エピローグ:匣の中/その彼方へ

――だいぶ、体は元気になってきたみたい。だから明日は盛大にやるから、姐さんも来てってば。


 クリーム色の髪をした少女が、そう手元の端末に向けて言葉を発する。白を基調とした病室には、そんな少女のはしゃいだ振りの声もすぐに吸い取ってしまうような、静謐な空気が流れ満ちていた。


 穏やかな陽光が差し込む窓際には、ほどよくリクライニングされた真っ白なベッドがあり、そこには薄いブルーの患者衣を着せられ、布団に埋もれるかのように力無く沈み込む少年がいる。その表情はうっすらと笑っているように感じられるが、顔色は蒼白のまま、眼の焦点はどこにも合っていないようであった。


――誕生日よぅ、フミヤくんの。ケーキとか食べるんだもん。プレゼント持って、ここに来てよ、明日休みじゃん。……村居さんもいいよね?


 弾むような少女の声は、周りの床や壁に当たっては、そのまま搔き消えていくようであって。静謐は次第にこの直方体の空間を埋め始めてきているようでもあった。


――まだ意識は戻ってないけど、それでも分かってるはずだもん。そういったさぁ、非日常なイベントがきっかけで戻るってドラマティックなことがあるかも知れないじゃん。はぇあ? なにそれっ、童話じゃないし、え? ししてるよ? でもそれは朝の挨拶的なものであってそれで起きないならとか、そういうのとはまた別個、みたいな……


 少女の声は虚ろに響き続けるのであって……


 とか、もう限界だ。


「あ、あのー姫宮さん……?」


 掠れに掠れていた声を何とか食道自体を震わせるかのように苦労して放つ。が、一瞬動きを止めたように見えたその華奢な後ろ姿はまた、手元の端末に向けて何事かを喋り始めるのだけれど。


 限界だ、喉の渇きも、尿意も。解脱したような視点にて俯瞰するかのように描写を試みていたが、それはその二つを抑えるのに何一つ役には立たなかったわけで。


 しかし話している内容を鑑みると、いまこの瞬間目覚めてしまうのは何とも不都合な気がしている。ええと、僕の誕生日は五月だから、あれから半年以上経っているのかな? 随分長い間眠っていた。いや漂っていた。いやもうそれは後回しでいいか。明日まで待って……いやでももう限界だ。目覚めてしまった以上、粗相なんかをすることは僕の自尊心が許さないわけでもあって……


「ひ……」


 いま一度、声を出し絞ろうとしてふと思い出す。「帰って来たら下の名前で」。そうか、だから反応してくれないのか。でもどうやって呼ぶ? 「ヒナタ」「ヒナタさん」「ヒナタちゃん」……何かあまりしっくり来ないような。そんな逡巡をしている暇も無いというのに。い、やばい刺すような痛みが……


「ひ、ヒナちゃんっ!! 悪いんだけど喉がからからで!! おまけに相反するかもだけどすごいトイレにも行きたくて!! 身体がままならないから、ちょっと……」


 僕なりに精一杯の声を出した。ものの、やはり目の前の後ろ姿は動きが止まっただけで。確かに呼んだつもりだったけど、これはまだ意識がぼんやりしたままの白昼夢なのか?


 絶望に埋め尽くされていくかのような脳内。だが、


 刹那、だった……


「ひ、ヒナちゃ」


 再度呼びかけようとした僕の言葉は、手に持った端末を思い切り傍らの小物入れらしき物の天板に叩きつけた音に搔き消される。そのまますっと立ち上がったブレザーの後ろ姿は何の感情も纏っていないようで、いやひょっとして感情はもはや視えないのか、僕は。


 部屋の隅の背の低い冷蔵庫らしきところから取り出したペットボトルを思い切り勢いよくこちらに向けて突き出してきたその振り返った顔は。


「……ッ!!」


 怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも感じられたわけで。何色かはやはりもう分からない。が、


 次の瞬間、うわあああああーん、うああああああーんという、火の付いたような泣き声が、床に座り込んでしまった小さな体から遠慮なく縦横無尽に駆けてきて、僕の感情を根底から揺さぶるのであって。


「……」


 慌てて手先足先がふにゃふにゃに感じられる自分の体を、何とかベッドから起こそうとして突いた右腕はかくと折れ、勢い余って転がるように頭から床に無様に落下してしまうが。痛い。でも完全に目は覚めた。帰って来た。


 床に這いつくばるようにして、少しづつ、それでも確実に近づいていく。僕の底の底あたりに確かに芽生えた「感情」は、その色も形も分からないけど。熱を、感じている。必死で伸ばした僕の右手を、君は震える両手で捕まえてくれて。


 沸き起こる感情は、どうやれば伝わるのだろう。伝えることが、出来るというのだろう。言葉で、仕草で、行動で? ずっと心の匣の中に仕舞い込んできていた混然としたいろいろなものが、一斉に胸のうちに飛び出してきたようにも感じられて僕は面食らうばかりであるけれど。それはこれから考えればいいか。でも、


「……ただいま」


 引き寄せた華奢な背中を、泣きじゃくる細い体を、優しく強く抱き締める。愛おしいヒトをもう離さないという意思表示、


「……」


 そのくらいは、今の僕にだって出来るわけで。


(終)

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