#32:無→作為×フォルツァリポルシィヴァ×応答

 そこに近づくごとに、鳩尾辺りでぐるぐる回る不快さが増して来ていた。説明出来ないが、僕らを待ち受けているという「ロクジョウ」は、橙谷トウヤや他の輩たちとは、まったく違ったヒトのような気がしている。


 辺りは闇を深めているが、「緑色」に視える光は不気味に静謐に渦を巻きつつ、その輝きを増しているようだった。姫宮さんは僕の右腕を抱きかかえるように支えてくれているが、恐怖を感じているのか徐々に圧が掛かってきている。僕はと言えば、そんな彼女を気遣う言葉のひとつも掛けられないまま、ただただ目の前に相当な大きさで展開する「緑の渦」から何故か目を離せないまま、機械的に足を踏み出しているだけだった。


 おそらくは首謀、あの橙谷が一目置いていた風だった。そのロクジョウと思われる人影は、ふいとこちらを向いたかのような仕草を見せると、ごくごく自然な歩様で、こちらに向けて歩み出してきたのだが。


「……っ!!」


 右隣で息を小さく引き攣れるように飲む音。人影がいた浮島とこちら側の岸との間には、当然ながら池の水面が拡がっていたわけだが、その人影はさも当然のようにそこに足を降ろすと極めて静かな、それでいて何も意識することも無いかのように、するすると歩いて来ているわけで。


 落ち着け。自分たちだって例の「アクロバティック」をカマし続けてこの場に至っているわけじゃあないか。何らかを現出させてそれを足場にするくらい大したことない。あまりに自然過ぎるから少し戸惑っただけだ。僕は努めて「平常」を保たんと意識的に呼吸を深く長く取る。


 刹那、だった……


「キミかぁ~。キミが『匣』の使い手で、それでもって更なる情報では『白』の使い手と。へぇーへぇーだねえ」


 一見一聴で、年恰好の掴めない人物と感じた。性別も、言われた方に納得してしまうような。落ち着いているが高めの声にはこの場にそぐわない柔らかな歌うように上下するイントネーションがあり。身体の線を強調するかのような黒一色のスーツ上下……あの「オーミ」と名乗っていた少女と同じ色使い、すなわち、スーツのみならず、ネクタイからワイシャツまで全て黒色。その上の病的にも見える透き通る白い肌は、この闇の中では宙に浮く生首のような佇まいがあって。


 落ち着け。図らずも「匣」「白」と言われたことで、僕は自分のジーンズのポケットの中に窮屈に入れ込んでいたふたつの「匣」を思い出すことが出来た。用意してきた「光匣体スプレクァドォス」は六つ。こいつらの頭数ははっきりしてはいなかったが運良くぴったりの数だった。プラス先刻の「赤青」コンビにはまとめて一発しか消費しなかったこともあり、余裕はひとつ出来ている状態。大丈夫。この得体の知れなさ過ぎるヒトにも、こいつなら通じるはずだ。そしてもうひとつ、例の謎の「水色ポーション」のアンプルもひとつ、村居さんに託されている。正直どこまで効果あるのかは分からないけど、最後の一押し発奮、の起爆剤くらいになってくれれば。僕は尻ポケットを指で触りつつ確認する。と、


「『緑条ロクジョウ』……『緑』に『条約条文』の『条』で『緑条』。実はボクだけが本名だったりするんだねぇこれが……他の皆はボクの傀儡……そしてキミたちがボクらを阻止しようとしに来たコト、ソレは納得だけれど絶対叶わないコトなんだなぁ……」


 僕らとはあいだ五メートルくらいの空間しか挟んでない。そこまで無防備に近づいて来られてしまったのか、逆に近づかせる事が出来たと言えるのか、その善し悪しは判断できないが、いま「匣」を投げ放てば、射程距離外に僕らは離脱できる間合いだ。この重く感じるようになった身体でも。この初っ端訪れた好機を……逃すな。


「……」


 しかし不気味だ。静けさをその細身に纏って相対する緑条の、緩くカーブを描く黒髪は耳や眉を覆うくらいに無造作に伸ばされていて、その下から覗く童顔と相まって、少年にも少女にも見える。だがよくよく見てみると細長く血色があまり無い首筋には幾本もの皺のようなものが走っており、肌の質感も全体的に枯れているかのようにも見える。そしてこちらの全てを見透かしてくるかのような深い闇のような色の瞳。全てがちぐはぐな、寄せ集めて作られたオブジェのような不気味さ、と言ったらいいか。いや、そんな比喩を弄んでいる場合でも無い。


