?」


 あまりにも曖昧でいい加減な口約束。常識的に考えれば、こんな約束に乗ってくる者はいない。だがここに常識を持つ者は一人もいないようであった。


「契約成立ですね。僕はノエル。よろしくお願いします」


「ウチはヴェラ言うねん。よろしゅうに」


「出会いを祝して、ここの払いは僕が持ちますよ」


「ええのん? ほなおかわりもらおかな」


 ヴェラは遠慮なく2杯目の酒を要求する。たとえ根拠が直感しかないとしても、一度始めた賭けでうじうじと悩まない。それがヴェラのハーフリングとしての生き方だった。


 久々の無料ただ酒に気を良くし、杯を重ねるヴェラ。その傍らノエルの質問に答える形で、レアード海運と自分の境遇について細かく説明していく。二人の話し合いは一の鐘(二時)が鳴る頃まで続いたのであった。


 そしてこの時のヴェラには、翌日大変な後悔が待ち構えていることなど知るよしもなかったのである。

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