#33:非→人道×トリステッツァダペアルデレ×塵芥

 場に満ちてきているのは、重力が強まったかのような、それでいて足元はふわふわと安定しないような居心地の悪さだった。


 池のこちら岸まで接近してきた緑条ロクジョウとの距離は、五メートル弱くらいか。無論、「匣」を投擲したところで到達叶わないことは分かっている。距離とかは関係ないことも。


「……さてそろそろお開きだ。仲間にならないか? とかの勧誘もどうやら聞く耳持たないだろうしねえ。まあ、この段階まで来たのならば、ボク一人でもう充分ではあるのだけれど。ささ、混沌の始まりだ。この極限まで煮詰め練り上げた『黒の感情』を竜巻のように打ち上げて、上空から煌めく漆黒の『雨』を降らせてフィナーレさ。推定半径十五キロ。しょぼいかと思われるかもだが、それで万事つつがないんだなぁ。伝播が同時一斉に始まる。獣となったニンゲンたちの狂乱の宴。原始の選別をボクは……適当なタワマン最上階ベランダからでも高見しようとするかねぇ……」


 先ほどのやり取りで、こちらへの興味を失ったようだ。緑条は背後に渦巻く黒い「感情」のうねりにふと目をやると、まるで僕らを歯牙にかけない素振りでその骨ばった右手を軽く振ったように見えた。何か、来る。衝撃に備えようと両腕を前に出して中途半端な防御姿勢を取った僕だが、


 刹那、だった。


「グルォオァァァアアアァァァアッ!!」


 獣じみた咆哮。その出元は僕の右方向奥面、から一瞬で接近されていて。首元に衝撃。透明感のある真っ赤な「感情」をそのクリーム色の逆立った髪からも、その華奢な全身からも迸らせていたのは、あの、「単感情」に支配されていた時のような、猛々しい姫宮さんであった。伸ばされた両腕は一点、僕の首を目指し、迷いなくそれを掴み締め上げてきていて。


 「感情」を「泡」に込めて付着させるとか、言ってた。「赤」の「感情」を姫宮さんに飛ばした。それか……どう意識しても身体がままならない。馬乗りになられた体勢のまま砂利に背中を押し付けられていく。


「あは。匣クンは大分耐性高いみたいだけど、そっちのコは随分とガバガバ。でもそこまで透明度高い『感情』出せるってのは凄いけどねえ……うんうんおもしろいなぁキミたちはぁ。うぅんでも時間が無いのが残念、まぁまぁ、くんずほぐれつしながらの特等席で、ショータイムを楽しんでくれよぉ?」


 その時だった。緑条が浮遊したまま、一瞬、こちらに意識を向けた。地面に仰向けでそれを見上げる恰好の僕。その位置関係。瞬間、脳の一部分が灼き切れるような感覚。それがタガだったのか、沈めていた記憶が弾けるようにフラッシュバックしていた。


 月一回の銭湯日の帰り道、交差点、赤信号、突然振り切って飛び出したあのコの手のぬくもり。歩道橋の真ん中でこちらを見下ろしていた目。その身体を包む混じりけの無い「緑」の、「幸福」の感情。


「……おまえ……だったのか」


 僕の声帯から出たのはそんな掠れた、すぐに周りの闇に吸われてしまうようなか細いものであったものの。興味深げにこちらを覗き込んで来ていた緑条の顔が刹那、愉悦のようなものでひしゃげるように歪む。


「あはあはは。覚えてるぅ、その『黒さ』。なぁんだ、キミもこちら側のニンゲンだったんじゃあないかぁ、でも『白』も『黒』も使えるなんてやはりやはり、ボクが見込んだだけのことはあったねぇ」


 黒い、煙のようなものが、自分の体から細く、何本も、暗く染まっていく空をさらに深めていくかのように放出されていた。それを物珍しそうに眺めながら、緑条は自らの周りの「緑の光」を強めていく。この色……忘れるわけがっ。