「……」


 「匣」を小指薬指で握り込んだ右手で姫宮さんの左手を開かせるようにして握り、そのまま手渡そうとする。意図に気づいてくれたか、細い指の感触が僕の掌から体温と同じ熱を持った直方体を摘まみ上げてくれる。互いの手が離れる前に一度きゅっと強く握られた。顔を合わせることも言葉も交わすことも無かったが、それで伝わった。伝えられた気がした。


 挟み撃ち、その初発で決める。


 次の瞬間、僕と姫宮さんの身体は左右に分かれて駆け出している。僕の方はと言うと残る力を正に振り絞るようにガタガタの歩様だが、何とか砂利を蹴散らしつつも前へ身体を持っていく。緑条を、なるべくなら百八十度で挟むようにして、同時に「匣」を投げ放てたのならば。


「……ッ!!」


 姫宮さんの方はさらに残る正三角形の薄片「錐片テトラエドォ」を最大限散らして展開させてくれているようだ。これなら……ッ!!


 しかし、だった……


「あは。ボクはさぁ、『感情』の流れ方から相手の『思考』の逐一が読み取れちゃうんだよなぁ……ニンゲンの考えることなんてさぁ、大枠で言うと大差なんて無いんだよ、それこそ『四十二種類』にカテゴライズ出来るほどにさぁ。ま、この日本とかは特にさ、色々と『自分らしく』とか考えているように錯覚しているけどね。所詮は『遺伝子の乗り物』。そもそも『感情』に操られて生命活動をしているに過ぎない虚ろな依り代なんだよなぁ」


 緑条は、何もしていない、ように見えた。しかしその身体周囲に迫っていた薄片も、その間隙を突いて投擲していた「匣」ふたつも、


「……!!」


 そのままその場で力を無くしたかのようにパラパラと落下していき、そのまま水音も鳴らさずに池の底へと沈み込んでいくという図が展開するばかりであって。何だ……?


「……しれっと理知的に充実した日々をこなしています風にさ、そんなヤツがいちばん腹立たしいんだよねえ……所詮『快不快』しか思考のベクトルを持たない、ぐどぐどの『感情』に小綺麗な上辺だけのラッピングを施してさぁ……」


 じりじりとこちらに迫って来ている。僕の方へ。「匣」はもう無い。


「だから一旦その化けの皮をこの都市の上物ごとひっちゃぶき剥がしてやろうと思ってさ。見たかい? 普段抑制出来ているかの『感情』『欲望』、ソイツらはきっかけを与えてやればすぐに突き破り出てくる。そうなったらもう後は空気感染のように伝播していくソレを見守るだけの簡単な作業だったよ。そしてこの乱痴気の後に何が残るかな? 上っ面の感情が役に立たない世界? 不相応にクソデカな欲望を脊髄に注入されたかのような害獣? 楽しそうだろう? そしてそうして、いっさいの建前忖度が通用しない不必要な欲望だけの世紀末チックな都のボクは……支配者になってみたいんだよねぇ、クローズド、なのにオープンなワールドのねぇぇ」


 こいつの、緑条の言っていることはまともじゃあ無い。だが、僕らが日常を送っていた場所が、いまこの瞬間もじわじわと混沌へと落とし込まれてきているのは、そのサマはここに来るまでに嫌と言うほど見てきた。それは認めなければならない。その上で勿論、こいつを封じなければならない。だが……どうやって。


「『匣』なら……まだあるよっ……フミヤくん!!」


 右手奥面から、そんな鋭い橙色の「声」が。と同時に僕の手元目掛けて投げられてきたのは、「錐片」。それらが寄り集まって形成されたこの立体は……「正八面体」。


 そうだ僕はひとりじゃない。


「あはは。何を何度やっても、その『白い光』を宿した『匣』は僕の身体には届かないよ。キミらにはボクの『感情の泡』ってヤツも視えてはいないようだしねえ……『透明の感情』。言葉にしてしまうと何ともロマンティックかもだけど、ボクはこれであらゆる感情をシャットし、ダウンさせることが出来るってわけだ。さらには中に込めた他人の『感情』を他の誰かに飛ばして付着させるとかもね。はは、最期だから逐一教えてあげるとね」


 視えない泡。それがおそらく緑条の身体周りを漂っているのだろう。そしてその身を水面下に落ちないように支えてもいるんだろう。それを使って……おそらくはその内に入れ込むことで、あらゆる「感情」にまつわるものを封じ込め無力化させてしまう……なるほど最上位互換な能力ということか。いや、それよりも「他の誰かに飛ばして付着」? また呼吸が覚束なくなる。何でだ。


 いや、落ち着け。「正八面体」を軽く握った右手に力を込め、「光匣体」を充填させる。身体の感覚から言って、これが最後のになりそうだった。必ず当て、そして封じる。それだけを考えるんだ。絶対に、奴の至近まで接近させる……!!

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