「まだ実験段階だった割りにはうまくいった好事例だったよねぇ……あの女のコ、実はね、今に至るまでの……あは、最高到達高度記録保持者なんだよぅ? いやあ奇遇、いやあ奇縁」


 頭蓋骨の中で脳全体が震えているようだった。叫び出したい衝動も、掴みかかりたい衝動も、僕を構成する細胞にはしかし、伝達しては行かなかった。呼気だけが、ただ黒い不快な粉っぽさを伴って、声も出なくなった半開きの口から煙のようにたなびくばかりだった。緑条は歪んだ笑みを崩さないまま、背後の「渦」の出来を確認し、言葉を放つ。


「『感情』なんて……クソさ。キミもそれに左右されないニンゲンならば、そこから逸脱した上で観察したり利用したり、うん、楽しんだ方が吉と、そう思うけどねぇ……。おっと時間だ。それじゃあまた出会えたのなら」


 が、ほんの一瞬、まさにの刹那、ミリほどの隙が出来たように見えた。瞬間、


 振り返った緑条の背中を追うように突如、踵を返して突っ込んでいったのは、


「……ッ!!」


 今の今まで僕に馬乗りになり首を絞めていた、いや、絞めるフリをしていた姫宮さんだったわけで。僕には分かった。彼女が「単感情」をも既に自分の支配下に置けているということを。その上で緑条の「赤感情」を敢えて受け、支配されたフリをしていた。そうだよ、感情がヒトを操るんじゃあない。ヒトが、感情を以って何事かを為すんだ。「情動」。正邪、清濁、それは自分の立ち位置からあやふやに不確実に変わるものかも知れない。不完全なものなのかも知れない。それでも。


「……」


 僕も身体を起こし、力を振り絞る。「感情」を支えにして。一直線に目指す相手に向けて。わるいやつらをやっつけるという「情動」を、自分の中にくべて。こころざし一歩くらいで断たれた、君の代わりに僕が。立ち上がり、間合いを詰めていく。


 緑条の背後から、その首を姫宮さんが両腕をクロスさせつつ強固に固定している。ふいを突かれたか、細身の身体自体に大した力は無いのか、なすがまま中空にとどまる緑条。それでもその振り返った顔には凪いだ笑みが。


「ずいぶん原始的な方法だねぇ……『感情』に揺らされないのには面食らったが、それもそこまでだぁ。匣クンの今投げつけようとしているその『正八面体』が最後の、だろう? カノジョを巻き込む覚悟でぶつけて来ようとしているようだが、こんな状態でも『泡』で弾くのは容易い。それともキミもボクの側まで肉薄してきて『起爆』させるかい? やってみるといい。例えそれでボクが封じられたところで、もうあの『渦』は止められない。キミらも良くて意識を断たれているだろう。結果は変わらない。どのみち混沌ならさぁ、一緒に見届けようよぉ?」


 残念ながら、そのねちっこく放たれる言葉の通りに、感じていた。この手の中の「光匣体」を僕と姫宮さん諸共に、奴をも巻き込んで発動させたとしても、その後「渦」を止める手筈は無い。この最後のひとつは、「渦」を封じるために使わなければならないのではないか? ダメだ、考えろ。考えて最適の行動を……


 逡巡で固まってしまった僕を嘲笑う表情を現出させてから、面倒くさそうに姫宮さんの拘束を外そうと「透明泡」を出す素振りをした緑条……その、ほんの一瞬のことだった。


「……フミヤくんはあの『竜巻』を。こいつはあたしが抱いて沈めてやるから」


 姫宮さん……その振り返った眼には、静かな諦観のような色があって。全身の毛細血管の先から血流を凍らされるかのような、美しいとしか言えないような場違いな笑みがあったわけで。持ち上げられた口角、開いた艶やかな唇の間には、先ほど僕が手渡した「匣」が挟まっていたわけで。


「さっき投げたのはさぁ、あたしの『正八面体』だったわけ。『感情』を視ることにばっか意識いってるとさぁ、実映像おろそかになっちゃうよねぇ……」


 緑条に負けず劣らずのねちっこい言葉と共に、歯で「匣」の天面をずらした姫宮さんの身体から白い光が溢れ出てくる。


「こいつを『光』で包んだのなら……ッ!! あたしが、この身体に設置された『六面』を使って封じ込めてあげるわ……ッ!! あなたの妄想するイカれた混沌なんて、来やしないんだよッ!!」


 立ち尽くすことしか出来なかった。一瞬、また目が合って。今度は自然な笑みを見せてこられて。それはいつもの、いつも通りの姫宮さんだったわけで。


「……ッ!!」


 視界も感情も埋め尽くすような「白い光」の、激しい放射が、辺りを包んだ。それでも目は閉じずに、目指す「渦」までの距離を測る。必ずそこまで辿り着く。殊更に感情を押し殺した僕が二歩三歩と砂利道を進み始めた、しかしその、


 刹那、だった……


「……っぶなかったはぁ~、『六面』? 身体に仕込む? いやはや奇天烈なだねぇ。咄嗟にその『六面』を察知して『泡』で塞ぐことが出来なかったら、いや本当にヤバかったのかも」


 緑条の、相変わらずの気に障る声。しかしそれよりも。僕の目の前にどさりと投げ出されてきたもの。そこからか細い呻き声が。


「おっとと、残り時間もそう無いみたいだねぇじゃぁあ匣クンは……ああー、もうそこで頽れているがいいよ、やっぱりキミはボクとは決定的に違う。不完全な、ままならない感情を詰めた『匣』に過ぎなかったわけだねぇ、いやはや。ではお先に」


 ひめみやさん。呼びかけようとする声は声帯に貼りついてしまったのか出てこない。緑条の気配が遠のいていき、辺りにまた暗闇が湧いてくる。その黒色の中で、姫宮さんの身体……その頭頂部と、黄緑色のブラウスの襟元から、白い煙のようなものが立ち昇っているのが見えた。抱き起こして確認する。つむじ辺り。設置された角を丸めた「面」はひしゃげていて。その下から覗く皮膚が赤く爛れているのが目に入った。と、掠れた声が響いてくる。


「えへ……へ……やっぱ無理だったかぁ。派手にキズものになっちゃったっぽいけど……だいじょうぶだよ、だから行って」


 大丈夫なわけ、ないじゃないか……っ。それに僕にだって、どうすることも出来ないよ。すがるようにその力の抜けた身体を抱きすくめる、ことしか出来ない。首を折り仰向いた姫宮さんの頬に水滴が落ちていくのを歪んだ視界で確認している。これは。


「フミヤくんの『感情』……ちゃんと出てきてるじゃん。『意志ある感情』が『情動』って村居さん言ってたよね……その先にあるのってさ、何だかあたし分かった気がする……」


 力を失っていく呟きが僕の鼓膜を震わせる。


「……」


 慄くな。嘆くな。怒るな。


 立てよ。腹の底で巡っている感情は、感情は、僕にもあるはずだろ。僕は腕の中のヒトに向けるべき感情を、自分の中で必死に手探り、紡ぎ出していく。


「……姫宮さん。終わらせてくるよ。いったん君を置いていくけど必ずまた帰ってくるから。そうしたらええと、また温泉に行こう、みんなで。テニスも本当の奴をやってみようよ。それで、ええと……あと、君が好きだ」


 滅裂な言葉は、やっぱ感情下手ぁー、と笑われてしまうが、僕は後ろ手に探ったポケットから取り出したアンプルを口で捻り開けると、中の水色液体を口に含む。


「あたしも、大好きだよ。それと帰ってきたら下の名前で呼んでよね? フミヤく」


 ん、という鼻から漏れる息を感じながら、ゆっくりと、僕は自然と溢れ出していく感情と共に、体温と同じくらいの生ぬるい液体を姫宮さんの唇に沁み込ませるように流し込んでいく。応急、くらいにはなってくれ。すぐに戻ってくるから。気を失ってしまった身体を傍らのベンチまで運び、ゆっくり横たえる。


 ……奴を、秒で伸してくるから。

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